第二十五話 灰の少年の選択(前)
灰村燼を退けてから。数日が、過ぎた。
けれど、僕の心は。晴れなかった。
崩れた楔の、その瞬間に見た――焔の瞳。鎖に引き裂かれそうな、あの揺らぎ。あれが、ずっと、頭から離れなかった。
『灰返りを止めることばかり、考えてた』陽が、灯を通じて言った。『でも……父さんの言うとおりかも、しれない。あの、焔って奴。あいつも……灰村燼の、被害者なのかも』
被害者。
そうだ。焔も。母を喪い。父に鎖を刻まれ。望まぬ戦いを、強いられている。彼自身もまた――灰返りという、悲しみの連鎖に、囚われた一人なのだ。
僕は、決めた。
焔を。あの鎖から。解き放ちたい。それは、灰村燼を止めることと。きっと、同じくらい、大切なことだと。思ったから。
その夜。僕は、一人で。あの川沿いの道に、立っていた。
なぜか、確信があった。焔が、来る、と。彼もまた、僕と決着をつけたがっている。そんな気がした。
果たして。
闇の中から。焔が、現れた。一人で。
「……また、お前か、燈本」焔の声は。いつもの冷たさの中に。どこか、疲れが滲んでいた。「何のつもりだ。一人で、こんなところに」
「焔。話がしたい」僕は、言った。「戦いじゃ、なくて。お前と、話が」
焔の眉が、寄った。「……話すことなど、ない」
「あるよ」僕は、まっすぐに彼を見た。「お前、本当は。灰返りなんて。やりたくないんだろう」
焔の表情が。凍りついた。
「……黙れ」
「お前の母さん――紫苑さんは」僕は、言った。「本当は。戦いを終わらせたかった人だ。燈本と灰村が、いがみ合うのを。誰より悲しんでた人だ。父さんから、聞いた」
「……っ!」焔の目が、見開かれた。「なぜ、貴様が……母上の名を」
「紫苑さんが、いちばん望まなかったのは」僕は、続けた。「お前が、こんなふうに。憎しみの鎖に縛られて。苦しむことだったはずだ。――お前の母さんは。お前に、幸せに生きてほしいって。きっと、そう願ってたよ」
焔の体が。震えた。
「違う……っ」彼は、呻いた。「母上は……燈本に殺された。父上が、そう……」
「紫苑さんは」僕は、静かに言った。「燈本と、灰村。両方の争いに巻き込まれて。亡くなったんだ。誰か一人のせいじゃ、ない。――だから、お前が燈本を憎んでも。紫苑さんは。喜ばない」
焔は。両手で。頭を抱えた。
「うるさい……うるさい!」彼は、叫んだ。「おれは……おれは、何のために……っ」
その瞬間。彼の左腕の鎖が。激しく脈打った。
「ぐ、あああっ!」
焔が、苦痛に膝をつく。鎖の紋様が、彼の腕から、全身へと。黒く、広がっていく。まるで、彼の心の揺らぎを。罰するように。
「焔!」僕は、駆け寄った。
「来るな!」焔が、苦しげに叫んだ。「この鎖は……おれが、灰返りから心を逸らすと……おれを、内側から灼く。父上が……おれを、決して逃がさぬように……刻んだ、ものだ」
僕は。ぞっとした。
なんて、惨い。自分の息子に。心の自由すら。許さないなんて。
「焔」僕は、彼の傍らに膝をつき。まっすぐに言った。「その鎖は。お前の、本当の想いじゃ、ない。父さんに刻まれた、ものだ。――お前は。お前自身の心で。選んでいいんだ。誰を憎むかも。何のために生きるかも」
焔が。苦痛に歪んだ顔で。僕を見た。
その瞳の奥に。
ほんの、一瞬。
鎖に覆い隠されていた――幼い少年の面影が。揺らいで、見えた。母を喪い。父にすべてを奪われ。それでも、どこかで。本当は、誰かに。救ってほしかった、少年の。
「おれ、は……」焔の唇が。震えた。「おれ、は……本当は……」
その続きを。
聞きたかった。けれど。
「焔。何をしている」
闇の中から。冷たい声が、響いた。
燼、だった。
焔の体が。びくり、と。強張った。鎖の紋様が、ぎらりと輝く。
「……父上」焔が、呻いた。
「燈本の戯言に。耳を貸すとは」燼の声は、氷のようだった。「焔。おまえは、誰の子だ。何のために生まれた。――思い出せ」
その声に。焔の、揺らいでいた瞳が。再び、凍りついていく。鎖に縛られた、人形の目に。戻っていく。
「焔、だめだ!」僕は、叫んだ。「お前の心に、戻れ!」
けれど。
「……おれは」焔は、ふらりと立ち上がった。その目は、もう。虚ろだった。「おれは、灰村焔。父上の悲願を、果たす者。それ以外の……何者でも、ない」
そして、彼は。燼のもとへ。歩いていった。鎖に引かれる、まま。
「待て、焔!」
僕の声は。届かなかった。
闇の中へ消えていく、焔の背中。けれど、その刹那。
彼が。ほんの一瞬だけ。振り返った気がした。
その目が。何かを。訴えていた気が。
二人の姿が消えたあと。
僕は、しばらく、その場に、立ち尽くしていた。
あと、少しだった。あと少しで。焔の、本当の心に。手が届きそうだった。
けれど、僕は。諦めなかった。
焔の瞳に見た、あの揺らぎ。あの振り返り。あれは。彼の心が。まだ、死んでいない、証だ。
「……必ず」僕は、闇に向かって呟いた。「次は、必ず。お前を。その鎖から、解き放つ」
そして、僕は、知る由もなかった。
その「次」が。灰村燼の、最後の企てと、ともに。すぐ、そこまで迫っていることを。
灰返りの、最終決戦。その舞台で。焔は――最後の選択を、迫られることになる。




