第十三話 石は、おいしいを覚えた
石は、お礼を待った。
お礼。
ありがとうの気持ちを返すこと。
エリアスが、そう教えてくれた。
セラはその言葉を何度も思い出した。
お礼。
ありがとう。
返す。
エリアスが、セラに返す。
何を返すのだろう。
声だろうか。
言葉だろうか。
紙だろうか。
花だろうか。
セラには分からなかった。
分からない。
でも、好ましい。
分からないのに、好ましい。
それは少し不思議だった。
前は、分からないものは好ましくないことが多かった。
けれど、エリアスが持ってくるものなら、分からなくても好ましいかもしれない。
セラはそう考えた。
考える、が少しできるようになっていた。
まだ上手ではない。
すぐ同じところを回る。
けれど、前よりは少し遠くまで行ける。
エリアスが言葉をくれる。
言葉が増える。
言葉が増えると、セラの中も増える。
好ましい。
石は手を動かす練習をしていた。
右、左、曲げる、伸ばす、縮める、止める、待つ。
急に動かさない。
ゆっくり動かす。
エリアスが怖がらないように。
エリアスを傷付けないように。
エリアスを守れるように。
手は、まだうまく動かなかった。
石の手は重い。
硬い。
指は長く、節が多く、思った通りには曲がらない。
少し動かすだけで、かちり、と音がした。
その音は、少し好ましくなかった。
エリアスがいたら、怖がるかもしれない。
だから、エリアスがいない間に練習する。
練習。
上手になるために、何度もやること。
エリアスが教えてくれた言葉。
セラは練習が少し好きになった。
練習すると、エリアスに上手と言ってもらえるかもしれない。
上手。
好ましい言葉。
とても好ましい言葉。
朝の光が洞窟に入った。
セラは入口を見た。
約束。
急に動かさない。
エリアスが来るまでは動かしてもいい。
でも、エリアスが来たら止める。
怖がらせない。
守る。
しばらくして、風が入った。
草の匂い。
土の匂い。
木の葉の匂い。
それから、エリアスの匂い。
セラの中の何かが浮いた。
来る。
エリアスが来る。
お礼が来る。
足音が近付く。
昨日より、少し軽い足音だった。
エリアスは洞窟の入口に現れた。
今日はランタンを持っていなかった。
昼の光だけで十分だったからかもしれない。
金属の棒も持っていない。
革鞄を肩にかけている。
片手に、小さな包みを持っている。
布でくるまれた、丸い包み。
セラはそれを見た。
お礼。
たぶん、あれがお礼。
エリアスは洞窟の入口で止まり、少しだけ肩を整えた。
まだ怖いがある。
でも、昨日より少ない。
好ましい。
「こんにちは、セラ。」
セラ。
名前を呼ばれた。
石ではない。
ただの石ではない。
セラ。
好ましい。
セラは口を少しだけ開けた。
歯を見せないように。
暗い奥を見せないように。
「こんにちは、エリアス。」
エリアスは小さく笑った。
「今日も上手です。」
上手。
セラの中が浮いた。
「上手、好ましい。」
「はい。僕も、セラが上手になるのは好ましいです。」
エリアスが、またセラの言葉を使った。
好ましい。
同じ。
セラは手を動かしたくなった。
嬉しいから。
けれど、急に動かすのは約束と違う。
セラは手を止めたままにした。
エリアスはそれに気付いたように、石の手を見た。
「手も動かしていませんね。」
「約束。急に動かさない。」
「覚えていてくれて、ありがとうございます。」
ありがとう。
セラはまた浮いた。
ありがとうは、やはり何度聞いても好ましい。
エリアスは昨日より少し近い場所に座った。
逃げようと思えば逃げられる。
でも、きっと逃げるためだけの距離ではない。
セラはそう思った。
前より近い。
好ましい。
エリアスは布の包みを膝の上に置いた。
「昨日、助けてくれたお礼です。」
お礼。
