第十五話 石は、我慢を覚えた
エリアスは、毎日来た。
雨の日は少し遅れた。
風の強い日は、髪を乱して来た。
暑い日は、汗の匂いを強くして来た。
けれど、来た。
来る。
それは、セラにとって、とても好ましいことだった。
エリアスは、クッキーを持ってくるようになった。
最初は小さな欠片。
次は半分。
その次は一枚。
セラは少しずつ食べる練習をした。
急に口を開けない。
大きく開けすぎない。
エリアスの手に近付かない。
噛む時は、ゆっくり。
できるだけ、小さな音で。
それでも、ばり、と鳴る。
クッキーはすぐに砕ける。
甘い。
おいしい。
エリアスが笑う。
もっとおいしい。
エリアスは、セラが上手に食べるたびに褒めた。
「上手です、セラ。」
上手。
名前。
エリアスの声。
三つ一緒。
とても好ましい。
セラは、その言葉を聞きたいと思うようになった。
クッキーを食べる。
上手と言われる。
手をゆっくり動かす。
上手と言われる。
口を閉じて待つ。
上手と言われる。
エリアスが笑う。
セラの中が浮く。
エリアスが褒める。
もっと浮く。
セラは、上手になりたかった。
エリアスが怖がらないように。
エリアスが笑うように。
エリアスが、明日も来るように。
エリアスは、セラにたくさんの言葉を教えた。
甘い、苦い、硬い、柔らかい、熱い、冷たい。
近い、遠い、長い、短い、安全、秘密――。
秘密、という言葉を教えた時、エリアスは少しだけ声を低くした。
「秘密は、誰にも言わないことです。」
誰にも。
言わない。
セラはその言葉を聞いた。
「エリアスは、セラを秘密にしている?」
「……はい。」
エリアスは少し迷ってから頷いた。
「誰かに言えば、きっと大騒ぎになります。調べられて、見世物にされて、たぶん……セラは怖い思いをします。」
怖い思い。
好ましくない。
「秘密、好ましい?」
「僕は、そう思っています。」
エリアスは言った。
それから、少しだけ目を伏せた。
明るい緑の色が、少しだけ濃くなった。
「それに、まだ誰にも言いたくありません。」
セラはエリアスを見た。
誰にも言いたくない。
なぜだろう。
「なぜ?」
セラが聞くと、エリアスは少しだけ迷うような顔をした。
けれど、怖がってはいなかった。
「そう、ですね。」
エリアスは困ったように小さく笑った。
「父上に知られたら、きっと僕よりずっと詳しく調べようとします。母上に知られたら、二度と洞窟に来るなと言われるかもしれません。友人に知られたら、きっとセラは怖がられます。」
エリアスが来なくなる。
怖がられる。
セラは沈んだ。
それは好ましくない。
とても。
「でも、それだけではなくて。」
エリアスは、セラを見た。
緑の目が、いつもより少し静かだった。
そして、少しだけ声が低かった。
「……今は、僕だけが、セラを知っているでしょう?」
僕だけ。
セラはその言葉を聞いた。
エリアスだけ。
セラを知っている。
セラはそれを好ましいと思った。
とても好ましい。
「エリアスだけ。」
セラは繰り返した。
エリアスの顔が少し赤くなった。
「……はい。今のところは。」
「好ましい。」
セラが言うと、エリアスは目を瞬かせた。
「好ましいんですか。」
「うん。」
「僕だけが知っているのが?」
「うん。エリアスだけ。好ましい。」
エリアスは赤い顔のまましばらく黙った。
それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
「……そうですか。」
その声は、今までと少し違った。
セラにはまだうまく分からない。
でも、その声は沈んでいない。
怖くもない。
少し浮いている。
たぶん、嬉しい。
エリアスも嬉しい。
同じ。
とても好ましい。
その日から、秘密、という言葉も、セラの中で少し浮く言葉になった。
エリアスだけ。
セラだけ。
秘密。
好ましい。
夏が近付くと、洞窟の外の匂いが変わった。
草の匂いが強くなった。
土は乾いた匂いになった。
虫の音が増えた。
風は湿って重くなった。
エリアスの匂いも変わった。
汗。
日差し。
乾いた布。
少し疲れた匂い。
エリアスは洞窟に来るたび、入口の近くで息を吐いた。
