表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本のない本屋さん おススメの1冊をあなたに。  作者: ちとせ鶫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

第3話 夕暮れの買い物袋と、あなたの話

 遠藤ともみの一日は、いつも誰かのために始まって、誰かのために終わる。


 朝五時半に起きる。夫の弁当を作り、子どもたちを起こし、朝食を出し、洗い物をして、洗濯機を回す。小学二年生の息子を集団登校の集合場所まで送り、保育園の年少の娘をバスに乗せる。家に戻ると、同居している夫の母親が起きてきて、朝食を温め直す。薬を出す。通院の付き添いが週に二回。


 昼は、洗濯物を干しながら、次の夕食の献立を考える。


 夕方は、買い物をして、帰って、子どもたちが帰ってくる前に夕食の下ごしらえをする。


 夫は「忙しい」と言う。帰りは早くて九時。遅いと終電近い。「仕事してるんだから」と言う。それは正しい、とともみは思う。仕事は大変だろう。でも、こっちも、と思う。こっちも、と。ただそれが言えない。言えないまま、もう七年が経った。


 今日、スーパーのレジで財布を出したとき、気づいた。


 ポイントカードがない。先週更新したはずなのに、財布の中にない。バッグを漁ったが、どこにも見当たらない。後ろに並んでいる人を意識しながら、カードなしで会計を済ませて、店を出た。


 ただそれだけのことだ。ポイントカード一枚のことだ。でもなぜか、駐車場を出たあたりから、目の奥が熱くなった。泣くほどのことじゃない。わかってる。わかってるけど、止まらなかった。


 いつからだろう。泣くのに理由がいらなくなったのは。


 スーパーの袋を両手に提げたまま、ともみは歩いた。帰り道より少し遠回りの、古い商店街の脇道に入っていた。気づいたら、そっちへ歩いていた。急いで帰っても、誰かが「おかえり」と言ってくれるわけでもない。子どもたちが帰ってくるまであと一時間ある。一時間くらい、遠回りしてもいいだろう。


 自分に言い訳をしながら、石畳の路地を歩いた。


 明かりのついた店の前で、足が止まった。


     * * *


「あの、よろしければ」


 声がした。


 扉の内側から、女性が顔を出していた。白いエプロンの、落ち着いた目をした女性。ともみより少し若い。二十代だろうか。


「少し、休んでいかれませんか」


 ともみは自分の顔を見られた気がして、思わず目を逸らした。泣いた跡が残っているかもしれない。マスカラは、今日はしていない。すっぴんの、三十二歳の、疲れた主婦の顔が、この人には見えているだろう。


「結構です」と言おうとした。


 でも、手の中の袋が重かった。両手で提げた買い物袋。人参、玉ねぎ、鶏もも肉、豆腐、小松菜。誰かのために選んだものが、これだけ重い。


 女性がもう一度、静かに言った。


「荷物、お持ちしましょうか」


 ともみの手から、袋が一つ持ち上がった。


 気づいたら、扉の中に入っていた。


     * * *


 店の中は、静かだった。


 本棚が壁一面にある。でも本は一冊もない。おかしな店だ、と思う余裕もなかった。ともみは椅子に座って、膝の上に残った袋を置いて、深く息を吐いた。


 知らないうちに、息を止めていたらしかった。


 女性がカウンターの奥へ消えて、すぐに戻ってきた。小さなティーポットと、白いカップ。


「よろしければ。カモミールではなく、今日はこちらを」


 テーブルに置かれたカップから、甘い、少し土のような、でも温かい匂いがした。


「何ですか、これ」

「ルイボスです。南アフリカの、赤いお茶です。カフェインが入っておりませんので、夕方でも」


 ともみはカップを受け取った。両手で包む。温かかった。なんでもない温かさなのに、その温かさが今日初めて自分に向いている気がして、また目の奥が熱くなった。


「ご荷物は、こちらに置いておきますね。保冷の必要なものがあれば、冷蔵庫にお入れしますわ」

「......あ、鶏肉が」

「かしこまりました」


 紬は袋の中を確認して、さっと動いた。余計なことは言わない。聞かない。ただ、必要なことを、必要なだけ、やってくれる。


「すみません」とともみは言った。「急に入ってきてしまって」

「いいえ」と紬は言った。「どうぞ、ゆっくりなさってください」

「でも、子どもたちが帰ってくるので」

「何時頃でしょうか」

「四時半、くらいです」

「では、まだ少しありますわ」紬は静かに笑った。「ゆっくりで、よろしいんですよ」


 ともみはルイボスを一口飲んだ。


 赤い色をしているのに、味はやさしかった。苦くない。渋くない。ただ温かくて、口の中から体の奥まで、すっと降りていく。ああ、とともみは思った。温かいものを、ゆっくり飲んだのが、いつぶりだろう。いつも台所に立ったまま、冷めたコーヒーを流し込んでいる。


