第六話 相棒
「逃げてって、言われても……!」
僕は混乱したまま、その少女と迫る闇とを交互に見た。
夜の闇が、ぐにゃりと蠢く。その中から、ずるり、と。あの目のない化け物が、再び姿を現した。今度は、一体ではない。二体、三体。墨色の影が、ゆらりゆらりと、僕たちを取り囲んでいく。
「説明は、あと! こっち来て!」
少女は、僕の腕をぐいと掴むと、走り出した。引きずられるように、僕も駆ける。
背後で、化け物たちが、地を擦って追ってくる。少女は走りながら、懐から何か小さなものを取り出した。札のような、紙片。それを、ぱっと後ろへ投げる。
刹那。
その札が、白い光を放って弾けた。追ってきた化け物たちが、その光を浴びて、びくりと怯み、墨色の体をよじらせる。
「今のうちに!」
僕たちは、明るい大通りまで走り抜けた。化け物たちは、その光の中までは追ってこられないらしい。街灯の下まで出ると、少女はようやく足を止めた。
「はあ……はあ……あぶなかった」少女は、息を整えながら僕を振り返った。「無事? 燈本くん」
僕は肩で息をしながら、その少女をまじまじと見た。
肩までの黒髪。大きな、よく動く目。気の強そうな、けれどどこか温かい顔立ち。着ているのは、確かに、僕と同じ高校の制服だ。けれど――。
「……えっと。君は、誰?」
「あ、そっか。名乗ってなかったね」少女は、ぺこりと頭を下げた。「七瀬鈴。あなたと同じ学校の、二年。隣のクラスだよ。……まあ、知らないよね。わたしは、あなたのこと、知ってたけど」
「七瀬の家はね」鈴は、声を少し落とした。「昔から、燈本の家に仕えてきた一族なの。継灯みたいな、時を越える力はない。――その代わり、わたしたちには『視える』。あの化け物。灰村の連中が操る、瘴気の怪異。普通の人には見えないものが、わたしたちには視えるの」
僕は、息をのんだ。
「ずっと、待ってたんだ」鈴は、まっすぐに僕を見た。「燈本の灯が、また目覚めるのを。あなたのお父さんが亡くなって……燈本の継灯は、途絶えたかと思ってた。でも最近、町の瘴気が、ざわつきはじめて。灰村が、誰かを狙ってる。もしかして、と思って探してたの。そしたら――あなただった」
僕の知らないところで。僕の父を知り、僕の家を見守ってきた人たちが、いた。そして、この子も。僕が「何もない」と思って、教室の隅で息をひそめていた、そのあいだ。隣のクラスから、ずっと、僕を見ていてくれた。
「……ありがとう。助けてくれて」僕は、ぽつりと言った。
「いいって、いいって」鈴は、にっと笑った。その笑顔が、夜の中で、ぱっと明るかった。「これが、七瀬の役目だもん。――それより燈本くん。あなた、ちょっと頼りなさすぎない? あんなのに囲まれて、棒立ちだったよ?」
「うっ……それは……」
「ま、いいや」鈴は、ぐっと伸びをした。「これから、わたしも手伝うよ。あなた一人じゃ、危なっかしくて見てられないし。守屋のおじいちゃんとこにも、顔出すから」
「守屋さんを、知ってるの?」
「もちろん。七瀬と守屋さんは、古い付き合いだもん」
僕の胸に、じんわりと、温かいものが広がった。
一人じゃ、ない。
守屋さん。そして、この七瀬鈴。僕の知らない戦いの中に放り込まれて、怖くて、心細くて、たまらなかった。けれど、僕の隣に立ってくれる人がいる。それだけで、震えていた足に、少しだけ力が戻る気がした。
「……うん。よろしく。七瀬さん」
「鈴で、いいよ」彼女は、笑った。「相棒に、なるんだから。ね?」
相棒。
その響きがくすぐったくて。僕は、思わず頬を緩めた。
けれど、鈴の顔が、ふと引き締まった。
「でも、燈本くん。油断は、しないで」彼女は、夜の闇を警戒するように見やった。「今夜のは、ただの様子見。本当に怖いのは……灰村の若頭。あいつらの中でも、別格の化け物。きっと近いうちに、あなたを殺しに来る」
灰村の、若頭。
僕の脳裏に、あの冷たい目をした少年の姿が、よぎった。「おまえの灯、消してやる」と言った、あの。
夜風が、冷たく頬を撫でた。
迫りくる、本当の脅威の足音が。すぐ、そこまで来ていた。




