第7話 園児には見えません
黄色い帽子は、腹が立つほど菜月の頭に収まった。
高木の転生計画を実行する朝。事務所の姿見には、どう見ても二十三歳の会社員が映っていた。
黄色い帽子と、小さなリュックを除けば。
「本当に、これで園児に見えるんですか?」
菜月は帽子のつばを押さえ、高槻を振り返った。
「正面から見れば、見えません」
「駄目じゃないですか」
「正面から見せる予定はありません」
高槻は会議机に現場写真を並べた。
「配送車はここへ止めます。川瀬さんは車体の陰で待機してください。高木さんは交差点側から来ます」
一枚目は、宮浦の交差点だった。低い店舗と集合住宅の向こうに、山の斜面が迫っている。二枚目には、交差点から一本入った脇道が写っていた。建物沿いに、荷さばき用の駐車区画が設けられていた。
「合図が来たら赤いボールを追って出てください。高木さんから見えるのは、帽子とリュックを背負った後ろ姿です」
「それで園児だと思います?」
「園児だと正確に判断する必要はありません」
高槻は現場写真の一か所を指した。
「車道へ出た子供らしき人物だと思わせれば十分です」
「子供らしき人物」
「高木さんは年齢を確認してから救助するわけではありません」
成瀬が菜月の背後へ回り、リュックの位置を少し下げた。
「もう少し低い方がいいですね」
「何がですか?」
「園児らしさです」
成瀬は真顔だった。鏡の中では、小さすぎるリュックの肩ひもが、菜月の腕の付け根へ食い込んでいる。
「私、大人に見えません?」
「大人に見えます」
「見えるんですね」
「今は全身が見えているので」
成瀬は帽子のつばも数センチ下げた。何の問題も解決していないようにしか見えなかった。
「本物の子供を使う案はなかったんですか?」
「検討段階で却下しました」
高槻が答えた。
「未成年者を転生計画へ参加させることはできません」
「そこはちゃんとしてるんですね」
「そのため、雇用契約と安全教育が済んでいる川瀬さんを使います」
「私ならいいという結論がおかしいんですよ」
高槻は菜月の訴えを聞き流し、現場手順書を開いた。
「合図を受けたらボールを追って白線の手前まで出てください。高木さんが救助行動を開始した時点で歩道へ戻ります」
「高木部長が動かなかったら?」
「計画を中止します」
「私が転んだら?」
「中止します」
「高木部長に顔を見られたら?」
「中止します」
高槻は中止条件が印刷された一枚を菜月へ差し出した。
「いずれかに該当した場合、成瀬さんは車両を接触経路へ入れません」
菜月は紙を受け取った。
転倒。
退避の遅れ。
候補者による本人確認。
第三者の進入。
予定外の車両または歩行者の接近。
中止条件だけで、用紙の半分近くが埋まっている。
「私が園児に見えなかった場合は?」
「それは実行後にしか判断できません」
「一番大事なところだけ、ぶっつけ本番なんですか?」
「救助行動が起きなければ、条件未達として高木さんは納品しません」
「私が逃げ遅れた場合は?」
「その前に中止を指示します」
「絶対ですよ」
「社員を転生候補者へ戻す予定はありません」
安心させる言葉としては、かなりおかしかった。
菜月が黄色い帽子を脱いだところで、鞄の中のスマートフォンが鳴った。画面には、高木正彦と表示されている。成瀬は鳴り続ける画面へ目を落とし、わずかに眉を寄せた。
「まだ番号を消していなかったんですね」
「何かあったら困ると思って」
「今から何かある相手ですけど」
「そういう意味じゃありません」
呼び出しは切れずに続いている。菜月は少し迷ってから電話に出た。
「はい」
『川瀬か。会社の鍵と社員証、まだ返してないだろう』
挨拶もなく、高木の声が耳へ入ってきた。
「今日返します」
『今日じゃ遅い。午前中に持ってこい。お前の机に残っていた物もある』
「分かりました」
『それから、明日の契約更新の件だが――』
「もう退職しました」
『途中までお前が担当していただろう。最後までやるのが社会人の責任だ』
「引き継ぎ資料は共有しています」
『資料だけで分かるわけがない。直接説明しろ』
高槻は、菜月の通話を遮らずに聞いていた。
菜月は一度、息を吸った。
「鍵と社員証を返したら、私の手続きは終わりです」
『勝手に決めるな。転職先でもそんな態度なら――』
「では、後で伺います」
高木が続きを口にする前に、菜月は通話を切った。
「会いに行ってもいいですか?」
「未処理の返却物は、転生前に減らした方がいいでしょう」
高槻は高木の予定を画面で確認した。
「返却後、高木さんは外回りへ出ます。その移動経路上で計画を実行できます」
菜月は園児用のリュックを机へ置いた。まずは普通の服で、元の会社へ向かうことになった。
* * *
建物の入口で待っていると、高木は小さな段ボール箱を抱えて現れた。
「遅い」
約束した時刻より五分前だった。
菜月は社員証と鍵をそろえ、高木の前へ差し出した。
