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本のない本屋さん おススメの1冊をあなたに。  作者: ちとせ鶫


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第1話 雨の夜、本のない本屋さんへ

 雨が降り始めたのは、ちょうど橘芽依が会社を出た直後のことだった。


 傘は、デスクの引き出しの中にある。鮮やかなネイビーの折り畳み傘。朝、バッグに入れようとして、入れ忘れた。入れ忘れたことに気づいたのは、今だ。


 ビルの自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、芽依はしばらく軒下に立っていた。


 雨脚は強くなる一方だった。アスファルトに叩きつける雨粒が跳ね返り、パンプスの爪先をじわじわと濡らしていく。コンビニまでは三十メートルほど。ビニール傘を買えばいい。それだけのことだ。それだけのことなのに、足が動かなかった。


 べつに、傘のことなんかどうでもよかった。


 今日、田端主任にまた言われた。「橘さんって、気が利かないよね」。会議室の後片付けをしながら、独り言のように、しかしたしかに芽依に向けて。振り返ったときにはもう主任は部屋を出ていて、芽依は折り畳み椅子を抱えたまま一人残された。


 気が利かない。


 そうだろうか。芽依は毎朝誰よりも早く出社してコーヒーメーカーを準備する。会議の前には資料を人数分より二部多く印刷する。電話が鳴れば三コール以内に取る。それでも、気が利かない。何が足りないのか、三年経ってもわからない。


 わからないまま、消耗している。


 雨が、強くなった。


 芽依はコートの襟を立てて、とにかく歩き出した。方向は、コンビニとは逆だった。なぜそちらへ向かったのか、自分でもわからない。ただ、明るい蛍光灯の下に立ちたくなかった。見知らぬ店員と目が合いたくなかった。百円のビニール傘を握りしめて夜道を歩く自分を、誰かに見られたくなかった。


 路地に入ると、雨音が変わった。


 大通りのざわめきが遠のいて、雨粒が石畳を打つ音だけになる。古い商店街の名残のような細い道。シャッターの下りた金物屋、看板の消えた小料理屋、時代に置き去りにされた建物が肩を寄せ合うように並んでいる。


 そのなかに一軒、明かりのついている店があった。


 ガラス張りの小さな店構え。木製の扉に、真鍮のドアノブ。窓の内側から、橙色の光が滲み出ている。看板には、墨で書いたような筆文字。


 ——本屋。


 芽依は立ち止まった。


 ガラス越しに店内を覗こうとして、気づいた。棚が、ある。壁一面に棚がある。しかし——


 本が、ない。


 棚はあるのに、本が一冊も置かれていない。


 おかしい、と思った。閉店したのだろうか。それにしては明かりがついている。看板も出ている。軒先には小さな黒板があって、白いチョークで「営業中」と書かれていた。


 芽依が首を傾げていると、内側から扉が開いた。


     * * *


 現れたのは、若い女性だった。


 白いエプロンを胸の前で結んだ、メイド服に近い装いの。年齢は芽依より少し下に見える。透明感のある肌に、緩やかにまとめた黒髪。その女性は芽依を見て、やわらかく、ほんのすこし微笑んだ。


「お寒いでしょう」


 声は、ゆっくりしていた。急かすところが、どこにもなかった。


「どうぞ、お入りください」


 芽依はとっさに首を振ろうとした。いえ、結構です、と言おうとした。見知らぬ店に入る理由がない。本も買うつもりがない。そもそもこの店には本すらないのだから。


 でも。


 女性の声が、もう一度耳の中で鳴った。


 【どうぞ、お入りください。】


 足が、自然と動いていた。


     * * *


 店内は、静かだった。


 外の雨音が、扉一枚で別の世界のものになる。床は古い木材で、踏むたびに小さく軋む。天井から下がったランプが、橙色の光を落としている。棚は確かに壁一面にある。しかし本は一冊もない。それなのに、この空間には確かに本の気配があった。紙と、インクと、誰かが読んだ時間の、うっすらとした匂い。


「濡れてしまわれましたね」


 女性が、タオルをそっと差し出した。真っ白な、糊の効いたタオル。芽依は反射的に受け取って、それから気づいた。自分の頬が濡れている。雨だけではない、と思った。でも確かめる気にはなれなかった。


「こちらへどうぞ」


 奥に、小さなテーブルと椅子が二脚あった。芽依は促されるままそこへ座った。


 女性はカウンターの奥へ消え、しばらくして戻ってきた。両手に、カップを一つ。白い、丸みのあるカップ。中に入った液体から、白い湯気が立ち上っている。テーブルに置かれると、甘い、草の匂いがした。


