「不潔な守銭奴みたいなおじさん」のハナシ(3)
「何なんですかね、今の人」
私はポルシェの助手席付近に立ち、先生が鍵を開けてくれるのを待った。しかし先生は、キーレスエントリーをオンにしない。
「雅ちゃんは、今の話が嘘だと思うの?」
「満島さんのお父さんが、紅子さんの旦那さんを殺したっていう話ですか? だって先生が、自分で妄想だって言ったじゃないですか」
「完全な妄想だとして、三十年近く経った今まで、満島さんのお父さんが黙って強請られていると思う?」
「え? だって、まさか……」
「本当かどうか、本人に確かめてみましょう」
そう言って先生は、あろうことか満島家に引き返した。私は慌てて後を追う。まさか本気で、満島父に聞くわけではなかろうな? ハラハラする私をよそに、先生はインターフォンを鳴らす。すぐに満島が出たが、先生は父親を玄関先に出せと命令した。訝しげな声で聞き返した満島は、しかしすぐに承諾して門を開ける。そのまま自動で解錠した玄関を入ると、二階から降りてきたらしい満島の父がその先にいた。先生は靴も脱がずに軽く挨拶をする。温厚そうな満島の父親は、渋い表情で挨拶を返した。さすがに気になった様子の満島が、リビングの扉を開けて様子を窺っている。
満島の父親は、いかにもセレブリティだった。ネーム入りの質のよいシャツにブランドものベスト、オーダーメイドと思われるスラックスを穿いていた。恰幅が良く、太い眉が満島に似ている。時代劇の俳優のように、顔は大きめで濃かった。さっきの男が豊臣秀吉なら、こちらは徳川家康にキャスティングしたくなるタイプだ。
「さっきそこで、小汚いあなたの同級生に会ったわ。あなたについて、あることないこと色々言ってた」
先生は雲の上のような人物に、平気でタメ口を叩いた。無礼千万である。世が世なら、口を聞くどころか、とても私や先生のお目通りの叶う相手ではない。しかし満島の父は、怒るでもなく苦笑した。
「ああ。腐れ縁でね。さっき口論をしたから、頭にきていたのでしょう」
「時間がないから単刀直入に聞くけど、あなたが昔、紅子さんとご関係があったっていうのは本当かしら? 嫉妬したご主人を、階段から突き落として殺したってのも?」
単刀直入にも程がある。私は慌てて、先生の袖を引いた。江戸時代だったら、首を落とされても文句は言えない暴言である。
満島父は、満島をチラリと気にした。満島は何かを察したのか、リビングに引っ込んだ。父親の昔の情事の話など、御免被りたかったのかもしれない。
「言っておくけど、隠し事はしない方が得策よ。私は弁護士で、何を聞いても外には漏らさないわ」
先生は、わけの分からない理由で確約した。弁護士だからって、何なのだ。それを信じたわけでもないだろうが、満島父は観念したように認めた。
「確かに紅子とは、高校の頃一時期関係があった。しかしもう、大昔の話だ」
「ふうん。ませ(、、)ガキ(、、)だったのね。蓑田さんを突き落としたっていうのは?」
「それは絶対にない。あれは、事故だった」
「見てきたように言うのね」
「確かにあの日、私は紅子の部屋にいた。突然帰ってきた蓑田が、部屋に入るなり紅子と口論を始めたんだ。私はまだ若造だったから、どうしていいか分からず、部屋の奥から様子を覗っていた。そのうち廊下で怒鳴り合いが始まって、蓑田は学校に通報してやると言って走り出し、階段で足を踏み外した。泥酔状態で、派手に転げ落ちた音がしたよ。紅子は私を裏口から帰し、救急車を呼んだ。まさか死んだとは思わなかったが……」
「その後、あなたはどうしたの?」
「どうもしない。蓑田が死んだことを知って、怖くなってそれ以来紅子とは会っていない。元々火遊びみたいなものだったのだ」
不名誉な過去など一切なさそうな、絵に描いたようなビッグショットは苦い顔をして笑った。東大に進学した優等生は、十五、六にしてかなり濃い目の異性経験をしていたらしい。名将色を好むというのは、本当なのかもしれない。
先生は弱った表情の銀行元頭取現会長を、マスカラとアイラインで縁取られた真っ黒な瞳で見つめた。満島の父は、その目に怯んだ。実際は何も考えていない可能性が高いので、恐るるには足らないのだが。
「紅子さんの内縁の、発田さんのことはご存じ?」
「ああ、発田さんか。近所なので、もちろん知っている。付き合いはなかったが」
満島父の言葉に、含むものはないように見受けられた。紅子と十五かそこらで別れ、東大に進学し、結婚し、子供を持ち、出世街道を進んだ彼は、発田のことなど風景画に滲んだ汚れのようなものとしか思っていなかったのかもしれない。些末な存在。意識に上らせるほどのこともない。
