第3話 夕暮れの買い物袋と、あなたの話
遠藤ともみの一日は、いつも誰かのために始まって、誰かのために終わる。
朝五時半に起きる。夫の弁当を作り、子どもたちを起こし、朝食を出し、洗い物をして、洗濯機を回す。小学二年生の息子を集団登校の集合場所まで送り、保育園の年少の娘をバスに乗せる。家に戻ると、同居している夫の母親が起きてきて、朝食を温め直す。薬を出す。通院の付き添いが週に二回。
昼は、洗濯物を干しながら、次の夕食の献立を考える。
夕方は、買い物をして、帰って、子どもたちが帰ってくる前に夕食の下ごしらえをする。
夫は「忙しい」と言う。帰りは早くて九時。遅いと終電近い。「仕事してるんだから」と言う。それは正しい、とともみは思う。仕事は大変だろう。でも、こっちも、と思う。こっちも、と。ただそれが言えない。言えないまま、もう七年が経った。
今日、スーパーのレジで財布を出したとき、気づいた。
ポイントカードがない。先週更新したはずなのに、財布の中にない。バッグを漁ったが、どこにも見当たらない。後ろに並んでいる人を意識しながら、カードなしで会計を済ませて、店を出た。
ただそれだけのことだ。ポイントカード一枚のことだ。でもなぜか、駐車場を出たあたりから、目の奥が熱くなった。泣くほどのことじゃない。わかってる。わかってるけど、止まらなかった。
いつからだろう。泣くのに理由がいらなくなったのは。
スーパーの袋を両手に提げたまま、ともみは歩いた。帰り道より少し遠回りの、古い商店街の脇道に入っていた。気づいたら、そっちへ歩いていた。急いで帰っても、誰かが「おかえり」と言ってくれるわけでもない。子どもたちが帰ってくるまであと一時間ある。一時間くらい、遠回りしてもいいだろう。
自分に言い訳をしながら、石畳の路地を歩いた。
明かりのついた店の前で、足が止まった。
* * *
「あの、よろしければ」
声がした。
扉の内側から、女性が顔を出していた。白いエプロンの、落ち着いた目をした女性。ともみより少し若い。二十代だろうか。
「少し、休んでいかれませんか」
ともみは自分の顔を見られた気がして、思わず目を逸らした。泣いた跡が残っているかもしれない。マスカラは、今日はしていない。すっぴんの、三十二歳の、疲れた主婦の顔が、この人には見えているだろう。
「結構です」と言おうとした。
でも、手の中の袋が重かった。両手で提げた買い物袋。人参、玉ねぎ、鶏もも肉、豆腐、小松菜。誰かのために選んだものが、これだけ重い。
女性がもう一度、静かに言った。
「荷物、お持ちしましょうか」
ともみの手から、袋が一つ持ち上がった。
気づいたら、扉の中に入っていた。
* * *
店の中は、静かだった。
本棚が壁一面にある。でも本は一冊もない。おかしな店だ、と思う余裕もなかった。ともみは椅子に座って、膝の上に残った袋を置いて、深く息を吐いた。
知らないうちに、息を止めていたらしかった。
女性がカウンターの奥へ消えて、すぐに戻ってきた。小さなティーポットと、白いカップ。
「よろしければ。カモミールではなく、今日はこちらを」
テーブルに置かれたカップから、甘い、少し土のような、でも温かい匂いがした。
「何ですか、これ」
「ルイボスです。南アフリカの、赤いお茶です。カフェインが入っておりませんので、夕方でも」
ともみはカップを受け取った。両手で包む。温かかった。なんでもない温かさなのに、その温かさが今日初めて自分に向いている気がして、また目の奥が熱くなった。
「ご荷物は、こちらに置いておきますね。保冷の必要なものがあれば、冷蔵庫にお入れしますわ」
「......あ、鶏肉が」
「かしこまりました」
紬は袋の中を確認して、さっと動いた。余計なことは言わない。聞かない。ただ、必要なことを、必要なだけ、やってくれる。
「すみません」とともみは言った。「急に入ってきてしまって」
「いいえ」と紬は言った。「どうぞ、ゆっくりなさってください」
「でも、子どもたちが帰ってくるので」
「何時頃でしょうか」
「四時半、くらいです」
「では、まだ少しありますわ」紬は静かに笑った。「ゆっくりで、よろしいんですよ」
ともみはルイボスを一口飲んだ。
赤い色をしているのに、味はやさしかった。苦くない。渋くない。ただ温かくて、口の中から体の奥まで、すっと降りていく。ああ、とともみは思った。温かいものを、ゆっくり飲んだのが、いつぶりだろう。いつも台所に立ったまま、冷めたコーヒーを流し込んでいる。
「お名前、聞いてもよろしいですか」
「......遠藤です。遠藤ともみ」
「ともみさん」
また、名前を呼ばれた。
