第8話 納品出来ました!
高木の手が、菜月の背中を歩道側へ突き飛ばした。
肩ひもが腕へ食い込み、菜月は両手をついたまま路肩へ転がる。黄色い帽子が頭から外れ道路の上で跳ね、白線のそばへ転がっていく。
菜月が振り返ると、高木は車道に立っていた。
突き出した右手をまだ伸ばしたまま、歩道へ倒れた菜月を見ている。その目が、菜月の顔を捉えた。
「川瀬……?」
高木の表情が変わった。
菜月の視界を、車体が横切った。
甲高いブレーキ音が道路へ響く。
高木の鞄が手から離れ、宙へ浮いた。
地面へ落ちた鞄の口から、書類と筆記具が飛び出す。数枚の紙が風にあおられ、道路の上を滑っていった。
鈍い衝突音がした。
続いて、何かが道路へ落ちる音。
転がった一本のボールペンが、白線の上で止まった。
急に、周囲が静かになったように感じた。
「高木部長!」
菜月は立ち上がろうとした。
『川瀬さん、その場を動かないでください』
通信機から高槻の声が届く。
「でも、高木部長が!」
『車両が完全に停止していません。建物側へ下がってください』
菜月は足をもつれさせながら、歩道の奥へ下がった。
成瀬の運転する車両が数メートル先で停止する。
「怪我はありませんか?」
「私は大丈夫です。それより、高木部長が――」
「歩道から出ないでください」
成瀬はそれだけ告げ、高木のもとへ走った。
道路の反対側から、誰かが叫んだ。
「事故だ!」
近くを歩いていた男性が、スマートフォンを取り出す。
「救急車、呼びます!」
「お願いします。車道へは入らないでください」
成瀬は声を張りながら、高木のそばへ膝をついた。返事を待たず、高木の首元へ指を当てる。
数秒後、死亡を確認すると鞄から業務端末を取り出した。
菜月も後を追おうとしたが、通信機から再び高槻に止められる。
『川瀬さんは待機してください』
「何でですか」
『初めての現場です。何をすればよいか分からない状態で近づくと、現場処理の妨げになります』
言い方は冷たかった。だが、菜月自身、近づいて何をすればよいのか分からなかった。
声をかけるのか。
救急車を待つのか。
謝るのか。
成瀬は迷う様子もなく、業務端末を高木の顔へ向けた。
「本人確認を開始します」
画面に、高木の顔写真と登録情報が表示される。
成瀬は画面の顔写真と、高木の顔を見比べた。
「高木正彦で一致しました」
『救助行動は記録できていますか』
高槻の質問に、菜月が顔を上げる。
「今、それを確認するんですか?」
『契約条件です』
成瀬は車載記録を確認した。
「対象者による救助行動を確認しました。魂の回収へ移ります」
道路の向こうから、先ほどの男性が近づこうとした。
「大丈夫ですか? 何か手伝えることは――」
「危険です。歩道でお待ちください」
成瀬は片手を上げて制止し、もう片方の手で端末を操作する。
男性は足を止めた。
「救急車は呼びました。すぐ来るそうです」
「ありがとうございます」
成瀬の声にも、動きにも乱れはなかった。魂の回収が始まる。
派手な光は出なかった。
呪文も聞こえない。
高木の身体も、道路も、何も変わらない。
成瀬は高木の脇にしゃがみ、回収操作を続けた。
菜月は歩道から、その様子を見ていた。
遠くから、別の車が近づいてきた。
事故に気づいた運転手が速度を落とし、車列ができ始める。道路の反対側には、立ち止まる人が増えていた。
『転送準備まで十五秒です』
高槻の声だけが、変わらず平坦だった。成瀬は高木の脇にしゃがんだまま、端末の画面と周囲を交互に確認する。
「成瀬さん」
菜月は思わず呼びかけた。
「高木部長は……」
「今は話しかけないでください」
「はい」
菜月には、そこに倒れている人から何かが遠ざかっていくように感じられた。
『残り十秒です』
遠くから、救急車のサイレンが聞こえ始めた。
サイレンが少しずつ大きくなる。
「回収、完了しました」
道路の向こうにいる男性が、救急車へ場所を知らせようと手を振っている。
『転送へ移ってください』
「転送を開始します」
成瀬は端末を伏せ、高木の状態を確認する救護者の動作へ戻った。救急車が角を曲がり、こちらへ近づいてくる。
『現世側の記録を交通事故として処理します』
高槻は通信機越しに指示を続けた。
『成瀬さんは救急と警察への説明と、車両処理を担当してください』
「私もここにいたんですよね?」
『川瀬さんが現場にいた記録は、事故と矛盾しない範囲で残します。事情聴取が必要になった場合はこちらで対応します』
「これで終わりですか?」
『魂の回収と転送は完了しました。現世側の事故処理はこれからです』
高槻の声は、交通事故の直後とは思えないほど平坦だった。
菜月は道路に倒れた高木から目を離せなかった。
救急隊員が駆け寄り、成瀬と入れ替わる。高木の身体の周りで、現世の救命処置が始まった。だが、その魂はすでに別の世界へ送られている。
「高木部長、私を助けたんですよね」
『園児と思われる人物を歩道へ戻したことは、映像で確認しています』
「そういうことを聞いてるんじゃありません」
『では、何を確認したいのでしょう』
