第2話 制服と、ひとかけらの居場所
澄川 ひまりは、できるだけ端を歩くようにしていた。
歩道の端。教室の端。どこにいても、端を選ぶ。端にいれば、誰かとぶつかることが少ない。ぶつかることが少なければ、傷つくことも少ない。そう思って半年が過ぎた。
十七歳の秋は、こんなはずじゃなかった。
スマートフォンを制服のポケットに押し込んで、ひまりは石畳を見つめながら歩いた。通知が来るのが怖い。でも来ないのも怖い。どちらにしても怖い。だったらポケットの奥に押し込んで、存在を忘れるふりをするしかない。
発端は、なんでもないことだった。
クラスの子が撮った写真に、たまたまひまりが映り込んだ。それだけのことだ。でもその写真が投稿されて、コメントがついて、リポストされて、気づいたら知らない人たちが知らない言葉でひまりのことを話していた。ひまりは何も言っていない。何もしていない。ただ、映り込んだだけだ。
それでも、クラスの空気は変わった。
誰も意地悪をするわけじゃない。ただ、グループトークから名前が消えた。席替えで隣になった子が、翌日から別の席に荷物を置くようになった。昼休みにどこへ行けばいいかわからなくて、図書室の隅で一時間過ごした。次の日も。その次の日も。
図書室には本がある。でもひまりは、一ページも読めなかった。
文字を目で追っても、何も頭に入らない。自分がここにいる理由を考えてしまうから。ここにいていいのかを考えてしまうから。考えると、胸の奥のあたりがぎゅっと痛くなる。
今日の帰り道も、ひまりは一人だった。
電車はいつも混んでいる。ひまりは端の方に立って、できるだけ小さくなっていた。人ごみの中で小さくなっていると、自分が少しずつ透明になっていくような感覚がある。透明になれたら、どんなにいいだろうと思った。完全に、どこにも見えなくなれたら。
電車を降りて、改札を抜けたとき、違和感があった。
脚が、すこし寒い。
でも気のせいだろうと思って、歩き続けた。今日学校で山田さんが自分を見て何かを耳打ちしていたこと、廊下で挨拶しても返ってこなかったこと、そういうことばかりが頭の中でぐるぐるしていて、脚の寒さなんかに構っていられなかった。
このまま、どこかへ消えてしまいたい。
そう思いながら、ひまりは細い路地へ入った。遠回りでも、人の少ない道がよかった。石畳の、古い商店街の名残のような道。シャッターの下りた店が並んでいる。誰とも会わなくていい。誰にも見られなくていい。
明かりのついた店の前を、通り過ぎようとしたとき。
「あの、少々よろしいでしょうか」
声がした。
* * *
ひまりは立ち止まった。
振り返ると、木の扉が半分開いていて、そこから女性が顔を出していた。白いエプロン姿の、自分よりいくつか上に見える女性。落ち着いた目をしていた。急かすような色が、どこにもない。
「お嬢さん」と女性は言った。「少し、よろしいですか」
ひまりは警戒した。知らない人に声をかけられる理由がわからない。でも逃げる気力もなかった。
「......何ですか」
「スカートを、ご確認いただけますか」
え、とひまりは思って、自分のスカートを見た。
そこで初めて、気づいた。
制服のスカートの側面に、すっと一本、線が入っている。切られている、と気づくのに少し時間がかかった。刃物で、きれいに。布がぱっくりと口を開けて、裏地が見えている。
血の気が引いた。
いつ。どこで。電車の中、と思い当たった瞬間、足がふらついた。気づかなかった。ずっと歩いていた。誰かに見られていたかもしれない。恥ずかしい、という気持ちより先に、怖い、という感覚が来た。
「大丈夫ですよ」
女性の声が、すっと隣に来た。気づいたら、女性がひまりのそばに立っていた。体に触れるのでも、引っ張るのでもなく、ただそこにいる。
「どうぞ、中へ」
ひまりは、頷いた。
* * *
店の中は静かだった。
本棚が壁一面にある。でも本は一冊もない。おかしな店だ、とひまりは思ったが、それより今は自分のスカートのことが頭を占めていた。
「こちらへ」
女性に案内されて、小さな部屋へ通された。更衣室のような小さなスペース。きれいにたたまれた布が棚にあって、その中に制服が一着かけてあった。ひまりのものと同じ、紺色のスカート。
「よかったら、こちらにお着替えください。スカートは、わたくしが直しますので」
「え、でも——」
「大丈夫ですよ」
女性はまた、同じ言葉を言った。でも今度は少し違う意味に聞こえた。スカートが大丈夫、という意味じゃなくて、もっと広い意味で。あなたが、大丈夫ですよ、という意味のような。
ひまりは着替えた。
* * *
テーブルに座ると、温かい飲み物が出てきた。
ピンク色に近い、赤い液体。酸っぱい匂いと、かすかな甘い匂い。
「ローズヒップです」と女性は言った。「よろしければ」