ともみさん、という呼び方が、少し不思議に感じた。「お母さん」でも「奥さん」でも「遠藤さんの」でもなく、ともみさん。自分の名前が、自分に戻ってきたような感じがした。
「朝比奈 紬と申します」
「紬さん」
「はい」
やわらかな返事、やわらかな笑顔が返ってくる。
「ここ......本屋さんなんですか」
「はい」
「でも本が」
「地下にございますの」紬は言った。「店主が、お客様に一冊ずつ、お選びします」
「私に、ですか。何も言っていないのに」
「ええ。それで大丈夫なんですよ」
ともみは、その言葉の意味をしばらく考えた。
大丈夫。
最後に誰かにその言葉をかけてもらったのは、いつだったか。夫はともみが大丈夫かどうかを聞かない。義母はともみが疲れているかどうかを気にしない。子どもたちはまだ小さくて、気にしようがない。大丈夫かと聞いてくれる人が、この七年でいなくなった。
「......私、今日スーパーでポイントカードをなくしたんです」
突然そんなことを言い出した自分に、ともみは驚いた。
でも紬は、「まあ」と言って、少し目を細めた。続きを待っている目だった。
「それだけのことなのに、なんか。駐車場で泣いてしまって」
「そうでしたの」
「くだらないですよね」
「いいえ」と紬は言った。少しも間を置かずに。「くだらくなんか、ありませんわ」
ともみは紬を見た。
「ポイントカードは、最後の一滴だったんでしょう。グラスがいっぱいになっていたところへ、最後の一滴が落ちた。あふれるのは、ポイントカードのせいじゃないと思いますわ」
ともみは、また目が熱くなった。今度は抑えられなかった。
「......そうですね」
声が震えた。紬は何も言わなかった。何もしなかった。ただ、そこにいた。ともみが落ち着くのを、急かさずに待っていた。
しばらくして、奥の扉が開いた。
* * *
男が現れた。
背が高かった。銀髪の、静かな男。ともみは慌てて目元を拭いた。見知らぬ男の前で泣き顔を見られるのは恥ずかしかった。でも男は、ともみの様子に動じた風がなかった。ただ静かに、テーブルの前に立った。
懐から名刺入れを出して、一枚を両手で差し出した。
「みこしば じん、と申します」
ともみは受け取った。白い名刺。御子柴 尋、と書いてある。
「遠藤ともみです」
「どうぞ」と御子柴は向かいの椅子を引いた。「少しだけ、よろしいですか」
ともみは頷いた。御子柴は腰を下ろして、ともみを見た。
見られた、という感じが、やはりあった。でも嫌じゃない。この人の目は、値踏みしない。ただ、正直に見ている。
ともみは少し緊張した。何を聞かれるだろうと思った。
でも御子柴は何も聞かなかった。
ともみの手を、ちらりと見た。買い物袋を提げていた手。荒れた指先。爪を切る時間もなくて、少し伸びている。そして、ともみの目元を、さりげなく見た。泣いた跡を、見た。
見た、と気づいたときに、不思議なことが起きた。
恥ずかしくなかった。
いつもなら、こんな顔を見られたら逃げ出したくなる。でも御子柴の目には、哀れみがなかった。同情もなかった。ただ、あなたがそこにいることを、確かめている目だった。
御子柴は立ち上がった。
「少々、お待ちください」
奥の扉へ、静かに歩いていった。
* * *
扉が閉まった。
鍵の音。足音が遠ざかる音。
ともみは紬を見た。
「あの方が、本を選ぶんですか」
「はい」
「私の?」
「はい」
「何も話していないのに」
「ともみさんは、十分お話になりましたわ」
ともみは首を傾げた。自分はポイントカードをなくしたことと、泣いてしまったことを言っただけだ。それのどこが「十分」なのか。
でも、そうかもしれない、とも思った。
言葉じゃなくて、荷物の重さとか、指先の荒れとか、目元の赤さとか。そういうもので、この店の人たちには、何かが見えているのかもしれない。
「紬さん」
「はい」
「こういう店って、珍しいですよね」
「そうかもしれませんね」と紬は言った。「でも、必要な方には、見つかるようになっているみたいで」
「見つかるように、ですか」
「わたくしも詳しくは存じませんの」紬は少し笑った。「ただ、今日ともみさんがいらしたのは、偶然ではないような気がしますわ」
ともみはルイボスの残りを飲んだ。
偶然ではない。そうだろうか。今日はポイントカードをなくして、泣きながら遠回りをして、気づいたらここにいた。それが偶然でないとしたら。
自分のなかのどこかが、ここへ来たかったのかもしれない、と思った。
それほど、疲れていたのかもしれない。
* * *
足音が戻ってきた。
御子柴が現れた。手に、一冊の本を持っている。
温かみのある茶色の表紙。皮のような質感ではなく、布張りのような、素朴な手触りに見える。大きさは文庫より少し大きい。厚みは普通くらい。表紙に模様はなく、タイトルだけが、控えめな大きさで入っている。こちらからでは読めない。
