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継灯 〜最弱の僕が、亡き父と未来の息子と、時を越えて世界を救う〜  作者: 智珠
第一章

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第一話 何も持たない僕

放課後の教室に、ひとり残されていた。


窓の外では、夕陽が街を燃えるような橙に染めている。けれど、その光も僕の席までは届かない。いちばん後ろの廊下側。窓からも黒板からも遠い、誰の目にも留まらない場所。それが昔から、僕の定位置だった。


机を運び、床を掃き、黒板を拭く。今日の掃除当番は、本当は四人いたはずだった。けれど気づけば、教室には僕ひとり。「燈本、あとよろしくな」と軽く手を上げて、ひとり、またひとりと、みんなは部活へ、遊びへと消えていった。引き止める言葉を、僕は持たなかった。


よろしくと頼まれることだけは、多い。断らないと知られているからだ。


雑巾を絞る手を止めて、僕は誰もいない教室を見渡した。並んだ机が、夕陽の影を長く床に伸ばしている。チョークの粉と、古い木の匂い。耳が痛くなるほどの静けさ。


燈本灯真ともと とうま。十七歳。これといった取り柄もない、ごく普通の高校二年生。


勉強は可もなく不可もなく。運動も人並み以下。背は低くないが、声は小さい。いてもいなくても、誰も困らない。クラスという輪のいちばん外側で、ただ息をしている。それが僕という人間の、変わらぬ居場所だった。


僕には、何もない。


そのことに、もう傷つきもしなくなっていた。期待しなければ落胆もしない。前に出なければ笑われることもない。一歩引いて、息をひそめて、波風を立てずに目立たず生きていく。それが、いつのまにか身についた僕の処世術だった。


ただ――。


雑巾をバケツの水に沈めたとき、ふと、ずっと古い記憶が胸の底で小さく揺れた。


父の、声だ。


父は、僕が六つのときに死んだ。病だったと母は言う。けれど僕には、その死の記憶すら、ほとんど残っていない。葬式の光景も、棺も、覚えていない。覚えているのはただひとつ。大きくて、温かくて、少しごつごつとした手のひらの感触。そして――いちどだけ聞いた、短い言葉。


『灯真。誰かが、暗がりでうずくまっていたら』


夜だったと思う。父は、僕の頭をその大きな手で撫でながら、ゆっくりとそう言った。その先を、僕はこう覚えている。


『おまえの灯を、分けてやりなさい』


意味はよく分からなかった。今でも分からない。灯なんてものを、僕は持っていない。何も持っていない人間が、いったい何を分けてやれるというのだろう。


それでも、その言葉だけは消えなかった。十一年が過ぎても、ふとした拍子に胸の奥で灯る。たぶんこれが、父が僕に遺してくれた、たったひとつのもの。だから僕は、手放せずに後生大事に抱えているのだろう。


「……帰ろう」


呟いて、バケツの水を流しに捨てた。窓の外の橙は、いつのまにか深い藍に沈みはじめていた。


  *


家に着くころには、空はすっかり暮れていた。


「ただいま」


「おかえり、灯真」


台所のほうから、母――美月の声が返ってきた。エプロン姿で、髪をうしろで無造作に結んでいる。湯気と出汁の匂いが、廊下まで流れてくる。


女手ひとつで僕を育てながら、近所の総菜屋で朝から働いている母は、いつもどこか疲れているはずだった。それでも母は、僕の前では決して、その疲れを見せない。


「ごはん、もうすぐできるからね。あ、そうだ。灯真」母は、おたまを手にしたまま、申し訳なさそうに眉を下げた。「ごめん、お醤油を切らしちゃって。角の店まで、ひとっ走り頼まれてくれる?」


「いいよ」


僕は即答した。母の頼みを断ったことは、一度もない。


財布を受け取ろうと居間へ入って、ふと、棚の上に目がいった。古い写真立て。色のあせた写真の中で、若い父が少しはにかむように笑っている。僕が知っている父の顔は、この一枚きりだ。声も、撫でてくれた手の感触も覚えているのに、その顔だけは、写真の中にしかない。


