【第四章】所轄署刑事・佐伯の独白
「わけがわからない……」
私は薄暗い取調室の隣、マジックミラー越しの監視室で、机の上に積まれた三つの分厚い供述調書を前に、ただ深く頭を抱えていた。
刑事生活三十年。これまで数多くの凄惨な殺人事件や、狡猾な知能犯と対峙してきた自負はある。だが、こんなにも不気味で、こんなにも「証拠と証言が揃いすぎているがゆえに手詰まり」になる異常な事件は初めてだった。
容疑者は三人。
予備校に出入りする出版社の営業マン、遠藤和馬。
私立医学部志望の特進クラス生徒、一ノ瀬葵。
予備校の看板である現代文講師、蓮見修介。
彼らは皆、自らの犯行を詳細に、そして生々しく語った。その動機も、彼らの供述をそのまま信じるならば、十分に同情の余地があるものだった。
遠藤は「生徒の不利益を顧みない強欲な経営への義憤」から。
一ノ瀬は「自身の尊厳を蹂躙する卑劣な脅迫に対する正当防衛」として。
蓮見は「金儲け主義で教育現場を腐敗させる独裁者への鉄槌」として。
それぞれが自らを「悲劇のヒロイン」や「正義の執行者」のように語り、城ヶ崎という巨悪を討ち果たしたのだと主張して譲らない。
遠藤は「二十時四十五分にネクタイで首を絞めた」と言い張る。
一ノ瀬は「二十一時十五分に胸にカッターナイフを突き刺した」と泣き崩れる。
蓮見は「二十一時四十五分に大理石の灰皿で頭を叩き割った」と豪語する。
通常、これだけ凶器と証言が揃っていれば、捜査は簡単なはずなのだ。三人のうち、誰か一人の攻撃が致命傷を与えた「主犯」であり、後の二人はすでに死んでいる遺体を傷つけた「死体損壊」、あるいは死にかけている相手を襲った「殺人未遂」に問われる。
司法解剖を行えば、どの段階で被害者が絶命したのか、つまり「誰が本当のトドメを刺したのか」は医学的に一目瞭然となる。我々警察は、その法医学の結論を待って、一人に殺人罪の逮捕状を執行すればそれで終わるはずだった。
しかし、県警本部の法医学教室から上がってきた解剖結果は、我々捜査員を深い絶望の淵へと突き落とした。
まず、死亡推定時刻が全く絞り込めない。
事件当夜、何者かが予備校のIOT空調システムにハッキングで侵入し、理事長室の床暖房とエアコンを最大出力で暴走させていた。容疑者たちが口を揃えて「サウナのようだった」と証言した、あの異常な熱気だ。室温が人間の体温と同じ三十六度前後に長時間保たれていたことで、死体の直腸温度の低下プロセスが完全に破壊されていた。法医学者がどれほど緻密な計算式を用いても、死亡推定時刻は「十九時から二十三時の間のどこか」という、四時間もの途方もないブレが生じてしまい、裁判の証拠として全く使い物にならなくなったのだ。
さらに恐ろしいのは、被害者である城ヶ崎勉の体内から、致死量スレスレの強力な中枢神経抑制剤、平たく言えば「極めて強力な睡眠薬」が検出されたことだ。
監察医の説明によれば、城ヶ崎は十九時過ぎの早い段階でこの睡眠薬を摂取し、極端な昏睡状態に陥っていた。呼吸は限りなく浅く、心拍数は一分間に数回という、仮死状態に近い「極端な徐脈状態」だったというのだ。
その結果、何が起きたか。
遠藤が首を絞めた時も、一ノ瀬がナイフを突き刺した時も、蓮見が灰皿を振り下ろした時も、城ヶ崎の心臓は「極端に遅く、微弱ながらも、確実に動いていた」のだ。事実、三つの傷すべてに「生活反応(生きている間に血液が循環していた状態で受けた傷の証拠)」がはっきりと残っていた。
睡眠薬による呼吸抑制、絞殺による低酸素脳症、刺傷による失血、打撲による脳挫傷。これらが複雑に絡み合い、最終的に多臓器不全を引き起こしたと判定された。法医学用語でいう「競合死因」というやつだ。
『遠藤容疑者の絞殺の時点で死への閾値を超えていたのか、それとも蓮見容疑者の打撲まで微弱に持ち堪えていたのか、現代の医学では証明不可能です』
監察医のその無機質で冷酷な宣告は、この事件における「誰が殺したのか」という殺人罪の立証が、医学的に不可能になったことを意味していた。
そしてトドメとばかりに、現場に残されたデジタル証拠が、我々の大混乱に拍車をかけた。
被害者の腕に巻かれていた最新のスマートウォッチのログは、「二十時五十分に心拍数がゼロになった」と明確に記録している。これは遠藤の犯行時刻の直後であり、見事に一致する。
しかし、部屋のスマートスピーカーの音声認識ログには、一ノ瀬が部屋にいた「二十一時十五分」に、被害者の声で『君との関係は終わりだ』という発話記録が残っているのだ。
さらに極め付けは、被害者のパソコンの操作ログだ。蓮見が部屋を訪れる直前の「二十一時四十分」まで、被害者本人のアカウントでキーボードが叩かれ、ファイルが保存されていた記録が残っている。
心臓が止まった後に、喋り、パソコンを打つ死体。
誰かが意図的にデジタルログを偽装したとしか考えられないが、ハッキングの痕跡はあまりにも巧妙で、どれが真実でどれが偽物か、あるいはすべてが偽物なのか、サイバー犯罪対策課のエリートたちでさえ見破ることができなかった。
「自白してくるやつが三名。致命傷は現在のところどれか分からない。死亡推定時刻は幅が広すぎる。おまけに、客観的な真実を語るはずのデジタル証拠は矛盾だらけだ」
私は誰もいない監視室で、壁に向かって独りごちた。
これでは誰が死体を殴り、誰が生きている人間を殺したのか、法廷で立証することなど絶対に不可能だ。「合理的な疑い」が残る以上、検察は彼らの誰一人として「殺人罪」で起訴することはできない。有罪率九十九パーセントを誇る日本の司法において、これほど負け戦が確定している状況はない。全員が傷害、あるいは死体損壊の罪に問われるのが関の山だろう。
三人の人間が、確かな殺意を持って一人の人間を襲った。
全員が「私が殺しました」「私が正義を下しました」と涙ながらに、あるいは誇らしげに告白している。
それなのに、誰も「殺人者」にはなれない。
我々警察は、目に見えない何者かが周到に植え付けた、深く暗い「人工の藪」の中に完全に迷い込んでしまったのだ。この狂気じみたデジタルの迷宮から抜け出す道は、永遠に見つからないのかもしれない。手元の調書を見つめる私の目には、ただ深い疲労と絶望だけが映っていた。
解決編にあたる第5話と第6話は明日正午にアップします。