セラは包みを見た。
布の隙間から、甘い匂いがした。
花ではない。
土でもない。
木でもない。
エリアスの匂いでもない。
けれど、どこか柔らかい。
温かい匂い。
甘い匂い。
少し焼けた匂い。
初めての匂いだった。
セラの鼻の穴が、ひくりと動いた。
エリアスが一瞬だけ固まった。
セラはすぐに止めた。
「ごめん。」
「いえ。今のは、匂いを嗅いだだけですよね。」
「匂い。好ましい。知らない匂い。」
エリアスは少し安心したように笑った。
「クッキーです。」
クッキー。
新しい言葉。
セラはその音を覚えた。
「くっきー。」
「はい。小麦粉と砂糖とバターで作るお菓子です。」
小麦粉、砂糖、バター、お菓子。
知らない言葉がたくさん出てきた。
セラの中で、言葉がころころ転がった。
まだ意味は分からない。
けれど、エリアスの声は明るい。
布の中の匂いは甘い。
たぶん、好ましいもの。
エリアスは布を開いた。
中に、小さな丸いものがいくつかあった。
薄い茶色。
ところどころ濃い色。
表面に小さなひび。
石よりずっと薄い。
ガラス玉より柔らかそう。
パンに少し似ている。
けれど、パンより甘い匂いがする。
エリアスは一枚を手に取った。
「食べ物、です。」
食べ物。
セラは口の奥が少し動くのを感じた。
前に、エリアスはセラに「食べたいのか」と聞いた。
セラは分からなかった。
今も、よく分からない。
けれど、この匂いは好ましい。
エリアスが持ってきた、お礼。
ありがとうの気持ち。
食べ物。
「エリアスが食べる?」
セラが聞くと、エリアスは頷いた。
「僕も食べます。こうやって。」
エリアスはクッキーを口元へ持っていき、小さくかじった。
さく、と音がした。
エリアスの口が動く。
噛む。
飲み込む。
エリアスの表情が少し柔らかくなる。
「おいしいです。」
おいしい。
新しい言葉。
セラはその言葉を聞いた。
おいしい。
エリアスの顔が柔らかくなる言葉。
好ましいに近いのだろうか。
「おいしい?」
「食べた時に、好ましいと思うことです。」
食べた時の好ましい。
おいしい。
セラはクッキーを見た。
茶色い。
薄い。
甘い匂い。
エリアスが柔らかい顔になるもの。
おいしいもの。
好ましいもの。
「セラも、食べますか?」
エリアスが言った。
セラは動かなかった。
食べる。
口を開ける。
歯を使う。
噛む。
飲む。
口を開けると、エリアスは怖がる。
歯が見える。
暗い奥が見える。
それは好ましくない。
でも、エリアスは食べますかと聞いた。
お礼を持ってきた。
セラに食べてほしいのかもしれない。
食べないと、エリアスが困るかもしれない。
食べる。
怖がらせるかもしれない。
食べない。
困らせるかもしれない。
複雑。
セラは少し考えた。
エリアスは待っていた。
急かさない。
ただ、クッキーを持って待っている。
セラは言った。
「口、大きく開ける。怖い?」
エリアスは少しだけ眉を上げた。
それから、慎重に言った。
「……たぶん、少し怖いです。」
セラは沈んだ。
でも、エリアスは続けた。
「でも、分かっていれば大丈夫です。急にじゃなければ。」
急にじゃなければ。
大丈夫。
急には駄目。
ゆっくりなら大丈夫。
「ゆっくり、口を開ける。」
「はい。僕も、少し離れて渡します。」
「エリアス、危なくない?」
エリアスは一瞬黙った。
そして、小さく笑った。
「危なくないように、手に渡しますね。」
エリアスは、クッキーを一枚手に取った。
それを、そっと石の手の方へ差し出した。
石の開いた手の上にクッキーが乗る。
「食べて、いいですよ。」
石はエリアスを見た。
エリアスは少し強張った顔つきで、それでも頷いた。
石は、手のひらに乗ったクッキーを見た。
甘い匂いが強くなる。
エリアスの手は少し遠い。
危なくない。
たぶん。
