プロローグ:澱みの学舎と三つの凶器
芥川龍之介の「藪の中」ってありますよね。
全員が「俺が殺した」っていう。
あれを読みたくなって書きました。
念のため実在の人物・組織その他とは一切関係ないですし、モデルも存在しません。
事件編にあたる第1話~4話を30分毎にアップします。
解決編にあたる第5話と第6話は明日正午にアップします。
【1】
私の名前は木村。医学部専門予備校「秀英アカデミー」で教務スタッフとして働いている。
生徒たちの膨大な学習データの入力や、日々の生活態度に関する面談対応など、教務の仕事は多岐にわたるが、私にとって最も重要な日課の一つが「誰よりも早く出勤し、校舎の鍵を開けて回ること」だ。
十一月の冷え込む朝、午前七時。私はいつものように一階のロビーから順に各フロアの解錠と空調のチェックを済ませ、最後に三階の理事長室へと向かった。通常、この部屋は朝一番に清掃業者が入る手はずになっているのだが、今日はなぜか内側から鍵がかけられたままで、何度ノックしても全く反応がない。
中で理事長が倒れでもしているのではないか。嫌な予感がした私は、慌てて管理室からマスターキーを持ち出し、分厚いマホガニーのドアを開けるしかなかった。
ドアを開け放った瞬間、むわっとした暴力的な熱気が顔を叩いた。冬の朝だというのに、部屋の中はまるで真夏のサウナのように息苦しい。空調の設定がおかしくなっているのかと訝しみながら、私は薄暗い部屋の奥へと足を踏み入れた。
「理事長、いらっしゃいますか……?」
返事はない。部屋の奥、大きな革張りの椅子に、理事長の城ヶ崎勉が深くもたれかかっているのが見えた。しかし、その姿勢はどこか不自然だった。だらりと両腕を垂らし、頭を不気味な角度で傾けている。
恐る恐る近づいた私の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
城ヶ崎理事長は、死んでいた。ただ死んでいるだけではない。その死に様は、あまりにも凄惨で、かつ異様だったのだ。
首には、彼がいつも愛用している特注のシルクのネクタイが、首の肉に深く食い込むほどの異常な力で何重にもきつく巻き付けられている。
さらに視線を下げると、はち切れそうなほど太った胸の中心に、美術用の分厚いカッターナイフが深々と突き刺さっており、周囲の高級なシャツを赤黒く染め上げていた。
それだけではない。彼の頭部、ちょうど右のこめかみの辺りは何かに激しく殴打されたように陥没しており、デスクの上には、べっとりと赤黒い血と肉片がこびりついた大理石の重厚な灰皿が転がっていたのだ。
絞殺か、刺殺か、撲殺か。三つの致命的な凶器が、一人の死体に群がっている。
私は恐怖で膝から崩れ落ちながら、震える手でスマートフォンの画面をタップし、警察への通報ボタンを押した。
【2】
「被害者は城ヶ崎勉、五十二歳。医学部専門予備校『秀英アカデミー』の理事長だ。死因は現在法医学教室で解剖して特定中だが……現場の状況を見る限り、どれが致命傷になってもおかしくないほど派手にやられていたようだな」
所轄署の薄暗い会議室で、ホワイトボードに被害者の顔写真を貼り付けながら、ベテラン刑事の佐伯が低い声で言った。
手元の資料に目を落とすと、被害者の華々しい経歴とは裏腹に、その裏の顔は真っ黒に塗りつぶされていた。
「秀英アカデミーは、徹底したデータ管理とスパルタ教育で、医学部合格率トップクラスを誇る新興予備校だ。だが、この城ヶ崎という男の評判は最悪の一言に尽きる。取引業者に対する法外なキックバックの要求、特定の私立大医学部との間で囁かれる入試問題の不正漏洩疑惑。おまけに内部の教務スタッフや講師に対する凄惨なパワーハラスメントは日常茶飯事で、気に入った女子生徒には推薦枠を餌に関係を強要していたという黒い噂まで飛び交っている」
佐伯は大きくため息をつき、手元のボールペンで机をコンコンと叩いた。
「これだけ周囲を食い物にしていれば、恨みを持つ人間など山ほどいるだろう。業者の関係者か、内部の職員か、それとも追い詰められた生徒か。怨恨の線で洗えば、容疑者は二桁を下らないはずだ。おい、野村」
佐伯は、部屋の隅で書類の束を抱えて立っている後輩刑事の野村に声をかけた。
「まずは昨日から今朝にかけて、現場の校舎に出入りしていた連中のリストを洗い出せ。特に城ヶ崎と直接トラブルを抱えていた怪しい連中から順番に事情聴取だ。長丁場になるぞ」
指示を受けた野村だったが、なぜか彼はひどく困惑した表情を浮かべ、気まずそうに視線を泳がせていた。
「どうした、野村。早く行かんか」
「いえ、それが……佐伯さん。容疑者の洗い出しは、必要ないかもしれません」
野村の予期せぬ言葉に、佐伯は眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「実は先ほど、署の受付に『私が城ヶ崎理事長を殺しました』と言って、自首してきた人間がいまして……」
その報告を聞き、佐伯は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
「なんだ、もう犯人が出頭してきたのか。あんな猟奇的な殺し方をした割には、あっけない幕切れだな。動機もどうせ、長年の恨みが爆発したとかそんなところだろう。調書を巻いて、裏付けが取れればこの事件はすぐに解決だ。今日は早く帰れるかもしれんな」
佐伯が安堵の息を吐きながら立ち上がろうとした瞬間、野村はさらに顔を引きつらせ、震える声で言葉を絞り出した。
「違うんです、佐伯さん。簡単じゃないんです」
「何が違うんだ。自首してきたならそれで終わりだろうが」
「一人じゃないんです」
野村は、信じられないものを見るような目で佐伯を見つめ返した。
「自首してきた人間が……三人いるんです」
「は?」
「予備校に出入りしている出版社の営業マン。医学部志望の女子生徒。そして、予備校の看板講師。その三人が、それぞれ全く別の時間に受付にやってきて、口を揃えてこう言っているんです。『自分が、一人で城ヶ崎理事長を殺した』と」
会議室の空気が、凍りついた。
首を絞めた者、胸を刺した者、頭を殴った者。三人の容疑者が、一つの死体を巡って「自分が真犯人だ」と主張している。
佐伯はホワイトボードに貼られた城ヶ崎の写真を睨みつけながら、この事件が底なしの不気味な泥沼——決して出口の見えない深い藪の中へ続いていることを、強烈に予感していた。
前のやつも続きますが、短編が書きあがったのでひとまずこちらを上げてみます。




