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第十四話 石は、複雑を抱えた

「ごめん。」


 セラは、口をできるだけ動かさないようにして言った。

 エリアスはぎこちなく、少しだけ笑った。


 まだ少し怖そうだった。

 でも、笑っていた。


「……もっと、食べたいですか?」


 もっと。

 食べたい。

 セラは考えた。


 食べたい。

 これは、そういう気持ちなのだろうか。

 クッキーをもっと口に入れたい。

 甘いをもっと知りたい。

 エリアスがもっと笑うなら、もっと食べたい。


「もっと、食べたい。」


 セラは言った。

 エリアスは布の上のクッキーを見た。


「では、もう一つ。」


 エリアスはまた石の手の上にクッキーを置いた。

 今度は、さっきより少し落ち着いていた。

 セラのことをじっと見ていた。

 たぶん、記録する、のかもしれなかった。


 セラも、ゆっくり口を開けた。

 クッキーが歯に触れる。


 セラは今度は、もっとゆっくり噛んだ。

 それでも、ばり、と音がした。

 クッキーはすぐに砕けた。


 柔らかい。

 小さい。

 すぐなくなる。

 おいしい。


 もっと大きなものなら、もっと長くおいしいのだろうか。

 セラはふと、そう思った。


 大きなもの。

 パン。

 木の実。

 花。

 エリアスの持ってくるもの。


 もっと大きなもの。

 もっと柔らかいもの。

 もっと温かいもの。


 セラは、エリアスの手を見た。

 さっきクッキーを持っていた手。


 柔らかい。

 温かい。

 昨日触れた手。


 セラは一瞬、その手を口に入れたらどうなるのか考えてしまった。


 甘いだろうか。

 砕けるだろうか。

 痛いだろうか。


 エリアスは怖がるだろう。

 エリアスが傷付く。

 危ない。

 守る。


 食べない。

 エリアスは食べない。

 絶対に食べない。


 セラは口を固く閉じた。

 歯が、かちりと鳴った。


 エリアスが首を傾げた。


「セラ?」


 名前を呼ばれた。

 セラはエリアスを見た。

 エリアスは少し戸惑った顔をしていた。


 不安、怖い、分からない。

 たぶん、まだ教わっていない言葉たち。


 エリアスがセラを見て、そんな顔をしている。


 セラは沈んだ。

 エリアスを悪くさせた。

 好ましくない。


「食べない。」


 セラは言った。

 エリアスは瞬きをした。


「もう食べないんですか?」


「エリアス、食べない。」


 エリアスは固まった。

 セラは、また間違えたのだと分かった。

 エリアスの顔がまた強張った。


「……僕を、という意味ですか。」


「うん。」


「今、それを考えていたんですか?」


 エリアスの声が少し震えた。

 怖い。

 好ましくない。


 セラは慌てた。

 慌てる。

 たぶん、今のこの浮いたり沈んだりが乱れる感じ。


「ちがう。考えた。でも食べない。危ない。痛い。エリアス、なくなる。好ましくない。守る。食べない。」


 言葉がうまく並ばなかった。

 セラは必死に言った。


 エリアスを食べない。

 食べたいではない。

 ただ、クッキーが砕けた。

 大きなものを考えた。

 手を見た。

 でも、エリアスは食べない。


 傷付けない。

 守る。


 エリアスはしばらく黙っていた。


 布の上のクッキー。

 セラの口。

 白い歯。

 石の手。

 それから、自分の手。


 エリアスは、それらを順に見た。


 怖い。

 怖いは戻ってきた。

 セラは沈んだ。


 やはり、食べるは危ない。

 口は危ない。

 歯は危ない。


 おいしいは好ましい。

 でも、危ない。

 複雑。


 セラは、もうクッキーを見ないようにした。

 見たら、もっと食べたいと思うかもしれない。


 もっと食べたいと思ったら、エリアスが怖がるかもしれない。

 怖がらせたくない。

 だから、見ない。


 エリアスは長い間考えていた。

 緑の目が揺れている。


 逃げたい。

 考えたい。

 怖い。