御子柴はテーブルの前に立ち、両手でその本を差し出した。
ともみは受け取った。
温かかった。
本が温かいはずがない。でも、そう感じた。御子柴がずっと持っていたからかもしれない。地下の、あの静かな場所で、この本を選びながら、持ち続けていたからかもしれない。
「タイトルを、ご覧になってください」と御子柴は言った。
ともみは本を向けた。
タイトルを、読んだ。
声を出さなかった。出せなかった。
自分に向けて書かれた言葉のように、感じた。誰かが、ともみのことを知っていて、ともみのために書いたような。そんなわけがない。この本はずっと前から存在しているはずだ。でも、そう感じた。
「お買い上げありがとうございます」
御子柴の低い声が、静かに落ちてきた。
「あなたに最高のひとときを、お約束します」
ともみは顔を上げた。
喉が詰まっていて、ありがとうございますが言えなかった。でも御子柴は待ってくれた。急かさずに、ただそこに立って。
ともみは、深く頭を下げた。
* * *
帰り際、紬が冷蔵庫から鶏肉の入った袋を取り出して、丁寧に買い物袋に戻してくれた。
「ともみさん」
「はい」
「今日の夕食、なんですの?」
「鶏の、煮物にしようと思って」
「まあ、美味しそう」と紬は言った。「ご家族の方、幸せですわね」
ともみは、その言葉を受け取るのに、少し時間がかかった。
幸せ。自分の作る煮物で、家族が幸せ。そういう言い方を、されたことがなかった。「ご飯まだ?」と言われることはある。「今日これ?」と言われることもある。でも、幸せですわね、とは言われなかった。
「......ありがとうございます」
今度は、声が出た。
「またいらしてくださいな」と紬は言った。「鶏の煮物、上手くできたら、教えてくださいませ」
ともみは、少し笑った。声を出して笑った。
いつぶりだろう。声を出して笑ったのが。
扉を出ると、夕暮れが路地を橙色に染めていた。買い物袋を両手に提げて、ともみは来た道を戻った。今度は袋が、少し軽い気がした。重さは変わっていないはずなのに。
本は袋には入れず、脇に抱えて歩いた。
今夜、子どもたちが寝たあとで、読もうと思った。夫が帰る前の、一時間か二時間。あの時間は、いつもスマートフォンをぼんやり見るか、録画したままのテレビをかけるかしている。でも今夜は、この本を読もう。
台所の照明だけつけて、お茶を一杯淹れて。
それだけでいい。それだけのことが、今夜は楽しみだった。
楽しみ、という気持ちが、胸の中にあることを、ともみはしばらく忘れていた。
* * *
## 御子柴 尋 —— 独白
指先が、荒れていた。
家事の水仕事で荒れた手というのは、すぐわかる。乾燥のひび割れではなく、使い続けた手の荒れ方だ。爪は少し伸びている。自分の爪を整える時間がない。それだけで、この人の一日がわかる。
紬さんがルイボスを選んでいた。
私が地下へ降りる前に、もう選んでいた。カフェインを避けて、夕方でも飲めるものを。赤い色が、今日のこの人には要ると思ったのだろう。私には紬さんの考えることが、全部はわからない。でも、正しかった、と思う。
地下で、棚の前に立った。
今日の一冊は、すぐにわかった。呼ばれた、というより——見えた。あの人が必要なのは、「頑張れ」ではない。「あなたもっとやれる」でもない。そういう言葉を、あの人はもう十分受け取りすぎている。
必要なのは、「あなたの話を聞かせてほしい」という本だ。
誰かの人生ではなく、あの人自身の話。自分の感情を言葉にする練習を、そっと手伝う本。泣く理由がわからなくなったとき、言葉があれば、少しだけ輪郭がつかめる。輪郭がつかめれば、少しだけ楽になる。
渡したとき、あの人はタイトルを読んで、黙った。
泣かなかった。でも、目が違う色になった。受け取った、という色だった。
ポイントカードのことを、笑わなかった。
当然だ。あれは、ポイントカードの話ではない。七年分の話だ。七年分が一枚のカードになって落ちてきた、それだけのことだ。
紬さんが帰り際に言った言葉を、陰から聞いていた。
「ご家族の方、幸せですわね」。
私には言えない言葉だった。でも、あの人には必要な言葉だった。自分がしていることを、誰かに肯定してもらう経験。それがどれだけ久しぶりだったか、あの人の表情を見ればわかった。
紬さんは、私より先にそれを知っていた。
今夜、鶏の煮物ができるだろう。
誰も「ありがとう」と言わないかもしれない。でも、あの本が一緒にテーブルにあれば、少しだけ違う夜になると思う。
本が、人を変えるわけじゃない。
ただ、今夜の一時間を、その人だけのものにする。
それで十分だ。