「お名前、聞いてもよろしいですか」

「......遠藤です。遠藤ともみ」

「ともみさん」


 また、名前を呼ばれた。


 ともみさん、という呼び方が、少し不思議に感じた。「お母さん」でも「奥さん」でも「遠藤さんの」でもなく、ともみさん。自分の名前が、自分に戻ってきたような感じがした。


「朝比奈 紬と申します」

「紬さん」

「はい」


 やわらかな返事、やわらかな笑顔が返ってくる。


「ここ......本屋さんなんですか」

「はい」

「でも本が」

「地下にございますの」紬は言った。「店主が、お客様に一冊ずつ、お選びします」

「私に、ですか。何も言っていないのに」

「ええ。それで大丈夫なんですよ」


 ともみは、その言葉の意味をしばらく考えた。


 大丈夫。


 最後に誰かにその言葉をかけてもらったのは、いつだったか。夫はともみが大丈夫かどうかを聞かない。義母はともみが疲れているかどうかを気にしない。子どもたちはまだ小さくて、気にしようがない。大丈夫かと聞いてくれる人が、この七年でいなくなった。


「......私、今日スーパーでポイントカードをなくしたんです」


 突然そんなことを言い出した自分に、ともみは驚いた。


 でも紬は、「まあ」と言って、少し目を細めた。続きを待っている目だった。


「それだけのことなのに、なんか。駐車場で泣いてしまって」

「そうでしたの」

「くだらないですよね」

「いいえ」と紬は言った。少しも間を置かずに。「くだらくなんか、ありませんわ」


 ともみは紬を見た。


「ポイントカードは、最後の一滴だったんでしょう。グラスがいっぱいになっていたところへ、最後の一滴が落ちた。あふれるのは、ポイントカードのせいじゃないと思いますわ」


 ともみは、また目が熱くなった。今度は抑えられなかった。


「......そうですね」


 声が震えた。紬は何も言わなかった。何もしなかった。ただ、そこにいた。ともみが落ち着くのを、急かさずに待っていた。


 しばらくして、奥の扉が開いた。


     * * *


 男が現れた。


 背が高かった。銀髪の、静かな男。ともみは慌てて目元を拭いた。見知らぬ男の前で泣き顔を見られるのは恥ずかしかった。でも男は、ともみの様子に動じた風がなかった。ただ静かに、テーブルの前に立った。


 懐から名刺入れを出して、一枚を両手で差し出した。


「みこしば じん、と申します」


 ともみは受け取った。白い名刺。御子柴 尋、と書いてある。


「遠藤ともみです」

「どうぞ」と御子柴は向かいの椅子を引いた。「少しだけ、よろしいですか」


 ともみは頷いた。御子柴は腰を下ろして、ともみを見た。


 見られた、という感じが、やはりあった。でも嫌じゃない。この人の目は、値踏みしない。ただ、正直に見ている。


 ともみは少し緊張した。何を聞かれるだろうと思った。


 でも御子柴は何も聞かなかった。


 ともみの手を、ちらりと見た。買い物袋を提げていた手。荒れた指先。爪を切る時間もなくて、少し伸びている。そして、ともみの目元を、さりげなく見た。泣いた跡を、見た。


 見た、と気づいたときに、不思議なことが起きた。


 恥ずかしくなかった。


 いつもなら、こんな顔を見られたら逃げ出したくなる。でも御子柴の目には、哀れみがなかった。同情もなかった。ただ、あなたがそこにいることを、確かめている目だった。


 御子柴は立ち上がった。


「少々、お待ちください」


 奥の扉へ、静かに歩いていった。


     * * *


 扉が閉まった。

 鍵の音。足音が遠ざかる音。


 ともみは紬を見た。


「あの方が、本を選ぶんですか」

「はい」

「私の?」

「はい」

「何も話していないのに」

「ともみさんは、十分お話になりましたわ」


 ともみは首を傾げた。自分はポイントカードをなくしたことと、泣いてしまったことを言っただけだ。それのどこが「十分」なのか。


 でも、そうかもしれない、とも思った。


 言葉じゃなくて、荷物の重さとか、指先の荒れとか、目元の赤さとか。そういうもので、この店の人たちには、何かが見えているのかもしれない。


「紬さん」

「はい」

「こういう店って、珍しいですよね」

「そうかもしれませんね」と紬は言った。「でも、必要な方には、見つかるようになっているみたいで」

「見つかるように、ですか」

「わたくしも詳しくは存じませんの」紬は少し笑った。「ただ、今日ともみさんがいらしたのは、偶然ではないような気がしますわ」


 ともみはルイボスの残りを飲んだ。


 偶然ではない。そうだろうか。今日はポイントカードをなくして、泣きながら遠回りをして、気づいたらここにいた。それが偶然でないとしたら。


 自分のなかのどこかが、ここへ来たかったのかもしれない、と思った。

 それほど、疲れていたのかもしれない。


     * * *


 足音が戻ってきた。


 御子柴が現れた。手に、一冊の本を持っている。


 温かみのある茶色の表紙。皮のような質感ではなく、布張りのような、素朴な手触りに見える。大きさは文庫より少し大きい。厚みは普通くらい。表紙に模様はなく、タイトルだけが、控えめな大きさで入っている。こちらからでは読めない。