「……何ですか、これ」


 思わず聞いてしまってから、芽依は少し恥ずかしくなった。女性は怒るでもなく、ただ穏やかに答えた。


「カモミールです。よろしければ」


 それだけ言って、女性は一歩引いた。勧めるでも、強いるでもなく。ただ、そこに置いた。


 芽依はカップを両手で包んだ。温かかった。指先から、ゆっくり何かが緩んでいく気がした。


「あの」と芽依は言った。「ここ、本屋さん、ですよね」


「はい」


「でも、本が......」


「ございませんね」


 女性は静かに笑った。声を立てずに、口元だけで。


「ふふっ。......不思議なお店でしょう」


 その笑い方が、芽依は少し好きだと思った。馬鹿にしているのでも、愛想で作ったのでもない笑い。ただ、おかしいものをおかしいと思っている、素直な笑い。


「本は、地下にございます」

「地下に?」

「はい。店主が、お選びします」

「店主さんが......私の本を、ですか」

「はい」


 芽依はカップから顔を上げた。


「でも、私、何も言っていないんですけど」


「ええ」と女性は言った。「それで大丈夫なんですよ」


     * * *


 奥の扉が開いた。


 音もなく、ではなかった。重い木の扉が動く、低い音がした。鍵が回る、金属の音がした。それから、革靴が石段を踏む、規則正しい足音が。


 現れたのは、男だった。


 背が高かった。芽依が椅子から立ち上がって見上げても、まだ高かった。年齢は、五十に届くかどうか。銀髪を静かに撫でつけて、黒いジャケットを羽織っている。所作が、ひとつひとつ丁寧だった。扉を閉める手の動き、鍵をポケットに収める指の動き、こちらへ向かって歩いてくる足の運び。何一つ、無駄がない。


 男はテーブルの前に立ち、芽依を見た。


 見た、というより——読んだ、という感じがした。


 一秒か、二秒か。その間、芽依はなぜか身じろぎできなかった。見透かされている、と思った。でも不思議と、嫌じゃなかった。この人の目は、裁くために見ているのではない。ただ、知ろうとしている。


 男は懐から名刺入れを取り出した。黒い、革製の。一枚を丁寧に取り出して、両手で差し出した。


「みこしば じん、と申します」


 声は、低かった。落ち着いていた。雨の夜に合う声だと、芽依は思った。


 名刺を受け取る。白地に、細い明朝体で名前だけが書かれていた。


 御子柴 尋。


「どうぞ、お座りください」


 芽依は気づいたら座っていた。御子柴はテーブルを挟んで向かいの椅子を引き、静かに腰を下ろした。


 何を聞かれるんだろうと芽依は思った。名前か、悩みか、どんな本が好きかか。でも御子柴は何も聞かなかった。ただ、芽依を見ていた。テーブルの上で静かに組んだ手と、落ち着いた目線と。


 沈黙が、重くなかった。


 不思議だった。見知らぬ男と向き合って、何も話さないのに、重くない。芽依は気づけばカモミールを一口飲んでいた。温かさが、喉から胸のあたりまで降りてきた。


 御子柴は、ふと視線を芽依のコートの襟元に向けた。


 芽依は自分の胸元を見た。


 ボタンが、一つ掛け違えていた。


 いつから気づかなかったのだろう。朝から? 昼から? 誰かに指摘されたら恥ずかしかった。でも今まで誰も言わなかった。田端主任も、同僚も、エレベーターで乗り合わせた部長も。誰も。


 御子柴は、何も言わなかった。


 ただ、静かに立ち上がった。


「少々、お待ちください」


 そして、奥の扉へ向かった。


     * * *


 扉が閉まる音がした。


 鍵が回る音がした。


 それから、足音が遠ざかっていった。


 芽依は一人、店に残された。いや、一人ではない。カウンターのそばに、あの女性が立っている。こちらに強いるでもなく、ただそっと、立っている。


「あの」と芽依は言った。「店主さんは……何を、してるんですか、今」


「本を、選んでおります」

「私の?」

「はい」

「でも私、何も言っていない。何が読みたいとか、どんな悩みがあるとか」


「ええ」と女性は言った。「それで大丈夫なんですよ」


 さっきと、同じ言葉だった。でも今度は、少し違う意味に聞こえた。


 大丈夫。何が大丈夫なのか。何も言わなくていいということが。言葉にできないということが。言葉にしようとして、ずっとできないでいることが。


 大丈夫なのだと、この人は言っている。


 芽依は、カップをもう一度両手で包んだ。


「......お名前、聞いてもいいですか」

「朝比奈 紬と申します」

「紬さん」

「はい」

「この店、いつからあるんですか」


「さあ」と紬は言った。「私が参りましたときには、もうございましたので」


「紬さんが来たのは?」


 紬は少し考えるように間を置いた。


「......ずいぶん前のことですわ」


 それ以上は語らなかった。芽依も、それ以上は聞かなかった。


 雨の音がする。外では今も雨が降っている。でもその音が、今は少し遠く感じた。


「あの」と芽依は言った。「私、何で来たんでしょう。ここ」


「雨宿り、でしょう」

「そうですけど」

「それで十分ではないでしょうか」


 芽依は紬を見た。紬は静かに笑っていた。あの笑い方で。口元だけで、声を立てずに。


 芽依は、少しだけ笑った。自分でも気づかないくらい、小さく。三ヶ月ぶりに笑ったかもしれないと思った。


     * * *


 どれくらい待っただろう。


 十分か、二十分か。時間の感覚が、この店では少しおかしくなる。芽依はカモミールを飲み終えて、しかし立ち上がる気にもなれず、ただテーブルの木目を見ていた。


 足音がした。


 石段を上がってくる、革靴の音。規則正しく、一段ずつ。扉が開いて、御子柴が現れた。


 手に、一冊の本を持っていた。


 文庫より少し大きい。布張りの表紙で、色は深い青——いや、藍か。夜の空に近い色。金色の箔で何かが押されているが、こちらからではタイトルは読めない。古い本のような佇まいなのに、くたびれた感じがしない。大切にされてきた、という気配がある。


