第十二話 石は、お礼を待った
手を隠したい。
でも、手は大きく伸びている。
戻し方が分からない。
石は指を少し動かした。
かち。
硬い音がした。
エリアスがびくっとした。
石はすぐに止めた。
「ごめん。」
石は小さく言った。
エリアスはまだ黙っていた。
石は口も閉じたかった。
でも、言わなければいけない気がした。
「怖い?」
エリアスは答えなかった。
石は沈んだ。
とても沈んだ。
「手、好ましくない?」
エリアスは、ようやく息を吸った。
長く、震える息だった。
そして、吐いた。
「……びっくり、しました。」
びっくり。
怖いに近いけれど、同じではない言葉。
石は待った。
エリアスは手を見た。
石の手。
ごつごつした手。
枯れた枝のような指。
剥き出しの骨のような関節。
エリアスの手とは違う手。
それから、自分の頬に触れた。
刺されていない。
痛くない。
エリアスはそれを確かめているようだった。
そして、石を見た。
「……蜂を、追い払ってくれたんですか?」
「危ない。エリアス、危ない。守る。」
石は言った。
エリアスの表情が変わった。
怖い顔。
驚いた顔。
考える顔。
それから、少し違う顔。
石にはまだ名前の分からない顔だった。
エリアスはゆっくり、自分の手を見た。
それから、石の手を見た。
「僕を、守ろうとしてくれたんですか?」
「うん。」
「だから、手が?」
「届きたかった。」
石は言った。
「蜂に、届きたかった。手があれば、守れる。」
エリアスは黙った。
石は怖かった。
石も、怖いを少し知った。
エリアスが黙ると、怖い。
何を考えているのか分からない。
逃げるかもしれない。
来なくなるかもしれない。
嫌いになるかもしれない。
怖いと、嫌いは同じではない。
けれど、怖いが大きくなったら、嫌いに届くかもしれない。
石には分からない。
分からないことは、怖かった。
エリアスはゆっくり言った。
「セラ。」
名前。
エリアスが、石の名前を呼んだ。
石の中が浮いた。
「セラ。」
エリアスはもう一度呼んだ。
今度は、さっきより柔らかかった。
「助けてくれて、ありがとう。」
ありがとう。
石は動かなかった。
動けなかった。
手も、口も、目も、何も動かせなかった。
エリアスがありがとうと言った。
怖い手に。
好ましくないかもしれない手に。
ありがとうと言った。
エリアスは逃げていない。
来なくなっていない。
今、ここにいる。
石を見ている。
名前を呼んでいる。
ありがとうと言っている。
石の中の何かが、今までにないほど浮いた。
嬉しい。
石は嬉しかった。
嬉しい。
とてもとても、嬉しい。
「ありがとう、好ましい。とても。とても。」
石は言った。
声が少し震えた。
石の声なのに。
硬い石の奥から出る声なのに。
少し震えた。
エリアスはその声を聞いて、また少しだけ表情を変えた。
怖い顔ではなかった。
柔らかい。
困っている。
でも、嫌いではない。
そんな顔。
エリアスは一歩、石の方へ近付いた。
石は固まった。
近い。
エリアスが近い。
好ましい。
でも、手がある。
怖がらせるかもしれない。
石は手を動かさないようにした。
指も動かさない。
口も開けない。
目もゆっくり。
エリアスは石の手の少し手前で止まった。
まだ触れない。
けれど、とても近い。
エリアスは石の手をじっと見た。
「痛くは、ないんですか。」
痛い。
エリアスが教えてくれた言葉。
傷付いた時の好ましくない感じ。
石は考えた。
手ができた時、ひびが入った。
石の表面が割れた。
何かが出た。
でも、好ましくない感じはなかった。
ただ、届きたいと思った。
「痛くない。」
「本当に?」
「うん。石だから。」
エリアスは少し眉を寄せた。
「石だから……。」
「エリアスは、痛い?」
「刺されていないので、大丈夫です。」
大丈夫。
好ましい。
石は浮いた。
「大丈夫、好ましい。」
「はい。セラのおかげです。」
セラのおかげ。
おかげ。
知らない言葉。
でも、エリアスの声は柔らかい。
好ましい言葉らしい。
石は覚えた。
おかげ。
エリアスはもう一歩近付いた。
石の手まで、あと少し。
石は内側が騒がしくなった。
近い。
エリアスが近い。
エリアスの匂いが強い。
エリアスは手を伸ばした。
自分の手。
柔らかそうな手。
石が何度も見ていた手。
ものを持つ手。
パンをちぎる手。
名前を書いた手。
その手が、石の手に近付く。
石は動かなかった。
動かない。
約束ではない。
でも、今は動かない方がいい。
エリアスが怖がらないように。
エリアスの指先が、石の手に触れた。
こつん。
小さな音がした。
触れた。
エリアスが、触れた。
石は初めて、触れられることをはっきり知った。
光が当たるのとは違う。
風が撫でるのとも違う。
水が落ちるのとも違う。
エリアスの指は温かかった。
温かい。
柔らかい。
石の中の何かが、一気に浮いた。
けれど、石は動かなかった。
動いたら、エリアスが怖がる。
触れている。
まだ触れている。
少しだけ。
エリアスの指が、石のごつごつした手をなぞった。
「硬い。」
エリアスが言った。
「石だから。」
「そう、ですね。」
エリアスは少し笑った。
そして、すぐに手を引っ込めた。
触れていた場所が、なくなった。
石の手は冷たいままだった。