「そう」
先生は、急に興味を失ったような気の抜けた声で言った。それから私を促し、
「だいたい分かったわ。もう用はないので、帰ります。お邪魔しました」
最後だけ敬語で挨拶した。満島の父は、「だいたい分かった」という言葉に不安そうな視線を送ったが、通り一遍の挨拶をして私たちを送り出した。さすがに上がって行けとは言われなかった。
なんだか尻切れとんぼ感が拭えず、玄関ドアを閉めた先生に私は聞く。
「だいたい分かったって、何が分かったんですか?」
「私の知りたいことは、概ね分かったっていう意味よ」
先生は、澄まして言う。答になっていない。
「まさか今回の事件に、お父さんが関与していると考えているんですか?」
先生は、きょとんとする。
「私が? 別に何も考えてないわよ」
「何もって……。でも、発田さんの名前を出したとき、満島さんのお父さんは動揺してませんでしたよ」
「だから何なのよ? 何の縁故もなく、自分の才覚だけで頭取にまで上り詰めた人間よ? そう易々と、動揺を顔に出したりしないでしょうね。発田さんの事件で息子が捜査対象になっていることくらい、お父さまだってご存じよ。少しくらい動揺を見せた方が、まだ自然ってもんでしょう?」
私は黙った。
まさかここへ来て、新しい容疑者が浮上するとは思わなかった。しかし、だとしたら、動機は何なんだろう? 発田が殺されたのは、満島父が紅子と別れてから相当経っていたはずだし、紅子が亡くなってからも数年経過している。いまさら嫉妬だ復讐だといった理由は考えられない。
そこまで考えて、私は先ほどの猿に似た老人の顔を思い出した。待てよ。発田がもし、紅子と満島父の関係を知っていたとしたら? あの男と同じように、強請の材料にした可能性もあるのではないか?
私が推理の世界に没頭し始めると、先生がニヤニヤと笑った。完全に、馬鹿にしている顔だ。
「また色々、妄想してるんでしょう? まあ止めないけど、ほどほどにしないと知恵熱がでるわよ」
喋りながら、傾斜した歩道に駐まったポルシェの鍵をリモートで開ける。先ほど男がしげしげと眺めていたスポーツカーの、助手席のドアをおっかなびっくり私は開ける。いくら手入れが悪いとはいえ、三桁ではきかない高級車だ。指紋をつけることすらはばかられる。
「まあ、せっかくだから考えておいてよ。満島くんのお父さまに、もし蓑田さんを殺した過去があったら、今回の事件にどう影響するのか」
「やっぱり、そうなんですか?」
あの嫉妬深い男の強請の材料は、やはり妄想などではなかったのだ。しかしそれが、発田の事件に直接関係するとは思いも寄らなかった。もしそうだったら、事件の様相が一変する。満島が発田を殺した理由。彼が庇っているのは、一体誰なのだ?
滑るように走り出した高級車の中で、私の妄想は加速する。ここへ来ての新しい要素は、私を混乱させた。ドッジボールで、ボールが二つ増えたときみたいに思考が追いついていけなくなる感覚。
そこで私は、先生が何もしていないことに気づく。
「っていうか、先生はどう思っているんですか? 私にばっかり考えさせて、まさかこの事件を私に丸投げするつもりじゃないでしょうね?」
ついつい不満を漏らすと、先生は心外だとばかりに顔をしかめた。
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。私にだって、考えることがあるのよ。例えば、死因とか」
「死因? 発田さんのですか? だから病死だって、満島さんは……。ああ、満島さんが本当のことを言っているとは限らないのか」
私は、考える。が、考えたところで答えの出るものではない。死体は白骨化しているし、警察に鑑定の結果を教えてもらえるとも思えない。第一発見者の満島が嘘を突き通すつもりなら、私たちに真実を知る機会はない。
「遺体の頭部に外傷があったらしいから、警察は撲殺だと考えているかもしれませんね。あの本郷っていう刑事、あくまでも事件にしたいみたいだから」
「発田さんの死因とは、言っていないわよ」
先生は、意外なことを言った。発田でなければ、誰の死因を知りたいのだ? 訝しく思った私は、質してみる。
「じゃあ、誰のですか? 蓑田さんですか? まさか、紅子さんじゃないですよね?」
先生は、首を左右に振り、工芸品のような巻髪を揺らした。
「私たちがこの件に関わった、そのそもの発端よ。満島くんの落書き」
「落書き?」
「お釈迦様」
お釈迦様の死因? 私は先生の顔を、マジマジと見つめた。冗談のつもりかと思ったが、先生は存外に真面目な顔をしていた。