 知りたい。

 それから、何か別のもの。


 エリアスの中には、たくさんある。

 セラよりたくさん。


 やがてエリアスは、ゆっくり息を吐いた。


「……正直に言ってくれて、ありがとうございます。」


 ありがとう。

 セラは目を動かした。


 エリアスの顔はまだ強張っている。

 でも、逃げていない。


「怖くは、あります。」


 セラは沈んだ。


「でも、セラが僕を傷付けないように、必死に考えてくれたのは、分かりました。」


 セラはエリアスを見た。


 怖い。

 でも分かった。

 嫌いではない。

 たぶん。


 エリアスは続けた。


「だから、食べる練習も、少しずつにしましょう。」


 練習。

 少しずつ。

 食べる練習。


 セラは口を閉じたまま、小さく声を出した。


「練習。」


「はい。急にたくさん食べない。危ないものは食べない。僕の手も……食べない。」


「エリアスの手、食べない。」


「はい。絶対に。」


「絶対。」


「絶対です。」


 絶対。

 強い約束の言葉らしかった。

 セラは覚えた。


 エリアスの手は食べない。

 エリアスは食べない。

 絶対。


 エリアスは少しだけ表情を緩めた。


「でも、クッキーはもう一つ食べますか?」


 セラは迷った。

 食べたい。

 でも、怖がらせたくない。


 エリアスはそれを見て、布の上の小さな欠片を取った。

 丸い一枚ではなく、割れた小さな欠片。


「これなら、小さいです。」


 セラは考えた。

 小さいクッキー。

 食べる。


 エリアスの手は遠い。

 ゆっくり。

 約束。


「小さい。食べる。」


 セラは言った。

 エリアスは石の手に欠片を乗せた。


 セラは、ゆっくり口を開けた。

 さっきより少しだけ。

 歯を見せすぎないように。

 欠片が石の手から舌のような場所に落ちた。


 舌。

 セラは、その時初めて、自分の口の中に少しだけ柔らかいものがあることを知った。


 前からあったのだろうか。

 クッキーを食べたからできたのだろうか。

 分からない。


 けれど、欠片がそこに触れた。


 甘い。

 小さい。

 おいしい。


 セラはゆっくり噛んだ。

 小さな音で砕けた。

 さく。


 エリアスが笑った。


「今のは、あまり怖くありませんでした。」


 怖くない。

 好ましい。

 とても好ましい。


「上手?」


「はい。上手です。」


 上手。

 セラは浮いた。


 食べるのが上手。

 怖がらせないのが上手。

 エリアスを守るのが上手。


 全部、上手になりたい。

 セラはそう思った。


 エリアスは残りのクッキーを布に包んだ。


「あとはまた今度にしましょう。少しずつです。」


「少しずつ。」


「はい。セラは色々なことを一度に覚えすぎると、少し大変そうです。」


 エリアスは少しだけ困ったように笑った。


 大変。

 知らない言葉。


「たいへん?」


「苦しかったり、困ったり、危なかったりしないか、気になることです。そういう時、心配、とも言います。」


 心配。

 新しい言葉。


 苦しくないか。

 困っていないか。

 危なくないか。

 気になること。


 エリアスは、セラを心配している。


 セラの中が、少し浮いた。

 けれど、少し沈んだ。


 エリアスがセラを気にしてくれるのは好ましい。

 でも、エリアスが困るのは好ましくない。


 心配。

 好ましいような。

 好ましくないような。

 複雑。


「心配、複雑?」


 セラが聞くと、エリアスは少し笑った。


「はい。心配は、複雑です。大事だと思うから、心配することもあります。」


 大事、心配。

 セラは、その言葉を覚えた。


 エリアスは紙を出し、何かを書き込み始めた。

 セラには読めない。

 けれど、エリアスの眉が少し寄っていることは分かった。


「エリアス。怖い?」


 エリアスは手を止めた。

 少し考えてから、言った。


「……そうですね、やはり少しだけ。」


 セラは沈んだ。


「でも、嫌いではありません。」


