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【第一章】教育出版社営業・遠藤和馬の告白

私の手には、まだあの男の首に巻きつけた特注のシルクのネクタイの感触が、ひどく生々しく残っている。


無機質な取調室のパイプ椅子に座り、刑事たちの厳しい視線を浴びている今でも、手のひらにこびりついたそのおぞましい感触が消えることはない。石鹸で何度洗っても、あの分厚い布越しに伝わってきた不気味な弾力と、命をすり潰していくような重みだけが、幻肢痛のように私を苛み続けているのだ。


私が、医学部専門予備校「秀英アカデミー」の城ヶ崎勉理事長の息の根を止めた。絶対に間違いない。刑事たちがどれほど「本当に君一人でやったのか」「他に心当たりはないか」と執拗にカマをかけてこようと、私の答えは決して変わらない。私が殺したのだ。


私は教育出版社「開拓社」の営業マンとして、長年この予備校を担当してきた。秀英アカデミーは医学部受験に特化し、生徒一人ひとりの膨大な学習データを徹底管理して合格へ導くシステムで知られている。私自身も、ただの出入りの業者という枠を超え、教務スタッフの方々と綿密に連携を取りながら、身を粉にして働いてきた自負がある。すべては、過酷な受験戦争を戦う生徒たちに、最高のオリジナルテキストや精度の高い模試データを提供するためだった。生徒たちの合格の笑顔を見ることが、私の営業マンとしての最大の誇りであり、生きがいでもあった。


しかし、城ヶ崎理事長という男は違った。彼は教育者などではなく、底なしの欲望を持った冷酷な拝金主義の怪物だった。


彼は私が生徒のために日夜駆け回り、教務スタッフと共に築き上げてきたテキストの品質や学習システムなど、微塵も評価していなかった。彼の頭にあるのは、いかに安く業者を叩き、いかに予備校の利益を最大化するかという一点のみ。最近では、信じられないほどのコスト削減と、他社では絶対に受けられないような無茶な納品スケジュールを押し付けてくるようになった。私が「これ以上のコスト削減はテキストの質に関わる、生徒たちへの裏切りになる」と何度も訴えても、彼は鼻で笑うだけだった。


事件当日の夕方。外回りを終えて会社に戻った私のデスクに、差出人不明の茶封筒が置かれていた。中には手書きのメモが一枚だけ入っていた。


『本日二十時四十五分、理事長室へ来い。今後の取引について最終的な決着をつける』


決着。その二文字を見た瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡った。ついに私を、そして開拓社を完全に切り捨てるつもりなのだと直感したのだ。私がどれだけ生徒のために尽力してきたかなど一顧だにせず、より安い見積もりを出してきた同業他社へ乗り換える気なのだと。


指定された時刻、私は重い足取りで夜の校舎に向かった。生徒たちはすでに帰宅し、広大な校舎は不気味なほど静まり返っていた。心臓の音が鼓膜で鳴り響く中、三階の理事長室へと続く重厚なドアの前に立った。


ノックをしても返事はない。ノブを回すと、鍵は開いていた。


ドアを開け放った瞬間、むっとした暴力的な熱気が顔を打った。十一月の冷え込む夜だというのに、部屋の中はまるで真夏のサウナのように異常な暖かさだった。コートを着ているだけで汗が吹き出してくる。空調システムが暴走しているのかと思ったが、極度に張り詰めていた私の脳は、そんな些細な違和感を処理することを完全に放棄していた。


部屋の照明は落とされており、薄暗い奥のデスクの向こう側に、大きな革張りの椅子が見えた。そこに城ヶ崎が深く腰掛けているシルエットが浮かび上がっていた。逆光のせいで表情は全く読めない。


「失礼します、遠藤です」


震える声で告げると、闇の中からあの低く、人を小馬鹿にしたような傲慢な声が響いた。


『私が何もわかっていないと思っているのかね?』


その一言が、私の胸の奥底を鋭くえぐり、張り詰めていた理性の糸をあっけなく断ち切った。


何もわかっていないだと?ふざけるな。私がどれだけ生徒たちのために、現場のスタッフたちのために泥水すする思いで走り回ってきたか、何も分かっていないじゃないか。それを自分勝手な利益のためだけに切り捨て、別の業者に乗り換えようというのか。


私のこれまでの血を吐くような努力、予備校に捧げてきた誠意。私のすべてを根底から否定し、嘲笑うかのようなその声に、怒りで視界が真っ赤に染まった。


気がつけば私はデスクを回り込み、城ヶ崎の胸ぐらに掴みかかっていた。


男はだらりと腕を下げたまま、全く抵抗しなかった。暗がりの中で、微動だにせず私を見下して冷笑しているように感じた。その態度が、さらに私の正義感と殺意を激しく煽った。


「俺の、生徒たちのための努力を何だと思っているんだ!」


私は彼の首元で鈍く光る特注のシルクのネクタイを両手で掴み、全体重をかけて力任せに絞り上げた。無我夢中で、ただひたすらに腕に力を込めた。手首に食い込む分厚い布の感触。絞め上げるたびに男の身体が不自然に大きく揺れ、やがて、抵抗する力を完全に失ったように、巨体が重い音を立ててデスクに突っ伏した。


ハッと我に返り手を離すと、男はピクリとも動かなかった。


異常な熱気に包まれた部屋の中で、私だけが荒い息を吐いていた。手に残る、確かな命を奪った生々しい感触。私は自分の犯した罪の恐ろしさに震え上がりながらも、心のどこかで「予備校の癌を取り除いたのだ」という奇妙な達成感すら抱いていた。


あの男を殺したのは、私のこの手だ。生徒たちの未来を守るために、私が決着をつけたのだ。

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