ひまりはカップを両手で包んだ。暖かかった。色がきれいだった。ガラスのカップの中で、赤い液体が揺れている。
女性は向かいの椅子に腰を下ろして、切れたスカートを広げた。そして裁縫箱を引き寄せて、針に糸を通した。細い手つきで、素早く。
「痛かったでしょう」と女性は言った。スカートに目を落としたまま。
ひまりは答えなかった。
「気づかなかったのは、あなたのせいじゃありませんよ」
また答えられなかった。
針が布を縫っていく音がした。小さな、規則正しい音。ひまりはローズヒップを一口飲んだ。酸っぱくて、でも温かくて、なぜか胸の奥の固まったものが少し動いた気がした。
「あの」とひまりは言った。「ここ、本屋さんですか」
「はい」
「でも本がない」
「地下にございますの」
「そうなんですか」
「はい。店主が、お客様に合った一冊をお選びします」
ひまりは女性を見た。女性は針を動かしながら、ちらりと目を上げた。やわらかく、笑った。
「わたくしは朝比奈 紬と申します。朝比奈でも、紬でも」
「......澄川 ひまりです」
「ひまりさん」
名前を呼ばれた。それだけのことなのに、ひまりは少し驚いた。今日、自分の名前を呼んだ人が、何人いただろう。先生が出席をとるときに一回。それだけだったかもしれない。
「ひまりさんは、学校の帰りですか」
「はい」
「遠いんですの?」
「そこそこ、です」
会話が続いた。
不思議だった。知らない人と話すのが怖くて、半年間できるだけ誰とも話さないようにしてきた。でも紬の話し方には、圧力がなかった。返事を要求する感じが、どこにもない。話してもいいし、話さなくてもいい。ただそこにいてくれる感じ。
「学校は、楽しいですか」
少し間があって、ひまりは首を横に振った。横に振ってから、こんな正直に答えていいのかと思ったが、もう遅かった。
紬は針を動かしながら、「そうですの」とだけ言った。
それ以上は、聞かなかった。
それが、ありがたかった。
* * *
しばらくして、紬が顔を上げた。
「できましたわ」
スカートを広げて見せた。切り口が、消えていた。縫い目が見えないほど丁寧に、布が合わさっていた。元通り、というより、元より美しいかもしれないと思った。
「すごい......」
「ふふっ。お褒めいただいて、うれしいですわ」
紬は笑った。声を立てずに、口元だけで。
「奥の扉が、もうすぐ開きますよ」
言葉の意味を考える前に、音がした。
重い扉が動く、低い音。鍵が回る音。それから、石段を踏む足音。規則正しい、革靴の音。
* * *
男が現れた。
背が高かった。銀髪で、黒いジャケット。所作の一つひとつが、静かで丁寧だった。ひまりは思わず姿勢を正した。こういう大人を、見たことがない。先生でも親でもない、もっと別の種類の大人。
男はテーブルの前に立ち、ひまりを見た。
見られた、と思った。でも不思議と、怖くなかった。この人の目は、値踏みしていない。ただ、見ている。知ろうとしている。
男は懐から名刺入れを取り出して、一枚を両手で差し出した。
「みこしば じん、と申します」
ひまりは両手で受け取った。白い名刺に、細い字で名前だけ。
御子柴 尋。
「座っていてください」
御子柴は向かいに座った。何を聞かれるか、とひまりは身構えた。でも御子柴は何も聞かなかった。ただ、ひまりを見ていた。
三秒か、五秒か。
御子柴の目が、ひまりのセーターの袖の辺りで一瞬止まった気がした。そして、静かに立ち上がった。
「少々、お待ちください」
奥の扉へ、歩いていった。
* * *
扉が閉まった。
ひまりは紬を見た。
「あの、何をしているんですか」
「本を選んでおられます」と紬は言った。「ひまりさんの」
「私の?......何も言っていないのに」
「それで大丈夫なんですよ」
ひまりはローズヒップの残りを飲んだ。酸味と温かさが、胸に染みた。
「紬さん」
「はい」
「この店って、ふつうの本屋さんじゃないですよね」
「ふつうの本屋さんではございませんね」と紬は静かに言った。「でも、本屋さんではありますの」
「どういう意味ですか」
「ふつうじゃない、ということが——ときどき、一番必要なことがありますでしょう」
ひまりはその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
ふつうじゃないことが、必要なとき。
今日がそうだろうか。電車の中で誰かにスカートを切られて、でも気づかずに歩き続けて、路地の暗いところで消えてしまいたいと思いながら歩いていた今日が。
そうかもしれない、と思った。
スカートが切られたことは、怖かった。でも、紬さんが直してくれた。きれいに。まるで何もなかったように。そしてローズヒップを出してくれて、名前を呼んでくれて、何も聞かずにそこにいてくれた。