高木は社員証の名前を確認し、鍵を一本ずつ数える。
「明日の契約更新、担当者に何も伝わってないぞ」
「共有フォルダに資料があります」
「だから、資料だけで分かるわけがないと言ってるだろう」
電話と同じ言葉だった。
「もう私の仕事ではありません」
「半年しか働いてないのに、よくそんなことが言えるな」
高木は段ボール箱を菜月へ押しつけた。中には、マグカップ、付箋、筆記具が入っている。机の端に置いていた小さな置き時計もあった。
「こんな物まで残して、社会人として無責任だと思わないのか」
段ボール箱の中で、置き時計が横へ倒れた。菜月は箱を抱え直した。
「すみません。持ってきていただいて、ありがとうございます」
「謝るくらいなら、今日だけでも仕事に戻れ」
「戻りません」
高木は菜月を見下ろした。
「転職先でもどうせ続かないぞ。嫌なことがあったら、またすぐ逃げるんだろう」
以前なら、何か言い返そうとしていた。
半年間我慢したことも、毎日怒鳴られていたことも、すべて説明すれば少しは伝わると思っていた。
だが、もう理解してもらう必要はなかった。
高木はまだ、自分が菜月へ命令できる立場だと思っている。その関係は、もう終わっていた。次に高木へ仕事を命じるのは、菜月でも、今の会社の社長でもない。
別の世界の神だ。
それを知っているのは、この場では菜月だけだった。
「お世話になりました」
菜月は頭を下げた。
「では、失礼します」
「おい、まだ話は――」
菜月は振り返らなかった。
高木の声が追ってきたが、足を止めずに歩いた。
建物の角を曲がったところで、スマートフォンを取り出す。
高木正彦。
登録されていた番号を削除し、着信を拒否した。
半年間続いた関係は、数回の操作で画面から消えた。
言われたことまで消えるわけではない。それでも、もう高木の命令に従うことはない。
「終わりました」
近くで待っていた高槻へ報告すると、最初に確認されたのは菜月の気持ちではなかった。
「社員証と鍵は返却しましたか?」
「返しました」
「会社の書類は残っていませんか?」
「ありません」
「では、前職の返却物については完了です」
「感想とかないんですか?」
「手続きに問題はありません」
高槻は何のことか分からないという顔で、現場資料を開いた。
移動後、菜月は車内で再び黄色い帽子をかぶった。
後部座席には、前の会社から返された段ボール箱と、園児用の小さなリュックが並んでいる。
片方は、終わった仕事の残り物。もう片方は、これから元上司を異世界へ送るための仕事道具だった。
「転職先を間違えた気がします」
運転席の成瀬が、肩越しに振り返った。
「今からでも記憶処理にしますか?」
「それより先に高木部長を送ります」
「やる気はあるんですね」
「あります」
菜月は黄色い帽子のつばを下げた。
* * *
現場には、灰色の配送車が一台止められていた。
成瀬は菜月を車体の陰へ立たせ、自分は高木が来る方向へ回った。
「帽子を出してください」
菜月が車体の横から頭を出す。
「そこまでです」
「顔は見えませんか?」
「見えません。リュックも少しだけ出してください」
肩をずらすと、成瀬が片手を上げた。
「確認できました。戻ってください」
「これ、本当に園児に見えますか?」
「高木さんが判断します」
(嘘でもええけえ、見えるって言ってや!)
成瀬は接触に使用する車両へ戻った。高槻の声が通信機に入る。
『川瀬さん、通信状態を確認します』
「聞こえています」
『退避経路に変更はありません。高木さんが走り始めた時点で、配送車の陰へ戻ってください』
「分かりました」
『対象者以外が近づいた場合は、こちらから中止を指示します』
菜月は黄色い帽子を深くかぶった。
二日前には、自分が殺される側で通信機の声を聞いていた。
今は同じ声の指示を聞きながら、別の人間が死ぬ場所に立っている。
胸の前で抱えた赤いボールが、手の汗で滑りそうになった。
『対象者を確認しました』
高槻の声が耳元へ届く。
配送車と建物の隙間から見ると、高木が一人で道を歩いてくる。
先ほど返却物を受け渡したときと同じ鞄を持ち、こちらには気づいていない。
菜月は配送車の陰へ戻った。
『川瀬さん、開始してください』
菜月は赤いボールを決められた方向へ転がした。
ボールは配送車の後ろから道路側へ出て、白線の直前で速度を落とす。
菜月はその後を追い、指定された位置まで走った。成人女性の下半身は配送車の車体に隠れている。高木から見えるのは、車道へ出ようとしている小さな背中だけのはずだった。
「あー、ボールがー」
自分でも驚くほど、感情のない声が出た。
『川瀬さん、もう少し慌ててください』
「園児に演技力まで求めるんですか!」
遠くから車の音が近づいてくる。菜月は高木を振り返らず、白線の手前で足を止めた。
「危ないぞ!」
高木の声がした。
次の瞬間、背後から激しい足音が近づいてきた。
高木は、車道に飛び出した園児を助けるために走り出した。




