第三話 父が遺したもの
手のひらの中の御守りから、橙色の光がこんこんと溢れ出していた。
小さな、けれど芯の強い光。まるで暗闇の底で、ただ一つだけ消えずに灯る篝火のように。
目のない化け物が、その光を心底厭うように、墨色の体をぐにゃりとよじらせた。さっきまで嬲るように迫っていたその動きが、今は明らかに怯んでいる。
僕は夢中で、その光を前にかざした。
なぜそうしたのかは、分からない。ただ、体が勝手に動いた。御守りを握った拳を、突き出すように化け物へと向ける。すると光が、ぶわりと強さを増した。
「う、うわあああっ!」
叫びながら、僕はその光を突きつけた。
橙の輝きが、闇を押し返す。にじんでいた世界の輪郭が、光の届く範囲だけ、くっきりと戻ってくる。化け物の白い顔が、苦悶するように歪んだ。墨色の腕が、じゅう、と音を立てて、灼かれるようにちりちりとほどけていく。
「……ほう」
ふいに、路地の入口で声がした。
あの、冷たい目をした少年だ。彼は初めて、その無表情をわずかに動かした。意外なものを見た、とでもいうように、目を細める。
「ただの餌かと思えば。――燈本の、灯か」
燈本。
それは、僕の名字だった。なぜ、こいつがそれを。
少年はそれ以上、何も語らなかった。ただ、すっと片手を上げる。すると、灼かれてほどけかけていた化け物の体が、ずるりと闇の中へ、溶けるように引き戻されていった。やがて、墨のような闇ごと、その姿は夜に霧散して、消えた。
「今日は、退いてやる」少年は背を向けながら、ぽつりと言った。その声に、温度はなかった。「だが――覚えておけ。おまえの、その灯。遠からず、消してやる」
言い残して、彼の姿も、夜の闇に紛れて消えた。
後に残されたのは。
しん、と静まり返った、いつもの夜道。虫の声が、いつのまにか戻っていた。遠くを走る車の音も。何事もなかったかのように。
「……は、ぁ……」
ぷつり、と糸が切れたように、僕はその場にへたり込んだ。
握りしめていた御守りの光は、もう淡く、消えかけている。さっきまでの輝きが、嘘のようだった。けれど手のひらには、まだ確かな温もりが残っていた。
震える指で、僕はその御守りを見つめた。
色のあせた、古い布。物心ついたときから、ずっと持っていた。母がくれた。『お父さんの、形見なの』と。
これが。
これが、僕を助けたのか。父さんが遺した、これが。
胸の奥から、わけの分からない感情が、どっと込み上げてきた。
あの声。光の奥から聞こえた、あの声。『よく、頑張ったな。灯真』。間違いない。父の声だった。十一年前に死んだはずの。顔も、ろくに覚えていない。それなのに、その声だけは、魂が覚えていた。
父さんは。
まるで、今夜、僕がこうして襲われることを――知っていたみたいに。十一年も前から、僕を守るために、この光を遺していった。
「……なんで」
ぽたり、と涙が御守りに落ちた。
「なんで、今さら……父さん……」
会いたかった。ずっと、会いたかった。顔も覚えていない父に。撫でてくれた、あの手のひらに。何も持たない僕を、それでも、こんなふうに命がけで守ろうとしてくれる人がいた。そのことが、悲しくて、嬉しくて、僕は子どもみたいに、夜道で泣いた。
その、ときだった。
「――まさか、こんなに早く目覚めるとはな」
落ち着いた低い声が、頭上から降ってきた。
弾かれたように、顔を上げる。
いつのまに近づいてきたのか。一人の老人が、僕の前に立っていた。白髪を短く刈り込んだ、痩せた老人。けれど、その背筋はぴんと伸びて、その双眸は、夜目にも鋭く光っていた。歳を経た、けれど、ただ者ではない。そんな気配を纏っていた。
老人は、地面にへたり込んだ僕を、じっと見下ろした。そして、しわがれた、けれどどこか懐かしむような声で言った。
「その顔。その灯。――間違いない。おまえ、宗一の息子だな」
父の、名前だった。
「……父さんを、知ってるんですか」
僕の問いに、老人は静かに頷いた。
「知っているとも。古い、戦友だ」老人は夜空を、ちらりと見上げた。「積もる話が、ある。だが、ここではいささか、目立ちすぎる。――家まで送ろう。おまえの母さんも、もう覚悟はできているはずだ」
母さんも。覚悟。
何のことだか、分からなかった。けれど、この老人が、何かを――僕の知らない、何か大きなものを知っているのだということだけは、はっきりと分かった。
そして、その「何か」の中心に、亡き父がいることも。
僕は、よろよろと立ち上がった。
知らなければ、ならない。父さんが、誰だったのか。この光が、何なのか。そして、僕が、何者なのか。
長い、長い夜は。まだ、始まったばかりだった。




