第21話 定時なので帰ります
「先ほどの注文ですが、納期を二日前倒しでお願いします」
昨日組み直したばかりの生産表が配られて、まだ二十分も経っていなかった。工場長は電話を肩で挟み、生産表の納品日を書き換えた。
「数量の変更はありませんか」
『ありません。日程だけです』
「分かりました。確認して折り返します」
電話を切ると、現場責任者を呼び止める。
「追加分を二番ラインに移します。明日予定していた分は午後からに変更してください」
「今ある注文へ入るんですか?」
「人員を一人移せば入ります。材料の残数を確認してください」
菜月は流れてくる部品の向きを変え、治具に置いた。
(受けるかどうかじゃなくて、もう入れる場所を考えとる……)
工場長は生産表を持ってラインの間を歩き、変更した工程を班長に伝えていく。
「二番は追加注文を先に流します。午前の休憩後から切り替えてください」
「検品は今の人数で足りますか?」
「最初の一時間は足ります。完成品が増えたら、三番から一人戻してください」
指示を受けた班長が人を動かすと、ラインの速度を変えないまま作業の順番だけが入れ替わった。
菜月の前には、昨日と同じ部品が流れてくる。
向きを見る。置く。次を取る。
肩の張った場所が、腕を動かすたびに引かれた。昨日より手順には慣れたが、足の裏には午前中から熱が溜まっていた。事務員が新しい書類を持って工場長へ近づいた。
「追加注文の一件、仕様書が差し替えになりました」
「変更箇所は」
「取付位置が一か所変わっています」
工場長は旧仕様と新仕様を並べ、赤い印の位置を確認した。
「現在流している分は」
「次の箱で一区切りです」
「そこで止めてください。変更前の分は、ほかと混ぜずに分けておいてください」
班長がラインへ停止の合図を出す。作業員が箱を移し、旧仕様と書かれた札を掛けた。
「治具の位置を変える必要があります」
「調整時間は」
「二十分ほどです」
「休憩中に調整してください。再開前に私が確認します」
工場長は変更箇所を生産表に書き込み、次のラインへ向かった。
止まった工程の横には、完成しかけた部品が積まれている。昨日は指示を追うだけだった。今日は、止まった工程まで見えた。
菜月は端末の記録欄に、時刻と変更内容を入力した。昼休憩が終わる直前、工場長は調整された治具を確認し、作業員へ一つだけ部品を流させた。
「位置は合っています。再開してください」
コンベアが動き始める。十分も経たないうちに、今度は別の事務員が梱包指示書を持ってきた。
「三件目の注文ですが、納品先ごとに箱を分けてほしいそうです」
「箱の大きさは同じですか」
「同じです。ラベルだけ別になります」
「必要数を確認してください。梱包前に仕分けます」
「今の置き場では足りません」
工場長は梱包工程の横へ視線を向けた。
「空の台車を二台移してください。完成品は納品先ごとに載せます」
「分かりました」
三枚だった受注票の横へ、変更された仕様書と梱包指示書が重なった。工場長は一枚を処理するたび、次の書類を開いた。声を荒らげることも、作業員を急かすこともない。その代わり、生産表に引かれた線だけが増えていった。
菜月は部品を置きながら、定時までの残り時間を数えていた。昨日は時計を見ても進んでいなかった。今日は、時計の針が一分進むたびに肩から力が抜けていく。最後の箱に部品を入れ終えるころには、指先がこわばり、作業靴の中で足の裏が熱を持っていた。
定時のチャイムが鳴った。
コンベアが止まり、菜月の両手も止まった。肩から息が抜ける。連絡用端末に高槻から着信が入った。
『本日の潜入調査時間は終了です。退勤してください』
(こんなにありがたい「退勤してください」、初めて見た……)
手袋を外し、指を一本ずつ伸ばす。周囲でも作業員が部品を片付け、持ち場を離れ始めていた。
工場長は作業着を脱がなかった。机の上に積まれた受注票と仕様書を抱え、工場内の事務所へ向かう。菜月は近くにいた班長を呼び止めた。
「工場長は帰らないんですか?」
「明日の段取りを組むそうです。今日、変更が多かったので」
「一人でですか?」
「現場責任者も途中までは残りますよ。生産表を作るのは工場長ですけど」
ガラスで仕切られた事務所の中で、工場長はすでに書類を広げていた。
菜月は端末から事務所に連絡を入れる。
「追加注文への対応が続いています。もう少し残って、工場長の動きを確認した方がいいと思います」
高槻の声が返ってきた。
『必要な観察は成瀬さんへ引き継ぎます。川瀬さんは退勤してください』
「成瀬さんは、もう近くにいるんですか?」
『現地周辺の確認を続けています。工場長が建物を出る場合も対応できます』
事務所の窓の向こうで、工場長が新しい生産表に線を引いている。
「工場長は残っていますけど」
『川瀬さんは弊社の社員です』
菜月は端末と工場長を交互に見た。
「……定時なので帰ります」
『お疲れさまでした』
更衣室で作業着を脱ぎ、私服へ着替える。足を持ち上げるたびに、ふくらはぎが張った。
退勤時刻は十七時ちょうどだった。
工場を出ると、外の空気が汗の残った首元に触れた。作業靴から履き替えた足が、少しだけ軽い。
駐車場へ向かいかけ、菜月は足を止めた。ラインの照明は消えている。工場内の事務所だけが、まだ明るかった。窓の向こうで工場長が机へ向かい、その横では現場責任者が書類を受け取っていた。
菜月は画面を閉じた。
翌朝、工場へ入ると、新しい生産表が配られていた。
「昨日の追加分は、この順番で流します。仕様変更分は二番ラインです。梱包前に納品先を確認してください」
工場長が作業員の間を回り、一人ずつ紙を渡していく。菜月が受け取った生産表には、追加された三件の注文がすべて組み込まれていた。紙には、まだプリンターの熱が残っている。
工場長の左袖には、昨日と同じ位置に黒い汚れが残っていた。