 セラは少し浮いた。


「怖い。でも嫌いではない。」


「はい。」


「複雑。」


「はい。複雑です。」


 エリアスは苦笑した。


「僕も、たぶん複雑です。」


 僕も。

 エリアスも。

 複雑が同じ。


 同じは好ましい。

 でも、違うもある。


 エリアスは柔らかい。

 セラは硬い。

 エリアスは温かい。

 セラは冷たい。


 エリアスは食べる。

 セラも食べた。


 エリアスは怖い。

 セラも少し怖い。


 エリアスは嫌いではない。

 セラは、エリアスがとてもとても好ましい。


 同じではない。

 でも、少し同じ。

 複雑。


 セラはその言葉を好きになり始めていた。


 複雑は、沈むだけではない。

 浮くだけでもない。

 両方がある。


 エリアスがいる時のセラの中に似ている。


 やがて、エリアスは紙をしまった。

 日が少し傾いていた。

 帰る時間が近付いている。


 セラの中がまた沈み始めた。

 エリアスはそれに気付いたのか、少し慌てたように言った。


「明日も来ますから。」


 浮いた。


「明日?」


「はい。明日も。」


「クッキー?」


 エリアスは小さく笑った。


「では、クッキーも、少し持ってきますね。」


 クッキー。

 おいしい。

 好ましい。


 けれど、セラはすぐに言った。


「少し。小さい。エリアスの手、食べない。」


 エリアスは一瞬ぽかんとした。

 それから、肩を震わせて笑った。


 怖い笑いではない。

 柔らかい笑い。

 とても好ましい笑い。


「はい。お願いしますね。」


「約束。」


「約束です。」


 約束。

 エリアスを食べない。

 手も食べない。

 急に口を開けない。

 小さいクッキーを、少しずつ。


 セラは覚えた。

 これは大事な約束。


 エリアスは鞄を肩にかけ、洞窟の入口へ向かった。

 途中で振り向く。


「それから、セラ。」


 名前。

 呼ばれた。

 やはり好ましい。


「お礼を受け取ってくれて、ありがとう。」


 ありがとう。

 また、ありがとう。

 でも、今度のありがとうは少し違った。


 お礼をもらったのはセラ。

 食べたのもセラ。

 おいしいを知ったのもセラ。

 それなのに、エリアスがありがとうと言った。


 複雑。

 でも好ましい。


「エリアス、ありがとう。」


 セラは言った。

 エリアスは少し目を大きくした。

 それから、とても柔らかく笑った。


「どういたしまして。」


 どういたしまして。

 新しい言葉。

 ありがとうの後に返す言葉らしい。

 セラはすぐに覚えた。


「どういたしまして。」


 セラが繰り返すと、エリアスはまた笑った。

 それから、洞窟を出ていった。


 足音が遠ざかる。

 匂いが薄くなる。

 

 洞窟は静かになった。


 セラは口を閉じていた。

 けれど、口の中にはまだ少し甘さが残っている気がした。


 セラは自分の歯を意識した。

 白く、硬く、ぎざぎざの歯。

 クッキーを簡単に砕いた歯。


 小さいものなら、すぐ砕ける。

 でも、大きいものなら、どうなるのだろう。


 セラは考えかけて、止めた。


 エリアスは食べない。

 手も食べない。

 絶対。

 約束。


 セラは歯を合わせた。

 かちり。

 洞窟の奥に、小さな音が響いた。


 もし誰かが見ていたら、きっと怖かった。

 目と鼻と口と手のある石が、暗い洞窟の奥で、歯を鳴らしているのだから。


 けれど、セラはただ約束を確かめていただけだった。


 エリアスを食べない。

 エリアスを傷付けない。

 エリアスを守る。

 クッキーは、少しずつ。


 エリアスが怖がらないように。

 エリアスが笑うように。

 上手と言ってくれるように。


 今日覚えた言葉も何度も思い出した。

 言葉が増える。

 セラの中が増える。

 複雑が増えていく。


 セラは、複雑をゆっくり抱えた。


 洞窟の奥で、明日を待ちながら。

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