セラは口を少し開けた。
エリアスの肩が小さく動いた。
セラは止まった。
「待つ?」
「……大丈夫です。ゆっくり。」
ゆっくり。
セラは口をもう少し開けた。
歯が見える。
白く、硬く、ぎざぎざの歯。
洞窟の薄闇の中で、石の口が横に開いていく。
奥は暗い。
どこまで続いているのか分からない。
クッキーよりもずっと大きい口。
エリアスよりも小さい。
でも、エリアスの手くらいなら、たぶん入る口。
セラはそれを考えてしまった。
エリアスの手は入る。
エリアスの手は柔らかい。
温かい。
危ない。
好ましくない。
食べない。
エリアスは食べない。
クッキーを食べる。
お礼を食べる。
おいしいを知る。
石の口から続く場所が、ぐっと深く広がった。
暗い奥が、何かを食べる為に大きくなった。
セラは口を開けたまま、ゆっくりと手を口へ近付けた。
クッキーが歯に触れた。
軽い音がした。
かり。
セラは、どうすればいいのか一瞬分からなかった。
噛む。
エリアスの口の動き。
上の歯と下の歯を合わせる。
セラはそれをまねた。
ゆっくり。
けれど、石の歯は硬かった。
クッキーはやわらかかった。
ばり。
大きな音がした。
クッキーが砕けた。
エリアスの肩がびくっと跳ねた。
セラも止まった。
砕けた。
なくなった。
小さな欠片が口の中に散った。
甘いものが広がった。
粉のようなもの。
焼けた匂い。
砂糖。
バター。
名前を知らない、たくさんのもの。
口の中で崩れる。
硬い歯で砕ける。
小さくなる。
なくなる。
甘い。
好ましい。
これは、好ましい。
食べる。
おいしい。
これが、おいしい。
セラは目を大きくした。
目がぎょろりと動いた。
エリアスがまた少し固まった。
セラはすぐに目を止めた。
でも、口の中は甘い。
初めての味。
味。
まだよく分からない言葉。
けれど、食べ物の匂いが口の中に広がるようなもの。
好ましい。
おいしい。
セラは飲み込もうとした。
飲み込む、もよく分からない。
でも、口の奥が動いた。
砕けたクッキーが、石の奥へ落ちていった。
どこへ行ったのかは分からない。
体の中。
石の中。
暗いところ。
消えた。
でも、消えるのは好ましくなかったはずなのに、これは好ましい。
なくなる。
でも、おいしい。
複雑。
セラはゆっくり口を閉じた。
歯がかちりと鳴った。
エリアスは少し強張った顔で、でも目を輝かせていた。
「……食べられた、のか。」
セラは口の奥に残る甘さを感じながら、エリアスを見た。
「おいしい。」
エリアスの表情が一気に明るくなった。
「本当に?」
「おいしい。好ましい。甘い。砕ける。なくなる。でも好ましい。」
エリアスは笑った。
さっきまで怖がっていた顔が、今は笑っている。
セラは、それを見てまた浮いた。
クッキーはおいしい。
エリアスが笑う。
もっとおいしい。
セラはそう思った。
おいしいは、口だけではないのかもしれない。
エリアスが笑うと、セラの中もおいしいに似たものになる。
でも、それをどう言えばいいのか分からない。
「よかった。」
エリアスは嬉しそうに言った。
嬉しい。
エリアスが嬉しい。
セラも嬉しい。
同じ。
好ましい。
セラはもう一度、クッキーを見た。
布の上に、まだいくつかある。
丸い。
茶色い。
甘い匂い。
さっきの好ましいもの。
おいしいもの。
エリアスが持ってきたお礼。
セラは思った。
もっと食べたい。
そう思った。
もっと。
おいしいをもっと。
甘いをもっと。
砕けるをもっと。
なくなるをもっと。
エリアスが笑うのをもっと。
もっと。
もっと。
もっと。
セラの口が少し開いた。
エリアスの目が、それに気付いた。
セラも気付いた。
しまった。
セラはすぐに口を閉じた。
エリアスもセラもしばらく黙ったまま固まっていた。




