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仏陀の生涯(1)

 翌日、リアルな悪夢に寝起きが最悪で、私は仕事に遅刻してしまった。有休一時間の消化でギリギリ事務所に滑り込むと、先生が電話で誰かと話していた。私は謝罪と挨拶のボリュームを下げる。先生は私の出勤を目で確認すると、電話のスピーカーをオンにした。どうやら、私にも聞かせたいようだ。

「今そこには、華ちゃん一人? 周りには誰もいないわね?」

『……はい。おじいちゃんが隣の部屋にいるけど、耳が遠いので多分聞かれていないと思います』

 電話の相手は、館脇華のようだった。私はそっと鞄を置き、聞き耳を立てる。昨夜の夢の印象で、華には心理的に拒否反応があるのだが、事件の真相を知りたいという好奇心のほうが勝っている。

『あの、聞きたい事って、なんですか?』

 華は、警戒するような曇った声で聞いた。もともと人を安心させるような低めの声なので、地の底から響くように重い。対照的に先生の声は、どこかねっとりしつつも、陽性だった。

「それより、来月結婚するんですってね? おめでとう」

『……ありがとうございます』

「お兄さまと、それから満島くんにも聞いたわ。満島くん、あなたのことを気にかけてたわよ」

『…………』

 先生は木製の特注デスクに身体を預け、肉感的な太ももを組んだ。ハンズフリー通話にした電話に向かって喋る姿は、魔女が小さな使い魔に命令しているように見える。

「あなたと満島くん、子供の頃発田さんのお宅でよく遊んでいたんですってね。全部聞いたわ。あなたが発田さんに懐いていたことも、満島くんがあなたに絵を教えていたことも、発田さんが亡くなったのを発見したのが満島くんで、あなたが後からそれを知ったことも。満島くんはあなたが疑われないように、必死に弁解していたわよ。随分仲がよかったみたいじゃない。あなたは満島くんを知らないって言っていたけど」

 そこで先生は、わざと溜めてから華を糾弾した。

「っていうか、まるで満島くんに罪をなすりつけるみたいな言い方してたわよね。満島くんの後ろに発田さんの幽霊が見えるとか。あなたって案外、冷たいのね? 満島くんは、あなたに献身的なのに」

『やめてください!』

 悲鳴のような声で、華は遮った。

 思うに人には、それだけは言われたくないという逆鱗があると思う。どんなにおとなしい人間だって、そこを突かれれば逆上する。華にとってそれは、信じてくれた人を裏切る心ない人間と言われることだったのだ。事実そうだったという罪悪感が、彼女に悲鳴を上げさせた。私には何となく、それが分かった。おそらくわざとそこに触れた、先生にもまた。

『やめてください。丈くんに罪をなすりつけるなんて、そんな……。私も丈くんも、発田のおじいちゃんを殺すなんて絶対しません。丈くんと仲良かったことを隠したことは謝ります。でも私は発田のおじいちゃんも丈くんも大好きだし、丈くんだって発田のおじいちゃんのことが大好きでした。私も丈くんも、おじいちゃんにはずっと長生きして欲しかったんです。殺すなんて、そんな……』

 興奮のせいか、華は同じような言葉をリピートした。必死に弁明している。呼吸が速い。華は半引きこもりになるくらい、繊細な女性なのだ。私は非情な先生をたしなめたかったが、割り込むこともはばかられた。先生はじっと電話を見下ろしたまま、華の興奮の波が去るのを待っていた。やがて華の呼吸が落ち着いたことを確認してから、澄ました声で先を続ける。

「分かっているわよ。満島くんは発田さんを殺してないし、あなたも発田さんを殺していない。満島くんは私の依頼人だもの。殺していないけど埋めただけだという、彼の言葉を信じるわ」

『……』

「あなたが満島くんを陥れるような子じゃないことだって、分かってる。満島くんから聞いたあなたは、内気で繊細で優しい子。満島くんを信じると言うことは、あなたを信じるということよ」

 先生はいつもより甘い声で、華をなだめる。こういうのも、猫なで声と言うのかもしれない。

「どう? 満島くんを、助けたくない?」

 もとい、下心のある甘言と言うのかもしれない。

『丈くんを、助けられるんですか? 私は何をすればいいんですか?』

 華は切実と言ってもいい声で、縋ってきた。先生の策にはまっている。先生が何を企んでいるのか知らないが、華を籠絡して、どうするつもりなんだろう?

「正直に話してくれればいいの。話したくないことは、無理に聞かないけど」

『……はい……』

 華は結局、先生の言うことに従った。自分が心ある人間だと証明したいなら、否とは言えまい。それにしても、華にはやはり隠し事があるようだった。それを先生が引きずり出そうとしていることだけは分かったが、それが何かは分からない。軽く頭をかしげた先生も、本当のところは分かっていないのかもしれなかった。


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