第十話 燼の影
息を切らして、家に駆け戻る。
夜の住宅街は、あの墨のような闇にすっぽりと覆われていた。街灯は、ことごとくちらつき、消えかけている。そして、僕の家の前に。
それは、いた。
数えきれないほどの、目のない化け物。そして、その中心に――あの痩せた少年。灰村焔が、静かに立っていた。
僕の家の玄関の灯りが、割れた窓ガラスの破片とともに、夜にこぼれている。
「母さん――!」
僕は、闇をかき分けて駆け寄った。
玄関の中に、母が倒れていた。怪異に、囲まれて。けれど母は、気丈にも、何か護りの札のようなものをかざして、辛うじてその身を守っている。七瀬の家から、譲り受けたものだろうか。けれど、その光も、もう消えかけていた。
「灯真……! 来ては、だめ……っ」母が、僕を見て叫んだ。「逃げて……!」
逃げられるわけが、ない。
「来たか」焔が、僕を振り返った。その目は、相変わらず凍てついている。「おまえをおびき出すのに、母親を使わせてもらった。――燈本の血を、根絶やしにする。母も、子も。それが、灰返りの第一歩だ」
灰返り。
その、おぞましい企ての影が、今、僕の家にまで伸びてきていた。
「焔」僕は、絞り出すように言った。「これは……お前の意志なのか。本当に、お前がこんなことをしたいのか」
焔の眉が、ぴくり、と動いた。
「……何が、言いたい」
「お前、いつも『役目だ』って言う」僕は、言った。「自分がしたいとは、言わない。お前は、本当は――」
「黙れ」
焔の声が、初めて鋭く尖った。その指先の黒い炎が、ぶわりと膨れ上がる。
「貴様に、何が分かる」彼の声に、抑えきれない何かが滲んだ。「選べる者には。――何もかも奪われた者の、気持ちなど」
その時。
焔の背後の闇に。ふいに、もう一つの気配が立ち昇った。
声がした。低く、しわがれた、けれど、ぞっとするほど静かな、老人の声。
『焔。何を、手間取っている』
焔の体が、びくり、と強張った。その横顔に――怯えにも似た色が、よぎる。
「……父上」焔が、呟いた。
闇の奥。そこに、おぼろげに、人影が浮かんでいた。痩せた、長身の老人。その顔は、闇に紛れてはっきりとは見えない。けれど、その底知れぬ、冷たい気配だけが、ひしひしと伝わってくる。
灰村、燼。
焔の父にして、灰村家の当主。〈灰返り〉を企てる、すべての元凶。
その影が、今、確かに、僕の前にあった。
『燈本の、最後の灯か』燼の声が、僕を撫でた。ぞっとするほど、温度のない声。『おまえが消えれば。長きにわたる、忌まわしき燈本の血も。ようやく、潰える。――焔。やれ』
焔が、唇を噛んだ。そして、僕に黒い炎を向ける。その目に、迷いはなかった。いや――迷いを、押し殺した目だった。
化け物たちが、一斉に、僕と母に襲いかかった。
僕は、御守りを握りしめ、灯を灯した。けれど。あの夜の敗北が、蘇る。届かない。僕の灯では、この数を、燼の影を、焔を、抑えきれない。
「く……っ、あああ!」
光を、必死に振り絞る。母を庇って、前に出る。けれど、黒い炎は、津波のように、僕の弱い光を呑み込んでいく。
体が、削れる。意識が、遠のく。
だめだ。届かない。このままじゃ、母さんが。僕が。みんな――。
膝が、折れる。視界が、白む。
母の悲鳴が、遠くで聞こえた。
ああ。
僕は結局、何も守れないのか。父さんが、命がけで遺してくれた、この灯で。何ひとつ――。
その、絶望の淵で。
僕は、最後の力を振り絞って、胸の灯に叫んだ。
助けて。誰か。――父さん!
その、瞬間だった。




