第十一話 石は、手を伸ばした
しばらく、エリアスは石に言葉を教えた。
朝、昼、夕方、夜、昨日、今日、明日。
右、左、近い、遠い、危ない、守る――。
危ない、という言葉の時、エリアスは少し真面目な顔をした。
「危ないは、傷付いたり、死んだりするかもしれない、ということです。」
傷付く。
死ぬ。
心臓が止まる。
動かなくなる。
好ましくない。
とても、好ましくない。
「危ない、好ましくない。」
「はい。」
「エリアス、危ない、好ましくない。」
エリアスは少し驚いたように石を見た。
「僕が危ないのは、好ましくない?」
「うん。」
「どうしてですか?」
どうして。
石は考えた。
エリアスが危ない。
エリアスが傷付く。
エリアスが死ぬ。
エリアスが笑わなくなる。
エリアスの声が消える。
好ましくない。
「エリアスが、なくなる。好ましくない。」
石は言った。
エリアスの顔が少し硬くなった。
石は、また間違えたかもしれないと思った。
「なくなる、怖い?」
エリアスはゆっくり瞬きをした。
「……少し、怖い言い方ですね。」
「ごめん。」
「いいえ。意味は、分かりました。」
エリアスは紙に何かを書いた。
炭が滑る音がした。
「では、守る、は分かりますか。」
「まもる。」
「危ないものから遠ざけたり、傷付かないようにすることです。」
危ないものから遠ざける。
傷付かないようにする。
エリアスが危ない。
セラが遠ざける。
エリアスが傷付かない。
好ましい。
「守る、好ましい。」
石は言った。
エリアスは頷いた。
「そうですね。守るのは、好ましいことが多いです。」
石は、守る、という言葉を覚えた。
守る。
エリアスを守る。
まだ、どうやって守るのかは分からない。
石は動けない。
手もない。
足もない。
口はある。
でも、口を開けるとエリアスが怖がる。
守るには、何が必要なのだろう。
石は少し考えた。
エリアスはその間に鞄から小さな包みを出した。
中には、硬そうなパンが入っていた。
エリアスはそれを少しちぎって食べた。
石は見た。
食べる。
前に聞いた言葉。
少年を食べる話は好ましくなかった。
でも、エリアスがパンを食べるのは好ましい。
パンを食べると、エリアスはなくならないのだろうか。
エリアスが前に、食べないと腹が減ると言っていた。
腹が減る。
それは、好ましくないらしい。
パン。
エリアスを守るもの。
たぶん。
石はパンを見た。
エリアスの手、パン、口、噛む、飲む。
エリアスは自然にそれをしていた。
石にはできない。
口はある。
歯もある。
けれど、食べたことはない。
食べるとどうなるのか分からない。
エリアスを食べるのは好ましくない。
パンなら、いいのだろうか。
石がパンを見ていると、エリアスが気付いた。
「……食べたいんですか?」
石は考えた。
食べたい。
それは分からない。
パンが好ましいかどうかも分からない。
でも、エリアスが食べている。
エリアスが食べるもの。
「分からない。」
石は答えた。
エリアスは少し安心したような、困ったような顔をした。
「そうですか。」
「エリアスが食べる。セラも同じにする?」
エリアスの顔がまた固まった。
「……今日は、やめておきましょう。」
「食べない?」
「はい。いきなりは、その……僕の心臓に悪いので。」
心臓。
止まると死ぬもの。
石はすぐに頷く代わりに、目をゆっくり下げた。
「食べない。心臓、守る。」
エリアスは口を押さえた。
笑っている。
怖い笑いではない。
柔らかい笑いだった。
「僕の心臓を、守ってくれるんですか。」
「うん。」
「ありがとうございます。」
ありがとう。
また、ありがとう。
石は守るを覚えたばかりだった。
エリアスの心臓を守る。
エリアスを守る。
好ましい。
その時だった。
洞窟の入口で、低い羽音がした。
ぶうん。
石は耳を動かせない。
けれど、耳の穴の奥が強く震えた。
好ましくない音だった。
虫の音に似ている。
けれど、もっと大きい。
もっと近い。
ぶうん。
ぶうん。
入口の光の中に、黒と黄色のものが入ってきた。
大きな蜂だった。
石は蜂を見た。
羽が動いている。
足がある。
細い腰がある。
先に尖ったものがある。
蜂。
エリアスが前に、刺されると痛いと言っていた虫。
痛い。
好ましくない。
蜂は洞窟の中を飛んだ。
ぶうん。
ぶうん。
エリアスが顔を上げた。
緑の目が大きくなる。
