仏陀の肖像(2)
駅に向かって歩き出した私の横を、軽トラックが通り過ぎて、件のぼろ屋に停まった。振り返って見ると、運転席から作業服を着た若い男性と、助手席から中年のおじさんが慌てて降りたのが見える。
「あ~、本当に描かれてる。日曜に来たときは、何もなかったのにな」
「どうします? 作業は来週からの予定なんですけど」
「う~ん」
とっさに引き返した私は、申し訳程度に設けられた門の近くに立っている、中年の男性に声をかけた。
「あのう。この家の方ですか?」
びくりと肩を振るわせた、見るからに人の良さそうな眼鏡のおじさんは、私を振り返った姿勢のまま問いを返した。
「ご近所の方?」
「ええ、まあ。通りの向こうの、佐藤です」
都内とはいえほぼ埼玉県に住んでいる私は、嘘をついた。その方が話を聞き出しやすいからだ。日本のよくある名字ベストスリーなら、この界隈に一人くらいはいるだろう。先生の事務所で働き出してから、悪知恵が働くようになったのを自覚する。
「そうですか。それは、失礼いたしました。私は八雲と申します。工事着工の前には、きっちりとご挨拶に伺うつもりなんですが」
あっさりと騙された男の人は、頭を下げる。良心が疼いたが、あいにく好奇心の方が優勢なので、嘘を重ねさせてもらう。
「ずっと空き家だったお宅が騒がしいので、母が心配していまして」
「申し訳ないですね。私もここの存在を、最近知ったんです。祖母の持ち家だったようなんですが、ほぼ没交渉だったので知らなかったんです。去年亡くなった父がこっそり固定資産税を払い続けていたようで、納付の通知がきて初めて知ったんですよ。いや、お恥ずかしい」
八雲は照れたように笑うと、頭を掻いた。善良が眼鏡をかけて歩いているような人だ。私が言うことでもないが、詐欺師に騙されないことを祈る。
「祖母をご存じなんですか?」
「はい。随分良くしていただきました」
ある意味詐欺師の私は、しんみりとしてみせる。
「良く覚えていらっしゃいましたね。十五年も前に亡くなったのに」
八雲は驚いたように目を見開いた。私は焦る。
「いや、小学生の頃、お菓子を良くもらったんですよ。飴ちゃん食べる? とかなんとか」
「はあ。そんな一面もあったんですね。随分異性関係にルーズな人で、派手好きな子供嫌いだと聞いていましたが。貢がせるばっかりで、人に物をあげるような人ではないと思っていました」
嘘を重ねると、こうやって墓穴を掘っていくのだ。神様ごめんなさい。私は心の中で、密かに懺悔した。そんな私の動揺に気づいた様子もなく、ロマンスグレーのおじさんはふっと遠い目をする。
「でももしかしたら、そんな人だったのかもしれません。男を手玉にとって薄情で、それでも不思議と憎めない人だったと父は語っていました。『痴人の愛』のナオミみたいに奔放で魅力的な人だったようです。父のことも生んだきり祖父に押しつけて、すぐに次の男と駆け落ちしたらしいんです。それでも気まぐれに、ふらりとたまに顔を出したりしました。僕も二、三度見かけたことがありますが、年のわりに綺麗な人だったな」
遺伝のなせるわざか、よく見ると整った横顔を見せ、八雲は朽ちかけた日本家屋をしみじみと眺める。
「この家は、最初の夫に買わせたものだったみたいです。東北の素封家の息子で金だけはあったようですが、ぱっとしないサラリーマンで早くに亡くなりました。よほど思い入れが強かったのか、五十代で男関係も落ち着いたときに、祖母はここに戻ってきたようです。それから二十年と少し、八十で祖母は亡くなりました」
五十代まで男関係が落ち着かないとは、相当な肉食系女性だ。男っ気のない私などは、見習いたいくらいである。
物思いに耽っていた八雲は、そこで情けない声を出した。視線が満島の落書きに止まったからだ。
「それにしてもなあ。何だってこの家に、落書きなんてしたんでしょうか? 描いたのは、有名な画家の方なんでしょう? 私は疎いのでよく知らないが、価値があるから壊すのはもったいないと言い出す親戚までいて」
「世界的な有名人ですよ。確かにゴミにするには惜しいかも」
「やっぱり外して、持って帰るべきなのかなあ。でもあんなでかいの、北海道まで持って行けやしないし。というより、貰っちゃって良いんでしょうか?」
「さあ」
門の脇で立ち話をする私と八雲に、ざっと家の外側を確認してから戻ってきた工務店の作業員が、声をかけてきた。
「どうします? 八雲さん。鍵屋さん来るの、明日ですよ? 中を確認した後は、本当に取り壊しで良いんですか?」
「う~ん。敷地に買い手がついちゃってるからなあ」
眉を八の字にした八雲に、困ったように見つめられてもアドバイスはできない。私は適当に話を切り上げて、帰路についた。帰る途中で一度振り返ると、もうすっかり薄暗くなった空気の中で、八雲と工務店が顔突き合せて悩んでいるのが見えた。どっちも優柔不断そうなので、今日中に答えが出るのかは謎だ。
満島の落書きは、思わぬ方面に波及しているようだった。こういう状況を表わしたことわざがあったと思うが、ど忘れして出てこない。なんだっけ? 風が吹けば桶屋が儲かるじゃなくて……。
そんな呑気な私の感想は、しかしそれだけでは終わらなかった。事態は桶屋が儲かるだけでは済まない、大事を運んできていた。私はそれを、三日後のネットニュースで知ることになる。ジョー・ミツシマが落書きをした空き家の床下から、白骨化した男性の遺体が発見されたのだ。