学校の誰も、してくれなかったことだった。
ひまりは、窓の外を見た。路地は暗い。でも店の中は、橙色の光で満ちている。
ここにいていい、という感覚が、どこからともなく来た。
* * *
足音がした。
御子柴が戻ってきた。手に、一冊の本を持っている。
薄い緑色の表紙。植物の葉のような色。小さな花の模様が表紙に散っていて、古い本のようにも、新しい本のようにも見える。ひまりの手のひらより少し大きいくらいの、軽い本。
御子柴はテーブルの前に立ち、その本を両手で差し出した。ひまりは受け取った。
軽かった。文庫より軽い。でも軽さの中に、何かが詰まっている気がした。空気じゃない、もっと密度のある何かが。
「タイトルを、見てみてください」と御子柴は言った。「ただ」
少し間があった。
「今日は、持って帰るだけでも構いません」
ひまりは表紙を見た。薄い緑の地に、小さな文字でタイトルが入っている。読んだ。読んで、少し胸が痛くなった。痛い、というのは違うかもしれない。ぎゅっとなった。でも嫌なぎゅっとじゃなかった。
「お買い上げありがとうございます」
御子柴の声が、静かに落ちてきた。
「あなたに最高のひとときを、お約束します」
ひまりは顔を上げた。御子柴は、まっすぐひまりを見ていた。裁くのでも、同情するのでもない、あの目で。でも今は、その目の奥に何か別のものが混じっているような気がした。ずっと遠くを見てきた人の、目のような。
「あの」とひまりは言った。「お代は」
御子柴はすっと口元に指を当てた。
そして、笑った。
微かに、でも確かに。いつも静かな人が、その表情を少しだけ動かして——ニコリ、と。
「お代は結構です」と御子柴は言った。「まずはお試しで」
* * *
帰り際、紬が修繕したスカートを丁寧に袋に入れて渡してくれた。
「ひまりさん」
「はい」
「また、いらしてくださいな」
またいらしてください、ではなく、いらしてくださいな、だった。語尾の一字で、全然違う意味になる気がした。
ひまりは袋と、薄い緑の本を抱えて、扉を出た。
外はまだ暗かった。路地の石畳が夜の色をしている。でも来るときより、少し違って見えた。足元が、ちゃんとある。石畳が、ちゃんとひまりの靴を受け止めている。
振り返ると、紬が扉のところで手を振っていた。小さく、丁寧に。
ひまりは頭を下げた。
歩き出した。本を胸に抱えながら。開いてもいないのに、なぜか中身がわかる気がした。この本は、ひまりに向かって何かを言うために選ばれた。それだけは、確かだと思った。
駅への道を歩きながら、ひまりはスマートフォンを取り出した。通知が来ている。見た。いつもなら怖くなるのに、今日は少しだけ、深呼吸ができた。
帰ったら、読もう。
薄い緑の本を、もう少し強く抱えた。
* * *
## 御子柴 尋 —— 独白
袖の、内側。
少しだけ、長い袖。七月になっても、長袖を着ていた。それだけのことだが、私には十分だった。
詳しくは聞かなかった。聞く必要がない。彼女が今夜必要なものは、聞き出すことではなかった。
地下へ降りながら、考えた。彼女のことを。あの年齢で半年を過ごしてきたことを。学校という場所の、あの密閉した空気を。私にも覚えがある。もっと遠い記憶だが、忘れてはいない。
棚の前に立つと、手が動いた。
薄い緑の表紙。短い話が、いくつか集まった本。誰かがひとりで書いた、ひとりでいることについての本。孤独を悲劇として書いていない。ひとりでいることの中に、静かな広さがあると書いている本。
彼女に必要なのは、共感ではないと思った。
「わかるよ」と言われることに、彼女はもう疲れている。わかると言った人間が、次の日には別の席に荷物を置いたのだから。
必要なのは——ひとりでいることが、惨めなだけじゃないと知ること。ひとりの時間に、自分だけが触れられる場所があると知ること。
渡したとき、彼女はタイトルを読んだ。
表情が変わった。ぎゅっとなった、という感じの。でも泣かなかった。それでいいと思った。今夜は泣かなくていい。
代金は受け取らなかった。
今夜の彼女に必要なのは、何かを得たという体験ではなく、ただ渡された、という体験だった。お金を払うと、取引になる。取引は、対等だ。でも今夜は対等じゃなくていい。ただ、受け取るだけでいい。
紬さんがスカートを直した。
私が言う前に、動いていた。
いつからか、紬さんは私の見ているものを少し先に感じ取るようになった。言葉を交わさなくても。それが、うれしいとか、頼もしいとか、そういう言葉では足りない。
ただ、この店に紬さんがいて、よかったと思っている。
彼女が持って帰った本を、いつ開くかはわからない。今夜かもしれない。一週間後かもしれない。開かないかもしれない。
それでもいい。
渡した。それで十分だ。
あとは、本と彼女の間にある。