 御子柴はテーブルの前に立ち、両手でその本を差し出した。


 ともみは受け取った。

 温かかった。


 本が温かいはずがない。でも、そう感じた。御子柴がずっと持っていたからかもしれない。地下の、あの静かな場所で、この本を選びながら、持ち続けていたからかもしれない。


「タイトルを、ご覧になってください」と御子柴は言った。


 ともみは本を向けた。


 タイトルを、読んだ。


 声を出さなかった。出せなかった。


 自分に向けて書かれた言葉のように、感じた。誰かが、ともみのことを知っていて、ともみのために書いたような。そんなわけがない。この本はずっと前から存在しているはずだ。でも、そう感じた。


「お買い上げありがとうございます」


 御子柴の低い声が、静かに落ちてきた。


「あなたに最高のひとときを、お約束します」


 ともみは顔を上げた。


 喉が詰まっていて、ありがとうございますが言えなかった。でも御子柴は待ってくれた。急かさずに、ただそこに立って。


 ともみは、深く頭を下げた。


     * * *


 帰り際、紬が冷蔵庫から鶏肉の入った袋を取り出して、丁寧に買い物袋に戻してくれた。


「ともみさん」

「はい」

「今日の夕食、なんですの?」

「鶏の、煮物にしようと思って」

「まあ、美味しそう」と紬は言った。「ご家族の方、幸せですわね」


 ともみは、その言葉を受け取るのに、少し時間がかかった。


 幸せ。自分の作る煮物で、家族が幸せ。そういう言い方を、されたことがなかった。「ご飯まだ?」と言われることはある。「今日これ?」と言われることもある。でも、幸せですわね、とは言われなかった。


「......ありがとうございます」


 今度は、声が出た。


「またいらしてくださいな」と紬は言った。「鶏の煮物、上手くできたら、教えてくださいませ」


 ともみは、少し笑った。声を出して笑った。


 いつぶりだろう。声を出して笑ったのが。


 扉を出ると、夕暮れが路地を橙色に染めていた。買い物袋を両手に提げて、ともみは来た道を戻った。今度は袋が、少し軽い気がした。重さは変わっていないはずなのに。


 本は袋には入れず、脇に抱えて歩いた。


 今夜、子どもたちが寝たあとで、読もうと思った。夫が帰る前の、一時間か二時間。あの時間は、いつもスマートフォンをぼんやり見るか、録画したままのテレビをかけるかしている。でも今夜は、この本を読もう。


 台所の照明だけつけて、お茶を一杯淹れて。


 それだけでいい。それだけのことが、今夜は楽しみだった。

 楽しみ、という気持ちが、胸の中にあることを、ともみはしばらく忘れていた。


     * * *


## 御子柴 尋 —— 独白


 指先が、荒れていた。


 家事の水仕事で荒れた手というのは、すぐわかる。乾燥のひび割れではなく、使い続けた手の荒れ方だ。爪は少し伸びている。自分の爪を整える時間がない。それだけで、この人の一日がわかる。


 紬さんがルイボスを選んでいた。


 私が地下へ降りる前に、もう選んでいた。カフェインを避けて、夕方でも飲めるものを。赤い色が、今日のこの人には要ると思ったのだろう。私には紬さんの考えることが、全部はわからない。でも、正しかった、と思う。


 地下で、棚の前に立った。


 今日の一冊は、すぐにわかった。呼ばれた、というより——見えた。あの人が必要なのは、「頑張れ」ではない。「あなたもっとやれる」でもない。そういう言葉を、あの人はもう十分受け取りすぎている。


 必要なのは、「あなたの話を聞かせてほしい」という本だ。


 誰かの人生ではなく、あの人自身の話。自分の感情を言葉にする練習を、そっと手伝う本。泣く理由がわからなくなったとき、言葉があれば、少しだけ輪郭がつかめる。輪郭がつかめれば、少しだけ楽になる。


 渡したとき、あの人はタイトルを読んで、黙った。


 泣かなかった。でも、目が違う色になった。受け取った、という色だった。


 ポイントカードのことを、笑わなかった。


 当然だ。あれは、ポイントカードの話ではない。七年分の話だ。七年分が一枚のカードになって落ちてきた、それだけのことだ。


 紬さんが帰り際に言った言葉を、陰から聞いていた。


 「ご家族の方、幸せですわね」。


 私には言えない言葉だった。でも、あの人には必要な言葉だった。自分がしていることを、誰かに肯定してもらう経験。それがどれだけ久しぶりだったか、あの人の表情を見ればわかった。


 紬さんは、私より先にそれを知っていた。


 今夜、鶏の煮物ができるだろう。


 誰も「ありがとう」と言わないかもしれない。でも、あの本が一緒にテーブルにあれば、少しだけ違う夜になると思う。


 本が、人を変えるわけじゃない。

 ただ、今夜の一時間を、その人だけのものにする。


 それで十分だ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