「……暑い。」
暑い。
前にも聞いた言葉。
体が熱くなって、少し苦しいこと。
セラはそれを覚えていた。
「暑い、好ましくない?」
「少し、好ましくないですね。」
エリアスは笑いながら言った。
額に汗がついていた。
首筋にも汗がある。
金色の髪が、いつもより額に張り付いている。
エリアスは額を手で拭った。
それからシャツの襟元を引っ張った。
頬が赤い。
息が少し荒い。
エリアスが暑い。
好ましくない。
「エリアス、危ない?」
「危なくはありません。ただ暑いだけです。」
「心臓、止まらない?」
エリアスは笑った。
「止まりません。」
「大丈夫?」
「大丈夫です。」
大丈夫。
好ましい。
でも、エリアスは暑そう。
少し好ましくない。
セラは考えた。
暑いは危ないほどではない。
でも、少し好ましくない。
好ましくないものは、減らしたい。
どうすれば減るのだろう。
エリアスは洞窟の奥を見た。
それから、セラを見た。
セラの体は、いつも冷たかった。
石だから。
冷たい。
暑いの反対。
エリアスは、ふと思いついたように目を細めた。
「セラ、少し触ってもいいですか。」
触る。
セラの中の何かが浮いた。
前も触れた。
手に。
エリアスの指が触れた。
温かかった。
すぐ離れた。
もっと、と思った。
でも、危ないから動かなかった。
今日は、エリアスから触ると言った。
好ましい。
とても好ましい。
とても、とても好ましい。
「いい。」
セラはすぐに答えた。
エリアスは少し笑った。
「早いですね。」
「エリアスが触る、とても好ましい。」
エリアスの頬が、暑さとは少し違う赤さになった。
「……そうですか。」
エリアスは慎重に近付いた。
前よりもずっと近い。
怖いはまだある。
でも、エリアスは逃げない。
セラは動かなかった。
手も止めた。
口も閉じた。
目もゆっくり。
エリアスが怖がらないように。
エリアスが近付けるように。
エリアスはセラの横に膝をついた。
今までで一番近かった。
エリアスの匂いが強い。
全部が近い。
近いは好ましい。
とても好ましい。
セラの中が浮きすぎて、どうすればいいのか分からなくなった。
内側が大きく膨らんで弾けそうだった。
動きたい。
でも動かない。
触りたい。
でも触らない。
守る。
怖がらせない。
約束。
エリアスは手を伸ばし、セラの体の表面に触れた。
ぺたり。
温かい手。
冷たい石。
セラは、その違いを受けた。
温かい。
エリアスの手は温かい。
前に指先で触れた時より、ずっと広く温かい。
セラの表面に、エリアスの手の形が乗っている。
セラは動かなかった。
動けなかった。
動いたら、この温かいものが離れてしまうかもしれない。
それは好ましくない。
「冷たい。」
エリアスが言った。
「石だから。」
「そう、ですね。」
エリアスは少し笑った。
そして、もう片方の手もセラに触れた。
両手。
温かい。
二つ。
セラは何かを言いたかった。
でも、口を開けるとエリアスが怖がるかもしれない。
それに、言葉が見つからなかった。
好ましい。
では足りない。
嬉しい。
でも少し違う。
近い。
温かい。
触れる。
離れたくない。
離れたくない。
もっと。
もっと近く。
エリアスは、セラの冷たさにほっとしたように息を吐いた。
「気持ちいい。」
気持ちいい。
新しい言葉。
セラはその言葉を聞いた。
エリアスの声は柔らかい。
暑い時より好ましい。
エリアスの好ましくないが減ったらしい。
セラは浮いた。
「気持ちいい、好ましい?」
「はい。好ましいです。」
エリアスは答えた。
セラの体が冷たい。
エリアスが気持ちいい。
好ましい。
セラは初めて、自分が冷たいことを好ましいと思った。
石は冷たい。
前は、ただそうだった。
今は違う。
冷たいと、エリアスが近付く。
冷たいと、エリアスが触る。
冷たいと、エリアスが気持ちいいと言う。
冷たい。
好ましい。
とても好ましい。
エリアスはしばらくセラに手を当てていた。
やがて、少し身を寄せた。
肩がセラに触れる。
セラは固まった。
肩。
腕。
体の、布越しの体温。
手よりも広い。
近い。
とても近い。