「うわっ!」
エリアスは立ち上がりかけた。
その動きに反応したのか、蜂がエリアスの方へ飛んだ。
ぶうん。
エリアスは身をすくめた。
手に持っていたパンが落ちた。
紙も少し散らばった。
「来るな!」
エリアスの声が高くなった。
怖い時の声。
好ましくない。
蜂はエリアスの顔の近くを飛んだ。
エリアスは手で払おうとした。
けれど、蜂はまた回り込んだ。
エリアスの手が空を切る。
蜂の音が強くなる。
エリアスが危ない。
蜂が危ない。
エリアスが刺されるかもしれない。
痛い。
傷付く。
死ぬかもしれない。
心臓が止まるかもしれない。
好ましくない。
とても、好ましくない。
――守る。
石は、覚えたばかりの言葉を思った。
エリアスを守る。
危ないものから遠ざける。
傷付かないようにする。
守る。
守る。
守る。
けれど、石は動けない。
手がない。
足がない。
口はある。
口で声を出せる。
けれど、蜂は言葉を聞くだろうか。
口は、きっと今は違う。
足りない。
また、足りない。
エリアスが危ない。
エリアスを守りたい。
でも、石には届かない。
届かない。
届きたい。
届かなければ。
石の横腹が、内側から膨らんだ。
ぼこり、と。
洞窟の奥で、鈍い音がした。
エリアスは蜂から逃げるのに必死で、まだ気付かなかった。
石のごつごつした表面に、ひびが入る。
ぴしり。
ぴしり。
ひびは広がり、石の横に長く走った。
石の中から、何かが押し出される。
硬いもの。
細いもの。
節のあるもの。
石の欠片と、木の根と、骨を混ぜたようなもの。
それは、ゆっくり外へ伸びた。
一本。
途中で曲がる。
先が分かれる。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
指だった。
石に手ができた。
石は、手を知らなかった。
けれど、エリアスの手は何度も見ていた。
物を持つもの。
紙を書くもの。
パンをちぎるもの。
同じ。
エリアスの手と同じもの。
けれど石の手は、エリアスの手とは同じではなかった。
ごつごつしていて。
硬くて。
細すぎて。
指は長く曲がっていた。
けれど、手だった。
届く。
石は思った。
これで届く。
蜂はエリアスの頬の近くを飛んだ。
エリアスが悲鳴を上げる。
「わあっ!」
石は手を動かした。
初めての手だった。
うまく動かなかった。
重い。
曲がる。
伸びる。
どちらへ動くのか分からない。
けれど、エリアスの方へ。
蜂の方へ。
守る。
石の手が空を切った。
ぶん、と音がした。
蜂は少しよけた。
エリアスが固まった。
今、気付いた。
石の横から伸びた、長い手。
暗い洞窟の奥から、枝のように、骨のように、石の手が伸びている。
エリアスの顔がまた強張った。
怖い。
石はそれを見た。
沈む。
けれど、蜂がまだいる。
危ない。
守る。
今は沈んでいる場合ではない。
石はもう一度、手を振った。
さっきより強く。
蜂に向かって。
洞窟の入口の方へ。
ぶん。
蜂は風に押されるように入口へ飛ばされた。
けれど、まだ戻ってくる。
石は手を伸ばした。
届く。
届く。
届く。
今度は、蜂の近くの空気を大きく払った。
蜂は洞窟の入口へ押し出された。
ぶうん、と怒ったような音を立て、洞窟の外の光の中へ消えた。
石は手をそのまま伸ばしていた。
エリアスは動かなかった。
洞窟の中は静かになった。
水の音。
エリアスの息。
石の手が、かすかに軋む音。
それだけだった。
石は、手をどう戻せばいいか分からなかった。
伸ばしたまま。
指を少し曲げたまま。
エリアスと入口の間に、手を置いていた。
守る。
蜂はもういない。
エリアスは刺されていない。
エリアスは動いている。
心臓も、たぶん止まっていない。
好ましい。
けれど、エリアスは石を見ていた。
目が大きい。
顔が強張っている。
口が少し開いている。
怖い顔。
好ましくない。
石は沈んだ。
また怖がらせた。
手。
これも好ましくないのだろうか。
口も怖い。
歯も怖い。
目も怖い。
鼻も怖い。
手も怖い。
石は、エリアスを守りたかった。
けれど、エリアスを怖がらせた。
複雑。
沈む。
浮く。
沈む。
浮く。
エリアスを守れた。
好ましい。
エリアスが怖がった。
好ましくない。
手ができた。
エリアスに届いた。
好ましい。
手が怖い。
好ましくない。
石はどうしたらいいのか分からなかった。