でも、そこだけ少し違う気がした。
エリアスが触れた場所。
好ましい場所。
大事な場所。
石はそこを動かしたくなった。
触れ返したい。
同じにしたい。
エリアスが触れた。
セラも触れる。
同じ。
好ましい。
けれど、石の手は大きく、硬く、怖い。
触れたら、エリアスが痛いかもしれない。
傷付くかもしれない。
危ない。
守る。
エリアスを守るなら、触れない。
石は手を動かさなかった。
エリアスはそれを見ていた。
「動かさないで、いてくれているんですか。」
「エリアス、危ない。手、硬い。触る、危ない?」
エリアスは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり言った。
「ゆっくりなら、大丈夫、だと思います。」
大丈夫。
触ってもいい。
ゆっくりなら。
石は手を動かそうとした。
初めての手。
さっきは守るために振った。
今度は、触れるために動かす。
まったく違う。
手は重かった。
指はぎこちなかった。
石はゆっくり、ゆっくり、指を伸ばした。
エリアスの手の方へ。
エリアスは逃げなかった。
少し体は硬い。
でも、逃げない。
怖い。
でも嫌ではない。
複雑。
石の指先が、エリアスの指に触れた。
ほんの少し。
こつん。
エリアスの指は温かかった。
石の指は冷たかった。
硬い。
柔らかい。
冷たい。
温かい。
違う。
同じではない。
でも、触れている。
好ましい。
石はそのまま動かなかった。
これ以上動くと、危ないかもしれない。
守る。
エリアスを守る。
だから、触れるのは少しだけ。
エリアスは、少し震えながらも手を引かなかった。
「……上手です。」
上手。
石は浮いた。
中がふわりと膨らんだ。
「上手、好ましい。」
「はい。とても。」
エリアスの声は、少し震えていた。
でも、怖いだけではなかった。
石はそれを聞いた。
嬉しい。
怖い。
驚く。
知りたい。
たぶん、エリアスの中にもたくさんある。
石の中にもたくさんある。
同じ。
少し同じ。
それから、エリアスはそっと手を離した。
石も手を止めたままにした。
触れた場所が、また少し違う気がした。
エリアスは散らばった紙を拾い、落ちたパンを拾った。
洞窟はまた静かになった。
けれど、少し前とは違う。
石には手があった。
エリアスに触れた手。
エリアスを守った手。
怖いけれど、ありがとうと言われた手。
石はその手をゆっくり見た。
ごつごつしている。
長い。
細い。
曲がっている。
エリアスの手とは全然違う。
でも、手。
好ましい。
少し好ましくない。
複雑。
エリアスは鞄をしまいながら言った。
「今日は、もう帰ります。母上に見つかる前に戻らないと。」
帰る。
石の中が沈んだ。
けれど、エリアスは続けた。
「明日、また来ます。」
浮いた。
「明日。」
「はい。あと、助けてくれたお礼を持ってきます。」
お礼。
ありがとうと似ている言葉だろうか。
石は首を傾げる代わりに、目を少し動かした。
「おれい?」
「何かをしてもらった時に、ありがとうの気持ちを返すことです。」
ありがとうの気持ちを返す。
エリアスが何かを返す。
石に。
セラに。
好ましい。
「お礼、好ましい?」
「たぶん、好ましいと思います。」
たぶん。
でも、エリアスのたぶんは少し柔らかかった。
石はそれを好ましいと思った。
「待つ。」
石は言った。
エリアスは頷いた。
「はい。待っていてください、セラ。」
セラ。
名前を呼ばれた。
好ましい。
エリアスは洞窟の入口へ向かった。
途中で一度振り向き、石の手を見た。
まだ少し怖そうだった。
でも、さっきよりも目は柔らかかった。
「あの、その手、急に動かさないようにしてくださいね。」
「急に、動かさない。」
「約束です。」
「約束。」
石は答えた。
エリアスは小さく笑って、洞窟を出ていった。
洞窟は静かになった。
石は、伸びた手を見た。
戻し方はまだ分からなかった。
けれど、手はそこにあった。
エリアスを守るためにできたもの。
エリアスに触れたもの。
ありがとうと言われたもの。
少し怖いもの。
少し好ましいもの。
複雑なもの。
石は、手の指をほんの少しだけ動かした。
かち。
小さな音がした。
エリアスはもういない。
だから動かしていい。
明日までに上手になりたかった。
急に動かさない。
ゆっくり動かす。
エリアスを守る。
エリアスを怖がらせない。
エリアスに触れる時は、少しだけ。
石は手をゆっくり動かす練習をした。
右、左、曲げる、伸ばす、縮める、止める、待つ。
何度も。
何度も。
洞窟の奥で、石の手が静かに動いた。
もし誰かが見ていたら、きっと怖かった。
暗い洞窟の奥で、目と鼻と口のある石が、長い手を伸ばしては縮め、指を曲げたり伸ばしたりしているのだから。
けれど、石はただ練習していただけだった。
エリアスを怖がらせないために。
エリアスを守るために。
明日、エリアスが来た時に、上手と言ってもらうために。
石の中には、また言葉が増えていた。
忘れないように、何度も思い出した。
大事なものを、なくさないように。
エリアスの言葉を、なくさないように。
エリアスが触れた場所を、忘れないように。
暗い洞窟の奥で、石は明日を待った。
明日。
エリアスが来る。
お礼を持ってくる。
石は、セラは、それを待った。