 御子柴はテーブルの前に立ち、両手でその本を差し出した。


「お待たせいたしました」


 芽依は受け取った。


 重かった。文字通りの重さと、それ以外の何かの重さが、両方あった。本の重さというより、誰かの時間の重さのような。


「あの......タイトルは」


「表紙をご覧になれば」と御子柴は言った。「ただ」


 少し間があった。


「今夜は、触れているだけでも、構いません」


 芽依は本を見た。タイトルを確かめようとして、でも、なぜかすぐには開けなかった。この本が今、自分の手の中にある。それだけで、何か充分な気がした。


 御子柴が口を開いた。


「お買い上げありがとうございます」


 低い声が、店の中に静かに落ちた。


「あなたに最高のひとときを、お約束します」


 芽依はその言葉を聞いて、不思議なことが起きた。


 泣きそうになった。


 田端主任に言われたことでも、傘を忘れたことでも、三年間うまくいかないことでもなく——ただ、その言葉を聞いて。お約束します、という、静かで真っ直ぐな言葉を聞いて。


 誰かが、私に約束をしてくれた。


 それがこんなに、久しぶりだったとは思わなかった。


     * * *


 帰り際、紬が傘を一本差し出した。


「よろしければ、どうぞ。お返しは、またいらしたときで構いません」


 またいらしたとき。


 芽依はその言葉を、傘と一緒に受け取った。


 扉を開けると、雨はまだ降っていた。でも少し、小降りになっていた。石畳が濡れて光っている。来た道を戻れば大通りに出られる。そこから駅まで五分。


 芽依は傘を開きながら、ふと振り返った。


 扉の内側に、紬が立っていた。やわらかく、小さく、手を振った。


 そしてその後ろ、少し離れたところに——御子柴が立っていた。


 何も言わなかった。ただ、静かに、芽依を見ていた。裁くのでも、同情するのでもない、あの目で。


 芽依は頭を下げた。深く。


 扉が、静かに閉まった。


     * * *


 歩きながら、芽依は本を胸に抱えていた。バッグに入れる気になれなかった。雨から守るように、コートの内側に抱えて歩いた。


 何が書いてあるんだろうと思った。


 でも今夜は開かなくていいかもしれない、とも思った。御子柴が言った通り、触れているだけで何か充分な気がする。自分のために誰かが選んでくれたという事実が、内容より先に、すでに何かを届けていた。


 駅の明かりが見えてきた。


 芽依は、自分の足取りが来るときより軽いことに気づいた。気のせいかもしれない。でも確かに、靴が地面を踏む感触が違う。


 家に帰ったら、お風呂に入って、温かいものを飲もう。


 それだけのことを、今日はじめて思えた。


     * * *


## 御子柴 尋 ―― 独白


 ボタンが、一つ掛け違えていた。


 気づいていたが、言わなかった。


 正しさを届けられる夜と、そうでない夜がある。今夜の彼女には、正しさよりも先に、温かいものが必要だった。だから紬さんはカモミールを選んだ。私は地下へ降りた。


 棚の前に立つと、いつもわかる。呼ばれる感覚、とは少し違う。ただ、手が動く。今夜手に触れたのは、藍色の表紙の、古い短編集だった。誰かの孤独が、優しい言葉で書かれている本。正解でも処方箋でもない。ただ、「あなたは一人じゃない」と囁くような。


 彼女が何に疲れているか、私にはわかった。


 田端とかいう人間のことではない。仕事のことでもない。もっと根のところで——誰かに、ちゃんと見てもらえないことに、疲れていた。


 三年間、ボタンを掛け違えたまま歩いてきた。誰も言わなかった。だから彼女は、自分が何を間違えているかもわからないまま消耗した。


 私は言わなかった。今夜は、まだ、その夜ではない。


 ただ、本を渡した。


 受け取った瞬間の彼女の手を見た。両手で、しっかり。重さを確かめるように。その手が、今夜の答えだった。


 また来るだろう。


 来なくてもいい。でも、来るだろうと思った。


 雨の夜に迷い込んだ人間が、翌朝どんな顔をしているか。私には知る術がない。それでいい。この店は、渡すだけだ。その先は、本と彼女の間にある。


 紬さんが傘を渡した。


 よかった、と思った。


 明日も雨かもしれない。でも彼女には、帰る道がある。


     * * *


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