第二話 あの夜の忘れ物
墨色の腕が、伸びてくる。
僕の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。とっさに身を引いた拍子に、手からレジ袋が滑り落ちる。アスファルトの上で、醤油の小瓶がぱりんと乾いた音を立てて割れた。黒い液が、街灯の弱い光を受けて、ぬらりと夜道に広がっていく。
逃げろ。
ようやく、動かなかった足が動いた。僕は背を向けて駆け出した。
走りながら、自分の心臓の音が耳の奥でどくどくと暴れているのが分かった。後ろを振り返る勇気はなかった。けれど、分かる。あれが、追ってくる。地を擦るような、ずる、ずる、という不気味な音が、すぐ背後にぴたりと貼りついていた。
「はあ、はあっ……」
いつも歩き慣れた、何の変哲もない住宅街。なのに今は、まるで知らない場所のようだった。
街灯は、どれも力なくちらついている。家々の窓には明かりが灯っているはずなのに、その光が外まで届いてこない。世界の輪郭がにじんで、ぼやけて、まるで一枚の薄い膜の向こうに閉じ込められたみたいだった。
そして――静かだった。
異様なほどに、静かだった。あれほど鳴いていた虫の声も、遠くの車の音も、何ひとつ聞こえない。聞こえるのは、自分の荒い呼吸と足音。そして、背後に迫る、あの、ずる、ずる、という音だけ。
角を、曲がる。
その瞬間、僕は悟ってしまった。
――あの、うずくまっていた子ども。あれは最初から、いなかったんだ。
困っている誰かに見せかけて、僕を暗がりへ誘い込むための餌。罠だったのだ。父の言葉に背を押されて、のこのこと駆け寄った、僕という間抜けな獲物を釣り上げるための。
ぞっと、した。
なぜ、僕なんだ。何の取り柄もない、ただの高校生の僕を。どうして、こんなものが狙う。
「うわっ……!」
考える間もなかった。曲がった先の路地は、突き当たりだった。古いブロック塀が、行く手をぴたりと塞いでいる。
行き止まり。
振り返ると、路地の入口に、それはいた。
のっぺりとした、白い顔。墨で裂いたような、横長の口。ゆらり、ゆらりと、関節の外れた人形のように体を揺らしながら、それはこちらへ近づいてくる。一歩、また一歩。逃げ場を失った獲物を嬲るように、ゆっくりと。
そして、その化け物の、ずっと後ろ。
路地の入口の、街灯の下に。
もうひとつの人影が、立っていた。
今度は、化け物ではなかった。人だ。僕とそう変わらない歳に見える、痩せた少年。けれど、その目が――こちらを見るその目が、ぞっとするほど冷たかった。何の感情も浮かんでいない、凍った湖のような目で、彼は僕を見ていた。まるで、虫けらが踏み潰されるのを、ただ確かめにきたとでもいうように。
「……た、助けて」
掠れた声が、勝手に口から漏れた。
少年は、答えなかった。ただ、ふっと、つまらなそうに視線を逸らした。それが合図だったのだろうか。目のない化け物が、ぐにゃりと、その腕を長く、長く伸ばした。
僕は、ブロック塀に背中を押しつけた。もう、どこにも逃げ場はない。
膝が震えていた。視界が、涙でにじんだ。
――こんな、ところで。
頭の中を、とりとめのない思いが駆け抜けていく。明日の学校。提出し忘れた課題。母さんが待っている。醤油を買ってこいと頼まれただけ、だったのに。きっと母さんは、僕がこんなふうに消えてしまうなんて思いもせず、温かい夕飯を作って待っている。
母さん、ごめん。
何ひとつ成し遂げられなかった。誰の役にも立てなかった。何も持たないまま、僕はここで。
その、ときだった。
無意識に、僕の手はズボンのポケットを握りしめていた。
そこには、いつも小さな御守りが入っていた。色のあせた、古い布の御守り。物心ついたときから、ずっと持っているものだ。母がくれた。『お父さんの形見なの』と。中に何が入っているのか、見たことはない。ただ、怖いことがあると、僕はいつも無意識に、これを握りしめる癖があった。
今も、そうだった。震える指で、僕はその御守りを強く、強く握っていた。
すがるように。祈るように。
そして――。
握りしめた、手のひらの中が。
ふいに、じわりと温かくなった。
「……え?」
最初は、気のせいかと思った。けれど、違った。温もりは、みるみる増していく。やがて、その熱は、握った指の隙間から――淡い橙色の光となって漏れはじめた。
闇に沈んだ路地を、その小さな光が、ぽっ、と照らした。
迫っていた目のない化け物が、びくり、と動きを止めた。墨色の体が、その光を厭うように、ぐにゃりと後ずさる。
僕は、呆然と手の中の光を見つめた。
なんだ。これは。何が、起きている。
そして、その温かな光の奥から――聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
ずっと昔に、聞いた。大きな手で、僕の頭を撫でながら、父が囁いた、あの声が。
『よく、頑張ったな。灯真』
僕の、頬を。
涙が、つたった。
これは。
父さんが、遺した。あの夜の、忘れ物――。




