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「篝、本当にかわいいな」
「生まれてきてくれて、本当にありがとう」
幼い篝は、父の大きな腕の中で楽しそうに笑っていた。
柔らかな陽射し。
風に揺れるシャボン玉。
隣では母が優しい眼差しを向けている。
「あなた、あんまり高くしたら危ないですって」
「大丈夫だよ。篝は強い子だからな」
「もう、あなたったら」
三人の笑い声が、公園に溶けていく。
温かい。
優しい。
胸が苦しくなるほど幸せな光景。
——その瞬間だった。
ぱちん、と。
シャボン玉が割れる音がした。
世界が暗転する。
冷たい部屋。
薄暗い天井。
酒臭い息。
「残念だったな」
男が嗤う。
「前の父も母も、お前を捨てたんだよ」
小さな篝の身体が震える。
「違う……」
「違わねぇよ」
男の手が伸びる。
「お前は俺のもんだ」
「やめろ……」
押し倒される。
逃げられない。
恐怖で声が出ない。
「やめろ! 私に触るな!!」
◇
天宮篝は荒い息と共に目を覚ました。
暗い執務室。
机へ突っ伏したまま眠っていたらしい。
胸が激しく上下している。
額には汗。
そして気づけば、頬を涙が伝っていた。
「……またこの夢」
篝は震える指で顔を覆う。
「私に幸せな時間なんて……邪魔だ……」
低く吐き捨てるように呟いた。
その時。
「……また見たん?」
静かな関西弁が背後から聞こえた。
篝が顔を上げる。
入口には、缶コーヒーを二本持った黒須玲が立っていた。
「ノックくらいしなさい」
「したで? あんた気づいてへんかったけど」
玲は苦笑しながら一本を机へ置く。
「相変わらず寝不足やなぁ」
「仕事が多いだけよ」
「嘘つけ」
玲は篝の目元を見つめる。
「昔からや。あんた、夢見ると無理やり仕事し始める」
篝は答えない。
代わりに資料へ視線を落とした。
そこには一人の男の写真。
整ったスーツ姿に、輝く歯を見せる笑顔。
画面下にはテロップ。
『次期市議会議員候補 久我誠一』
玲の表情がわずかに曇る。
「……とうとう見つけたんやな」
「見つけたんじゃない」
篝は静かに言った。
「ずっと待ってたのよ」
「議員選挙のタイミングを?」
「ええ」
篝の声は冷たかった。
「一番世間が注目している時に落とすのが、一番苦しいでしょう?」
玲は何も言えなかった。
篝は画面の男を見つめる。
「殺すだけなら簡単だった」
静かな声。
「でも、それじゃ足りない」
その瞳には、十数年分の憎悪が燃えていた。
◇
「羽村朱音、入ります!」
朝の執務室へ朱音が駆け込んでくる。
しかし空気の重さに思わず動きを止めた。
篝はいつも通り微笑んでいる。
だが、どこか違う。
静かすぎる。
「おはよう、朱音」
「お、おはようございます!」
朱音は慌てて敬礼する。
「今日は特別任務よ」
篝が一枚の資料を差し出した。
「対象は市議会議員候補・久我誠一」
写真を見た瞬間。
朱音は小さく眉をひそめる。
妙な違和感。
篝がその写真を見つめる目が、あまりにも冷たい。
「女性支援を掲げて支持率を伸ばしている男よ」
「……調査対象なんですか?」
「ええ」
篝は微笑む。
「昔から“女の子が好き”だったみたいだから」
その言葉だけ、妙に感情が籠っていた。
◇
その日の午後。
女性完全保護課地下フロア。
玲が大量の化粧品を机へ並べる。
「ほな始めるで〜」
「えっ?」
「潜入や潜入!」
玲は楽しそうに笑った。
「今回、篝が直々に囮やるんや」
「総司令官自ら!?」
「止めたんやけどなぁ……」
玲は小さくため息を吐く。
「絶対自分でやる言うて聞かへんかった」
朱音は不安げに篝を見る。
篝は鏡の前で静かに髪を整えていた。
その横顔は、どこか異様だった。
まるで獲物を前にした狩人みたいに。
◇
一方その頃。
都内某所のカフェ。
一人の女性記者がICレコーダーを確認していた。
東雲真琴。
社会部所属。
女性完全保護課を何度も特集し、“女性の救世主”として天宮篝を記事にしてきた人物だった。
そのスマホへ、一件の匿名メッセージが届く。
『今夜21時。ホテル・クラウン。特大スクープになる』
送り主不明。
だが最後に一文だけ添えられていた。
『女を食い物にしてきた男が堕ちる夜です』
東雲の目が細まる。
「……ったく、あの人記者使いが荒いなあ」
東雲は苦笑しながらスマホを閉じた。
だが同時に、胸の奥がざわつく。
天宮篝が自ら動く時。
それはいつも、“誰かの人生が終わる夜”だった。




