【第二章】特待生・一ノ瀬葵の告白
私がやりました。あの醜悪で汚らわしい男の分厚い胸に、大型のカッターナイフを力いっぱいに突き刺したのは、間違いなく私です。
警察の方々は、私の証言を未だに疑っているようですね。「致命傷が特定できない」「他にも自首してきた人間がいる」などと仰いますが、そんなことは私には一切関係ありません。私はあの夜、確かに生きて動いていた城ヶ崎理事長に向かって刃を振り下ろし、その肉を引き裂く確かな手応えを感じたのですから。何度聞かれても、私の答えは決して変わりません。私が彼を殺しました。
私は、代々続く医師の家系に生まれました。祖父も、父も、二人の兄も、親族のほとんどが医療従事者という厳格な環境で育った私にとって、「医学部へ進学すること」は将来の夢などではなく、生まれた時から課せられた絶対の義務であり、決して逃れられない呪いでした。幼い頃から遊ぶことなど許されず、家庭教師と塾の往復だけの毎日。しかし、私には医師としての特別な才能も、過酷な受験戦争を勝ち抜くほどの地頭もありませんでした。
現役での受験にすべて失敗し、この「秀英アカデミー」に特待生として入ったものの、私の成績は一向に伸びませんでした。秋の模試の判定も絶望的で、実家に帰るたびに両親や兄たちから向けられる、期待外れの出来損ないを見るような冷たい視線に、私の精神は完全にすり減っていました。プレッシャーに押し潰されそうになった私は、ある時一度だけ寮を抜け出し、お酒を飲んで気を紛らわせたことがありました。未成年の受験生としては取り返しのつかない素行不良だと今では後悔しています。
そんな私の圧倒的な弱みに、まるで毒蛇のように滑り込んできたのが、城ヶ崎勉という男でした。
ある日の面談で、彼は私の夜遊びの決定的な証拠写真を見せつけ、冷酷な脅しを口にしました。「君が夜の街で酒を飲んで徘徊している素行不良の事実を、ご両親に報告しようか。そうなれば、君はこの予備校にもいられなくなるだろうね」と。
予備校を退学になり、素行不良がバレれば、私は家族から完全に勘当され、居場所をすべて失います。恐怖で震える私に対し、あの男はさらに信じられない要求を突きつけてきました。「報告されたくなければ、私の言うことを聞きなさい」。彼は、沈黙の代償として私の身体を求めてきたのです。
私の心には、自分の尊厳を蹂躙しようとする城ヶ崎に対する、どす黒く煮え滾るような憎悪が蓄積していきました。私は絶対に屈しない。しかし、どうすればこの地獄から抜け出せるのか。毎晩、暗い部屋で一人泣き続けるしかありませんでした。
事件の夜。私のスマートフォンにメッセージが届きました。
『二十一時十五分、理事長室へ来い。君の将来について話をしよう。』
その文字を見た瞬間、私の中で張り詰めていた何かが、プツリと音を立てて切れました。もう限界でした。これ以上、あの男の脅迫に怯え、私の人生と尊厳をオモチャにされてたまるものか。
私は覚悟を決めました。美術の授業で使っていた、刃の厚い大型のカッターナイフを鞄に忍ばせ、足音を殺して夜の校舎を歩きました。自分の未来を、誇りを、この手で守り抜くために。
指定された二十一時十五分。私は震える手で理事長室のドアを開けました。
部屋に足を踏み入れた瞬間、息が詰まるほどの不自然な熱気が全身を包み込みました。冬の夜だというのに、むせ返るようなサウナ状態です。異常な暑さに眩暈がしそうになりましたが、私の目は真っ直ぐに部屋の奥を捉えていました。
照明の落ちた薄暗い部屋の奥、重厚なデスクの向こう側のリクライニングチェアに、城ヶ崎が座っていました。
暗闇の中から、私を値踏みするような、あの忌まわしい声が響きました。
『君との関係は終わりだ』
その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを悟りました。彼が言う「関係」とは、もちろん私とこの予備校との関係のことです。私が彼の身勝手な性的な要求に完全には屈しないと見て、ついに私を予備校から追放し、両親にすべてを暴露する気なのだと。私の人生を完全に終わらせるつもりなのだと。
そして同時に、暗闇の中で城ヶ崎の大きな影がゆっくりと前傾姿勢になり、椅子から立ち上がってこちらへ襲いかかってくるように見えたのです。
「あ、ああ……!」
捕まればすべてが終わる。恐怖がフラッシュバックし、私は完全にパニックに陥りました。頭の中が真っ白になり、気がつけば鞄からカッターナイフを引き抜き、凶悪な刃を限界まで押し出していました。
「来ないで!」
私は鼓膜が破れそうなほどの悲鳴を上げながら、真っ暗な部屋の中を猛然と突進しました。迫り来る黒い影の中心に向かって、目を固く閉じたまま、渾身の力で刃を振り下ろしました。
ズブり、という生々しい音がしました。何重にも着込んだ服を裂き、分厚い肉と脂肪の壁を突き破り、刃が深々と沈み込んでいく恐ろしい手応え。
城ヶ崎は悲鳴を上げることもなく、再び深く椅子に沈み込みました。私が恐る恐る目を開けると、暗がりの中でも、彼の胸の中心からドクドクと黒い液体が溢れ出し、シャツを染めていくのがはっきりと見えました。むせ返るような血の匂いが、サウナのような熱気に乗って鼻腔を突き刺しました。
私は凶器のナイフをその場に放り出し、後ずさりをしながら部屋を飛び出しました。息が切れるまで走り、寮の自室に戻ってからも、手についた血の感触に怯えて朝まで泣き続けました。
私は自分を守りたかっただけなのです。私の純潔と、医師になるという夢と、そして人間としての尊厳を守るために、あの怪物を排除するしかなかった。
誰が何と言おうと、あの男を地獄へ送ったのはこの私です。