エリアスの息がすぐそばで聞こえる。
髪の匂いがする。
汗の匂いもする。
セラはゆっくりと目を動かし、エリアスの首筋を見た。
薄く汗が光っている。
柔らかく白い皮膚が動く。
息をするたびに、喉が少し上下する。
柔らかそう。
温かそう。
もし、口に入れたら。
危ない。
セラはすぐに目を逸らした。
エリアスは食べない。
手も食べない。
首も食べない。
何も食べない。
クッキーだけ。
少しずつ。
小さく。
約束。
セラは歯をかみ合わせた。
かちり、と小さな音が鳴った。
エリアスがふっと顔を上げた。
「セラ?」
声が近い。
セラは口を閉じたまま答えた。
「約束、守る。」
エリアスは一瞬きょとんとした。
「何の、約束ですか?」
「エリアス、食べない。」
エリアスの体が少し硬くなった。
セラは沈んだ。
しまった。
また怖がらせた。
でも、言わないといけない気がした。
約束は大事。
絶対。
「食べない。触っても、近くても、エリアス食べない。守る。」
エリアスはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……そういう時は、できれば急に言わないでください。」
「ごめん。」
「……でも、守ろうとしてくれているのは、分かりました。」
エリアスは少しだけ苦笑した。
怖い。
でも、嫌いではない。
たぶん、またその顔。
セラは沈んだまま、少し浮いた。
複雑。
エリアスはセラから少し離れようとした。
セラの中が、急に沈んだ。
離れる。
好ましくない。
手が離れる。
肩が離れる。
温かいが消える。
好ましくない。
セラの手が動きそうになった。
引き止めたい。
届く。
手がある。
エリアスに届く。
腕を掴める。
離れないようにできる。
そう考えた瞬間、セラは手を止めた。
だめ。
急に動かさない。
エリアスが怖がる。
掴む。
危ない。
硬い手。
傷付けるかもしれない。
守るなら、掴まない。
セラは必死に手を止めた。
指の先が、かすかに震えた。
かち。
かち。
小さな音がする。
エリアスはその音に気付いた。
セラの手を見た。
「……動かしたいんですか?」
セラは答えなかった。
答えると、また怖いことを言うかもしれない。
でも、エリアスは待っていた。
待っている。
質問。
答えないと、きっと困る。
セラは小さく言った。
「離れる、好ましくない。」
エリアスは目を見開いた。
「僕が?」
「うん。」
「離れるのが?」
「うん。」
「だから、手を動かしたかった?」
セラは少し迷った。
正直に言うと怖がられるかもしれない。
でも、心と違うことを言うのは、きっと良くない。
セラは正直に言った。
「掴む、考えた。」
エリアスの顔がまた強張った。
セラはすぐに続けた。
「でも、しない。危ない。エリアス怖い。傷付く。守る。だから、しない。」
エリアスは黙っていた。
セラは沈んだ。
沈んで、沈んで、洞窟の地面より下へ行きそうだった。
近い。
温かい。
離れたくない。
掴みたい。
でも、掴んではいけない。
エリアスが怖がる。
エリアスは嫌いになるかもしれない。
怖い。
セラも怖い。
エリアスが来なくなることが、怖い。
エリアスはしばらく考えていた。
そして、ゆっくり言った。
「セラ。」
名前。
セラは少し浮いた。
「それでも、掴まなかったんですね。」
「うん。」
「我慢した?」
我慢。
新しい言葉。
「がまん?」
「したいことを、すぐにしないこと。相手を困らせないために、止めることです。」
したいことをしない。
エリアスを困らせないために。
止める。
セラは、それをした。
掴みたかった。
でも、止めた。
我慢。
「我慢、した。」
セラは言った。
エリアスの表情が、少し変わった。
怖いは残っている。
でも、柔らかいものもある。
「ありがとうございます。」
ありがとう。
セラは沈んだまま、少し浮いた。
「我慢、好ましい?」
「とても、好ましいです。」
とても。
好ましい。
我慢はとても好ましい。
エリアスを怖がらせないためにする。
エリアスを守るためにする。
エリアスがありがとうと言う。
我慢。
大事。
セラは体の中で何度も繰り返した。




