第十八話 三十年前の悲劇
その夜。僕は、修行を終えると、胸の灯を、過去へと繋いだ。
三十年前を生きる、父・宗一へ。
『どうした、灯真』父の、温かい声が応えた。『今日は、ずいぶん思い詰めた顔だな』
「父さん」僕は、切り出した。「教えてほしいことが、あるんだ。――灰村燼。あの人のこと。そして……あの人の妻が、亡くなったときのことを」
父の気配が、ふっと沈黙した。
長い沈黙のあとで、父は、静かに言った。
『……その話を、するか』その声には、深い痛みが滲んでいた。『おれの、いちばん忘れたい――忘れてはならない、記憶だ』
『燼の妻は』父は、ゆっくりと語りはじめた。『紫苑、という人だった。灰村の家に嫁いだが……心の優しい人でな。血脈の、果てなき戦いを、ずっと憂いていた。「燈本と灰村が、いがみ合う、こんな戦い。いつか、終わらせたい」と。そう願う人だった』
僕は、息をのんで、聞いていた。
『紫苑さんは、何度も、両家の橋渡しをしようとした』父の声が、震えた。『燈本と、灰村。憎しみ合う二つの血を、和解させようと。――おれも、その想いに心を動かされた一人だ』
灰村の人なのに、戦いを終わらせようとしていた。
『だが』父の声が、苦しげに歪んだ。『ある日。両家の、大きな衝突があった。激しい戦いだった。その最中に……紫苑さんは、戦いを止めようと、両軍の間に身を投げ出した』
「……っ」
『おれは、すぐ、そばにいた』父の声が、掠れた。『止めようと、手を伸ばした。けれど――間に合わなかった。乱戦の中で。彼女は……燈本と、灰村、双方の力に呑まれて。喪われた』
僕の胸が、締めつけられた。
戦いを終わらせようとした人が、その戦いの中で、命を落とした。両家の力に、呑まれて。
『燼の絶望は』父は、言った。『見ていられないほど、だった。最愛の妻が。和解を願った妻が。その、和解しようとした戦いで、死んだ。……あの男は、その日、壊れた』
『そして、燼は、こう考えるようになった』父の声が、低く沈んだ。『「燈本さえ、いなければ。この戦いは、起こらなかった。紫苑は、死ななかった」と。「ならば――燈本を、根から消す。この世から、燈本が存在しなかったことにすれば。紫苑の死も、なかったことにできる」と』
灰返り。
その、おぞましい企ての根っこが、今、僕の前に横たわっていた。
妻を喪った、悲しみ。それを消し去ろうとして、燼は――世界そのものを、消す道を選んだのだ。
僕は、震える声で言った。
「父さん……灰村燼は、妻を愛してた。だからこそ……あんなことを」
『ああ』父は、静かに言った。『あの男は、悪魔じゃ、ない。ただ、愛する者を喪った、哀しい男だ。その哀しみが――出口を、間違えた。だけなんだ』
僕は、思った。
僕の父、宗一も、いつか僕を遺して逝く。自分の死を知りながら。それでも、父は、その喪失の痛みを、僕への愛に、未来への灯に変えた。「困っている人に、灯を分けてやりなさい」と。
灰村燼も、妻を喪った。けれど、その痛みを、憎しみに、世界を消す復讐に変えた。そして、息子に、その鎖を刻んだ。
同じ、喪失。けれど、選んだ道は、正反対。
片や、灯を継ぎ。片や、灰に返す。
『喪った悲しみは』父が、ぽつりと言った。まるで、僕の心を読んだように。『消し去ろうとすれば、人を呑む。だが……次の世代へ手渡す灯に変えれば、未来を照らす。――おれは、そう信じてる。灯真。おまえに、この灯を託すのも、そのためだ』
父の言葉が、僕の胸に深く染み込んだ。
そして、僕は、気づいた。父の声に滲む、もう一つの痛みに。
「父さん。もしかして……紫苑さんを止めようとして、間に合わなかったこと。ずっと、背負ってきたの?」
父は、少しの沈黙のあとで、静かに言った。
『……ああ。おれが、もう少し早ければ。あるいは、おれたちが、もっと早く戦いを終わらせていれば。彼女は、死なずに済んだかもしれない。――その悔いは、今も、おれの中にある』
僕の父も、あの悲劇の当事者の一人だった。和解を願った人を、救えなかった。その悔いを、抱えて。
二人の父。宗一と、燼。同じ悲劇に立ち会い、同じ痛みを知りながら。一人は灯を選び、一人は灰を選んだ。
僕は、ぎゅっと目を閉じた。
灰村燼を、ただの悪として憎むことは、もうできなかった。けれど、だからといって、彼の灰返りを許すわけにもいかない。あれは、紫苑さんが、いちばん望まなかったことのはずだから。
戦いを終わらせたかった人。その人の死が、さらなる破滅を生もうとしている。こんな皮肉が、あっていいはずがない。
「……父さん」僕は、目を開けた。「僕、決めたよ。灰村燼を、止める。力で、ねじ伏せるんじゃなくて。あの、悲しみの連鎖そのものを、断ち切る。それが、きっと――紫苑さんの願いでも、あるはずだから」
時の彼方で。父が、優しく笑った気がした。
『……おまえは、本当に。おれの、自慢の息子だ』
その夜、僕の戦いの意味が、一つ深くなった。
ただ、敵を倒すのでは、ない。受け継がれた、悲しみと憎しみの鎖を、断ち切るための戦い。
その決意を胸に、僕は、次の一歩を踏み出そうとしていた。