菜月は答えられなかった。
高木が助けたのは、菜月ではない。黄色い帽子をかぶり、小さなリュックを背負った見知らぬ子供だ。菜月だと気づいたのは、突き飛ばした後だった。
高木が自分へしたことは、これで消えない。許せるとも思わなかった。
それでも、子供だと思った誰かが車道へ出た瞬間、あの男は走った。その事実だけが、菜月の中で置き場所を失っていた。
菜月が知らなかった高木の一面だった。そのことをどう考えるべきなのか、まだ分からない。考えがまとまるより先に、成瀬が歩道へ戻ってきた。
「川瀬さん」
「はい」
「現場を離れてください」
「分かりました」
「その前に、帽子を回収してください」
菜月は道路の端に転がった黄色い帽子を見た。
「今、この流れで備品の話をします?」
「車に踏まれると再利用できません」
成瀬はすでに、警察へ説明するための画面を端末へ表示している。
ふざけている様子はない。
菜月は黄色い帽子を拾った。
表面には黒い汚れが付いていたが、破れてはいない。赤いボールと小さなリュックも回収する。
高木が異世界でどのように生まれ変わるのか。
本当にオルダンのもとで働くのか。
与えられた仕事を最後まで続けるのか。
今の菜月には確認できない。
それでも、高木はもう菜月の上司ではなかった。
それだけは確かだった。
* * *
事務所へ戻ったのは、菜月と高槻だけだった。
「成瀬さんは?」
「警察への説明と、車両の事故処理を行っています。今日は戻らない可能性があります」
菜月は回収した物を机へ並べた。高槻は一つずつ確認し、現場報告書へ印を付ける。
「帽子、リュック、ボール。すべて回収済みです」
「これ、また使うんですか?」
「破損していませんから」
「私がまた園児役をする可能性もあります?」
「案件によります」
「ないって言ってくださいよ」
高槻は黄色い帽子を備品用の袋へ入れた。
「洗浄後、保管します」
机の上から園児用品が片づけられる。代わりに、高槻は撮影用の端末を置いた。
「社員証の写真を撮ります」
「今日ですか?」
「延期していましたので」
「高木部長が死んだ直後なんですけど」
「現場処理が終わるまで待つ必要はありません」
「そういう問題じゃありません」
「今日中に社員登録を完了させてください」
二日前、菜月はこの会社の転生候補者だった。その日のうちに社員となり、今日は元上司の魂を異世界へ納品した。
社員証の写真だけが、まだだった。菜月は窓ガラスへ映る自分の髪を手で整えた。黄色い帽子を脱いだだけで、二日前と変わらない顔に見える。
「撮ります」
「待ってください。まだ顔が固いです」
「本人確認ができれば問題ありません」
「社員証は毎日使うんですよね?」
「はい」
「だったら、少しくらい待ってください」
菜月は一度息を吐き、撮影用の端末へ向き直った。
「お願いします」
高槻が撮影ボタンを押した。
すぐに社員証の見本が表示される。
株式会社ネクスト・ライフ・エージェント。
三原事務所。
営業補助。
川瀬菜月。
「本当に社員になったんですね」
「雇用契約は二日前に成立しています」
「そうでした」
高槻は印刷された社員証を菜月へ渡した。
「本日の業務評価も登録します」
「園児役にも評価があるんですか?」
「指示された位置まで移動し、救助行動の開始後に適切に退避できました。初回業務として問題ありません」
「演技は?」
「高木さんが園児と判断したため、目的は達成しています」
「私の演技が良かったわけではないんですね」
「声量と緊迫感には改善の余地があります」
「あの状況で演技力まで求めないでください」
「次回までに改善してください」
「次回がある前提ですよね?」
高槻は答えず、現場報告書の次の項目を開いた。
「もう一点あります」
「何ですか?」
「高木さんへ近づこうとしましたね」
菜月は口を閉じた。
「対象者が知人であっても、車両の停止を確認する前に現場へ戻らないでください。二次事故の原因になります」
「……すみません」
「次から気をつけてください」
高槻は注意事項へ確認済みの印を付け、報告書を閉じた。
菜月は次の言葉を待った。
それ以上は何も言われなかった。
失敗した理由を何度も聞かれることもない。
同じ注意を、言い方だけ変えて繰り返されることもない。
必要な指摘を受け、確認が終われば、話も終わる。
菜月は首から下げた社員証を指先で裏返した。
高槻の端末が鳴った。
「セルディアから連絡です」
菜月は社員証を首へかけ直し、通信画面の前へ移動した。
高槻が接続する。
画面に、紺色の長衣を着たオルダンが現れた。
背後の机には、相変わらず未決裁の羊皮紙が積まれている。
『男の転生は済んだ』
「契約内容に相違はありませんか」
『ない』
「承知しました。これで納品完了です」
契約書へ、納品済みの印が付いた。
「以上で、高木さんの案件は完了です」
高木が異世界へ送られたことを祝う音も、光もない。
菜月は新しい社員証を見下ろした。
自分がこの会社で初めて担当した仕事が終わった。
その直後、新規人材依頼が一件届いた。




