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警察署の資料室。
朱音は古びたファイルを机の上へ広げていた。
真琴から聞いた違和感。
篝と久我の戸籍。
親子になった記録が存在しないこと。
どうしても引っかかっていた。
ページをめくる。
十数年前の地方新聞。
小さな囲み記事が目に留まる。
【幼児誘拐事件】
被害者。
天宮篝(3)
母親・天宮楓(28)
捜索中――
それだけだった。
「……これだけ?」
朱音は眉をひそめる。
幼児誘拐事件。
しかも母子同時失踪。
本来なら全国ニュースになっていてもおかしくない。
だが続報が見当たらない。
不自然なほどに。
さらに内部資料を探る。
父親欄。
そこには名前だけが記されていた。
天宮輝義。
職業は黒塗りになっている。
しかし別紙には一言だけ残されていた。
【警察関係者】
「警察……?」
朱音は呟く。
篝は父親を憎んでいる。
そのことは真琴からも聞いていた。
だが理由は分からない。
さらに資料をめくる。
最後のページで朱音の手が止まった。
【保護経緯:機密指定】
【担当部署:公安部特別捜査課】
「……公安?」
背筋が冷えた。
なぜ幼児誘拐事件に公安が関わるのか。
意味が分からない。
だが一つだけ確信できた。
篝という人間の物語は、まだ終わっていない。
◇
数日後。
朱音は実家を訪れていた。
啓太の遺品整理を手伝うためだ。
母は相変わらず泣き腫らした目をしていた。
机の上には写真立て。
折り紙。
運動会のアルバム。
啓太の人生がそこに残されている。
「こんなに愛されてたのにねぇ……」
母が呟く。
朱音は返事ができなかった。
その時。
インターホンが鳴った。
玄関に立っていた青年を見て、朱音は思い出す。
啓太が何度も話していた男性看護師。
唯一無二の親友。
周防日南人だった。
「突然すみません」
深々と頭を下げる。
「周防日南人です」
「啓太から聞いていました」
朱音が答える。
日南人は少しだけ寂しそうに笑った。
「啓太のお線香、あげさせてもらえますか」
◇
線香の煙が静かに揺れる。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて日南人がアルバムを手に取る。
「啓太らしいな」
「え?」
「写真の中でも子どもに囲まれてる」
泥だらけになって笑う啓太。
運動会で園児を肩車する啓太。
どの写真も笑顔だった。
「子どもが好きだったんですね」
「好きなんてもんじゃない」
日南人は笑う。
「保育士の話になると止まらなかった」
◇
日南人には姉がいる。
数年前、性犯罪被害に遭った。
今も心の傷は癒えていない。
あの日。
病院の帰り道だった。
「姉さん、PTSDの症状らしい」
日南人は拳を握りしめた。
「一人になると死にたくなるって言うんだ」
声が震えていた。
「犯人が許せない」
唇を噛む。
「でも復讐したって姉さんが元気になるわけじゃない」
啓太は黙って聞いていた。
一言も遮らずに。
「どうすればいいんだろうな、俺」
長い沈黙のあと。
啓太が笑った。
「優しいな、日南人は」
「そんなことない」
「いや、あるよ」
照れ臭そうにジュースを飲む。
「人の痛みを知ってるからさ」
そして続けた。
「だから看護師とか向いてると思う」
「男でもなれるのか?」
「もちろん」
啓太は即答した。
「それ言ったら保育士の俺も、警察官の姉ちゃんも変じゃん」
日南人は思わず笑った。
「姉さん、小さい頃から強かったんだ」
懐かしそうに目を細める。
「私は警察官になる。悪い奴と戦う」
そして。
「啓太は保育士になりなよ。人に優しくする仕事が向いてる」
そう言った。
誰かの痛みに寄り添う仕事。
その言葉は今も胸に残っている。
◇
「結局、本当に看護師になりました」
日南人が小さく笑う。
朱音も少しだけ笑った。
「啓太らしいですね」
「でしょう?」
だが次の瞬間。
日南人の表情が曇る。
「……でも」
拳を握る。
「俺は許せない」
部屋の空気が変わった。
「姉のことがあったから」
静かな声。
「篝さんのこと、今でも救世主だと思っています」
朱音は黙って聞く。
「女性を守りたいって気持ちは本物だと思う」
一拍。
「でも」
視線が遺影へ向く。
「啓太まで奪われた」
沈黙。
「善良な男性まで敵にする社会は間違ってる」
強い口調ではなかった。
それでも重かった。
「俺は行きます」
「どこへ?」
「女性完全保護課です」
朱音が顔を上げる。
「男性有志による抗議デモがあります」
「デモ?」
「SNSでは全国から集まるそうです」
苦笑した。
「数万人規模になるかもしれないって」
朱音の胸がざわつく。
嫌な予感がした。
「危険じゃないですか」
「かもしれません」
日南人は頷く。
「でも何もしなかったら」
遺影を見る。
「また啓太みたいな被害者が出るかもしれない」
線香の煙が揺れる。
「姉のためにも」
拳を握る。
「啓太のためにも」
朱音は何も言えなかった。
◇
帰宅後。
朱音はすぐ真琴へ電話した。
『もしもし?』
「真琴さん」
息を整える。
「誘拐事件の記事を見つけました」
『ほんと!?』
「天宮楓という女性の名前も出ています」
電話の向こうが静かになる。
「それだけじゃありません」
『ん?』
「公安が関わっています」
『……は?』
今度は真琴が固まった。
「担当部署が公安部特別捜査課になっていました」
数秒の沈黙。
『それはおかしい』
珍しく真琴の声が真剣だった。
『誘拐事件に公安なんて普通出てこない』
「ですよね」
そして朱音は続ける。
「あと」
『まだあるの?』
「男性有志による大規模デモが計画されています」
ため息が聞こえた。
『あーあ』
呆れた声。
『全く、女性完全保護課の連中は記者使いが荒いねえ』
その時だった。
『誰が記者使いが荒い言うたんや』
聞き慣れた声が飛び込んでくる。
玲だった。
『お、自覚あり?』
『うっさいわ』
そして玲は少しだけ声色を変えた。
『けどな』
一拍。
『篝を何とかせなあかん』
冗談ではなかった。
その言葉だけは。
朱音は窓の外を見つめる。
夜の街。
遠くで赤色灯が瞬いていた。
怒りではない。
憎しみでもない。
今はただ。
あの少女の真実を知りたい。
篝を救うために。
そして啓太の想いを無駄にしないために。




