「不潔な守銭奴みたいなおじさん」のハナシ(1)
満島家を辞して戻ると、先生のポルシェを食い入るように眺め回す男がいた。鳥の巣頭の身なりの悪い老人で、背中が曲がり始めている。男は左手に持った洋酒の瓶を背中に回し、車高が低くて流線型の赤い乗り物を、ほとんど口づけするほどの近距離で観察していた。
「ちょっと。人の車に、酒臭い息を吹きかけないでくれる?」
先生は腕を組んだ仁王立ちの体勢で、男に注意した。坂の上に立っているので、見下す形になる。先生こそ愛車を普段は雑に扱い、洗車もほとんどしないくせに、偉そうである。
振り返った男は、先生――主に胸――に視線を移し、下卑た笑いを浮かべる。
「こりゃあ、あんたの車かい。さすがに銀行の元頭取ともなると、女にも贅沢をさせてるんだな」
男は「女」という言葉に、いやらしいニュアンスを乗せた。先生が満島父の愛人だとでも言わんばかりだ。先生は憤るでもなく、真面目に訂正した。
「元頭取の女(、)じゃなくて、元頭取の息子に雇われた弁護士よ」
「息子? ああ、あの書道の墨でわけの分からん絵を描くガキか。ただの落書きにしか見えんが、あんなもんに何百万も出したがる人間の気が知れない。こちとら安い年金しかもらえない、貧困老人だっていうのに」
喋りながら世の中の不条理に怒りを覚えてきたのか、最後は吐き捨てるように男は言った。先生は虫けらでも見るように男を見下し、そして何故か笑う。
「それにしては、いいお酒飲んでるじゃないの」
男の持った洋酒の瓶を指さす。私はお酒に詳しくないのでよく分からないが、ウイスキーらしいことだけは分かった。年金暮らしで頑張って買える程度なのか否かは分からない。
男はそれに視線を落とし、再びニヤニヤと笑った。
「奢って貰ったんだ、元頭取にな。昔のよしみで」
「幼馴染みだったそうね。今も付き合いがあるくらいだから、よほど親しかったんでしょうね」
男は興味を引かれたように、笑いを消してまともに先生の顔を見た。まさか、自分の身の上を知っているとは思わなかったのだろう。先生は、そのニホンザルに良く似た顔を、マスカラとアイラインで縁取られた真っ黒な瞳でじっと見つめ返した。例のごとく、思慮深くも何も考えていないようにも見える。
「高校まで同窓だ。お互い元々は、新聞配達のバイトをしながら学費を稼いでた貧乏者同士だ。それがどうだ? 俺が受験に失敗し、あいつが東大に受かったというだけで、今の生活は天と地だ。俺の一年分の年金は、あいつの一か月に稼ぐあぶく銭にすら及ばない。まったく、この国はおかしいよ」
老人は不満を抱えて生きる落伍者らしく、我が身の境遇を国のせいにした。日本政府の是非はともかく、タダ酒を飲んで管を巻いている老人が年金をもらえるのだから、貧困国の人に言わせれば天国だろうが。
先生は、ふんっと鼻を鳴らした。
「だからお優しい高所得者に同情されて、そうやってお酒を恵んでもらっているのね」
この言葉は、男の逆鱗に触れたらしかった。老人は温泉猿よろしく、顔を真っ赤にして力んだ。一口酒を口に含み、ぷっと地面に吐く。もったいない。高いだろうに。
「あんたが寝物語にどんな話を聞かされているのか知らんがな、あいつは聖人君子なんかではないぞ。それどころか、クズだ。変態の、殺人者だ」
どうしても管野先生を愛人にしたい男の中傷は、内容が過激だった。犯罪者でなく殺人者と特定しているところが酷い。犯罪者という表現だったら、子供の頃にした万引きの暴露とかだろうと笑えるが、殺人となると笑い飛ばせない。先生は再び男をじっと見つめてから、何故かスマホを取り出した。しばらく何かを調べてから、口を開く。
「殺人者とは聞き捨てならないから調べてみたけど、別にそんな過去はなさそうよ。あなた何を根拠に、そんなことを言うの?」
「当たり前だ。俺しか知らないことだ。今まで黙っててやったんだからな、こんな酒くらいで口止め料にされたんじゃ、安すぎるくらいだ」
「ということは、あなた以外その事実を知らなくて、今初めて私に話すということね」
先生は正確な情報を求めた。
「そうだ」
男は、幼馴染みのただの愛人だと思っていた女がいきなり尋問を始めたので、やや面食らったようだった。私も多少面食らっている。まさかこのおじいさんとの会話を、ここまで広げるとは思わなかった。
しかし殺人とは穏やかではない。まさか発田さんを殺したのが、満島の父ということもあるまいが。……いや、まて。そんな展開も、あり得るのか?
「詳しく教えてくれるかしら? あなたが許可しないなら、誰にも喋らないから」
先生はわざわざ男に近づいて、声を顰めて問いただした。香水の匂いが届いたのか、男は鼻をヒクヒクさせる。籠絡ナウと言ったところだ。目をキョロキョロさせて逡巡した後、男は渋々と言った感じで話し始めた。つい口を滑らせて、後には引けなくなったようだった。




