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「玲、そろそろ花梨ちゃんのお迎えじゃない?」
時計を見つけた篝が、ふと思い出したように顔を上げた。
「あっ、ほんまや」
玲が壁時計を見て目を丸くする。
「やば、ちょっと仕事入り込みすぎとったわ」
慌てて立ち上がる玲に、篝は小さく笑った。
「ちゃんと休みなさい。ワークライフバランスも組織運営の基本よ」
「はいはい、総司令官様」
玲が肩を竦める。
そして朱音へ振り返った。
「朱音ちゃんも来る?」
「え?」
「今日あんな目に遭わせてもたし、お詫びも兼ねてや。うちでお好み焼き振る舞ったる!」
先程のVR研修が脳裏をよぎる。
一瞬ためらったが、玲の明るい笑顔に押されるように朱音は頷いた。
「……お邪魔します」
「よっしゃ!」
玲は嬉しそうに笑った。
◇
女性完全保護課が運営する保育ルームは、想像以上に温かな空間だった。
柔らかな色の壁紙。
絵本棚。
小さな机。
子どもたちの笑い声。
その中を、小さな女の子が駆けてくる。
「ママー!!」
勢いよく玲へ飛びついた。
「花梨、ええ子にしとった?」
「うん!」
三歳ほどの小さな少女。
ふわふわした髪に、大きな瞳。
玲が優しく抱き上げる。
「この人は朱音ちゃん。ママのお仕事のお友達やで」
「おともだち?」
花梨はきょとんとした後、ぱっと笑顔になった。
「おねえちゃん!」
小さな手が朱音の袖を掴む。
その無邪気さに、朱音の頬が緩んだ。
「よろしくね、花梨ちゃん」
「うん!」
その笑顔を見ていると、この組織が本当に“女性と子どもを守る場所”なのだと思えてしまう。
そんな自分に、朱音は少し戸惑った。
◇
「はい、お待ち!」
熱々のお好み焼きがテーブルへ置かれる。
ソースの香りが部屋いっぱいに広がった。
「わぁ……!」
「関西人の本場の味や!他で食べれんくなるで」
玲が得意げに笑う。
夕食は驚くほど賑やかだった。
花梨が無邪気に笑い、玲がテンポ良くツッコミを入れる。
職場では見えなかった“普通の家庭”がそこにはあった。
「朱音ちゃんももっと食べ!」
「はい、いただきます」
自然と笑みが零れる。
昨日まで感じていた恐怖が、少しだけ薄らいでいくようだった。
◇
花梨が眠った後。
リビングには静かな音楽だけが流れていた。
玲は缶ビールを開ける。
「……今日はほんまに申し訳なかったな」
ぽつりと呟く。
朱音は慌てて首を振った。
「いえ……事情は分かりますから」
「そか」
玲は小さく笑う。
だがその横顔には、昼間の明るさとは違う疲れが滲んでいた。
「花梨ちゃん、可愛いですね」
「やろ?」
玲の表情が柔らかくなる。
そして少しだけ視線を落とした。
「花梨の父親な」
静かな声。
「国家出生支援センターの提供者やねん」
朱音が息を呑む。
「……え」
「驚くよなぁ」
玲は苦笑する。
「うち、昔は結婚しとったんや」
◇
当時の玲は、子どもを望んでいた。
だが何年経っても授からなかった。
不妊治療へ通っていたのは、いつも玲だけ。
『仕事が忙しい』
『次でいいだろ』
『俺もプレッシャーなんだよ』
夫はそう言って検査を先延ばしにし続けた。
義母もまた、息子を庇った。
『玲さんの頑張りが足りないんじゃない?』
『もっと優しく接してあげたら?』
『男の人って繊細なのよ』
玲は笑って耐え続けた。
そして限界が来た時、篝へ相談したのだという。
◇
『国家出生支援センターへ協力しない?』
篝は静かに言った。
『……え?』
『あなたは十分頑張ったわ』
篝の声は優しかった。
『でも人を変えるのは、とても難しいの』
玲は俯いたまま黙っていた。
『それなら、自分で前へ進もうとするのは悪いことじゃないわ』
◇
その提案を夫へ伝えた日。
『ふざけるな!!』
夫は初めて怒鳴った。
『そんな訳の分からない制度に頼る気か!?』
義母も顔をしかめる。
『子どもは授かりものなのよ?』
篝は静かに二人を見つめていた。
『ですが、ずっと検査から逃げ続けていたのは息子さんですよね』
『っ……』
『玲さんは二年間、一人で頑張ってきた』
篝の視線は冷静だった。
『行動を起こそうとする彼女を、私は責められません』
夫は苦しそうに玲を見る。
『玲……考え直そう』
震える声。
『子どもは焦らなくていい。俺にも心の準備があるから、もう少し待って——』
玲は静かに遮った。
『……その言葉、あと何回聞かなあかんの?』
夫が固まる。
『うち、二年信じて待ったんやで』
玲の目には涙が浮かんでいた。
『こんなんじゃ、子育ても一緒にはできへん気がするわ……』
◇
「それで離婚したんですか……」
「せや」
玲は缶を傾ける。
「そんで花梨を産んだ」
その声に後悔はなかった。
玲は寝室の方を見る。
「篝はな、ほんまに女性に寄り添ってくれるんや。昔のうちみたいに、不妊治療に協力せん男も多いみたいでな。多くの女性がセンターに助けを求めにくる」
優しい声だった。
「花梨のこともめっちゃ可愛がってくれるし、保育施設も福利厚生もちゃんとしてる。ここで働いてて助かったこと、いっぱいある」
だがそこで、玲は少しだけ表情を曇らせた。
「ただなぁ……」
視線が静かに落ちる。
「女性守ることに力入りすぎて、見落としてるもんもありそうで心配なんよ」
朱音は黙って聞いていた。
「うちは花梨見るたびに、『間違ったらあかん』って思える」
玲は苦笑する。
「でも篝を止められる人、今おらんからなぁ……」
その言葉が、朱音の胸へ静かに沈んでいく。
篝は女性を救っている。
それは間違いない。
だが同時に、どこか危うい場所へ進んでいる気もする。
もし本当に彼女が道を踏み外した時。
誰が止めるのだろう。
朱音は静かにグラスを握りしめた。
自分には何ができるのか。
その答えを、まだ見つけられずにいた。