母が、僕の視線に気づいて台所から出てきた。そして、写真を見つめる僕の横で、ほんの少しだけ遠い目をした。


「……お父さんね」母は、静かに言った。「あなたが生まれる前から、ずっと楽しみにしてたのよ。『きっと優しい子になる』って。まるで、もう知ってるみたいに、何度もそう言ってた」


「優しい、か」僕は、つい苦笑してしまった。「そんなの、何の取り柄にもならないのにね」


「――そんなこと、ない」


母の声が、思いがけず強かった。


驚いて振り向くと、母は何かを言いかけて口を開き――けれど結局、その言葉を飲み込んだ。ふっと、いつもの柔らかな笑顔に戻る。


「……ううん。なんでもない。早く行ってらっしゃい。暗いから、気をつけてね」


その一瞬の言いよどみが、胸の隅に小さく引っかかった。


母は、ときどきこういう顔をする。父のことや僕のことを話すとき、ふいに言葉を飲み込む。まるで、僕にはまだ言えない何かを、その胸の奥深くにそっとしまっているような――そんな顔を。


けれど僕は、いつものように深くは考えなかった。サンダルをつっかけて、「行ってきます」と夜の街へ出た。


  *


角の店は、家から歩いて五分ほどの距離にある。


街灯の光が、点々と夜道を照らしていた。この時間、人通りはほとんどない。アスファルトを擦る自分のサンダルの音だけが、やけに大きく夜気に響いていた。


醤油の小瓶を買って、レジ袋を提げ、店を出る。


その、ときだった。


ぞわり、と。


うなじから背筋にかけて、奇妙な感覚が這い上がった。


なんだ、これは。寒いわけではない。なのに、肌が粟立つ。空気が――重い。まるで夜そのものが、ぬるく粘ついて、僕の全身にねっとりとまとわりついてくるようだった。


僕は思わず、足を止めた。


おかしい。何かがおかしい。


ふと気づくと、あれほど鳴いていたはずの虫の声が消えていた。風も止んでいる。世界から、音という音が吸い取られたみたいに。点々と並ぶ街灯の光さえ、心なしか力なくちらついて見えた。


視線が、ひとりでに道の脇の路地へと吸い寄せられた。


家々のあいだの細い暗がり。その奥の闇が――いやに濃い。墨をそのまま流し込んだような黒。すぐ手前の街灯の光すら、その一画だけはまるで届かず、呑み込まれている。


そして、その底なしの闇の中に。


誰かが、いた。


うずくまっている。小さな影。子どもだろうか。膝を抱え、肩を震わせ、何かに怯えるように身を縮めている。


『誰かが、暗がりでうずくまっていたら』


ふいに、父の声が胸の奥でよみがえった。


考えるより先に、僕の足はもう、そちらへ向かっていた。


何も持たない僕に、唯一残されているもの。困っている誰かを見過ごせない。それだけは、どうしてもできない。たぶんそれは、取り柄でもなんでもない。ただの損な性分。それでも――。


「だ、大丈夫?」


声をかけながら、僕はその影に駆け寄ろうとした。


けれど。


次の瞬間。


うずくまっていた影が、ゆらり、と顔を上げた。


そして、僕は見てしまった。


その顔に――目が、なかった。


のっぺりとした、白い面のような顔。鼻も、目もない。ただ、墨で一筋、横ざまに裂いたような黒い口だけが。にいっ、と耳まで届くほど、大きく横に広がっていく。


人では、ない。


人のかたちをなぞっただけの、まるで別の何か。


ぐにゃり、と周囲の闇が、生き物のように蠢いた。


逃げろ、と頭の芯が叫んだ。なのに、足が動かない。膝が笑って、その場に縫いとめられたように立ちすくむ。


目のないそれが、ゆっくりと、関節のおかしな動きで立ち上がる。そして、墨を塗ったような長い腕を――まっすぐ、僕に向かって伸ばしてきた。


ひゅう、と喉の奥で息が鳴った。


僕の、何ひとつ持たない平凡な日常が。


ここで、音を立てて終わりを告げた。

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