第17話 遅延しました
「千佳さん、こっち」
交際成立から一週間後の日曜、岸本が三つの候補から選んだ海沿いの公園で、成瀬は差し出された手を取った。二人が恋人として初めて休日を過ごす一方、事務所では展望デッキを使った死亡工程の最終確認が進んでいた。
「写真で見るより、海が近いね」
「俺が選んだんじゃけど、千佳さんもここでよかった?」
「うん。景色もいいし」
岸本はつないだ手を一度見てから、成瀬の歩幅に合わせた。
「まだ慣れん」
「手をつなぐのが?」
「千佳さんって呼ぶのも」
「もう呼べてるよ」
「呼ぶ前に毎回、頭の中で練習しとる」
「じゃあ、そのうち普通になるね」
岸本の肩から力が抜けた。菜月は二人の会話を記録し、画面を現場映像に戻した。交際関係はすでに成立している。名前で呼び合うようになっても、契約条件が増えるわけではない。
「一般客は実行区間の外です。成瀬さんの安全具と回収班も配置済みです」
「風と波は?」
「事前確認の範囲内です」
高槻は展望デッキと海上の配置を確認した。
「成瀬さん。岸本さんが動かなければ、ご自身で退避してください。助けを求める発言もしないでください」
『承知しました』
「川瀬さん、岸本さんの位置を追ってください。予定からずれた場合は、計画上の地点ではなく最後に確認できた位置を優先します」
「はい」
美知留は異世界側との回線を開いたまま、担当者からの待機連絡を確認した。
「向こうも準備できとるよ。回収したら、そのまま送れる」
前回は、告白が遅れたために実行地点をすべて通り過ぎた。今日は交際も場所も整っている。
残っているのは、岸本が自分の意思で成瀬を助けるかどうかだけだった。
* * *
二人は売店で飲み物を買い、海へ張り出した展望デッキへ向かった。
「温かい方でよかった?」
「ありがとう。今日は風があるから」
「買ってから、冷たい方が好きじゃったかもと思って」
「次から聞いてくれたらいいよ」
「次も俺が買ってええん?」
「もちろん」
岸本は紙コップを両手で包んだ。
「じゃあ、次は先に聞く」
成瀬は海へ顔を向けた。
デッキの先には手すりが続き、その手前に実行位置を示す印が付いている。一般客には、床材の模様にしか見えない。
成瀬が印の上で足を止めた。
『位置につきました』
「周囲に変化ありません」
菜月の報告を受け、高槻が実行を許可した。
成瀬の足元で、短い音がした。
体が海側へ傾く。
岸本の手から紙コップが落ちた。
「千佳さん!」
成瀬の安全具が働き、手すりの外で体を止める。予定では、岸本が正面から腕をつかみ、その勢いで実行位置を越えることになっていた。
岸本は正面へ向かわなかった。
手すりに沿って走り、支柱の脇から身を乗り出す。
成瀬の手ではなく、肩に腕を回した。
「悠真君、離して!」
岸本は答えず、成瀬の体をデッキ側に押し上げた。
成瀬の両膝が床へ戻る。
代わりに、岸本の腰が手すりを越えた。
「悠真君!」
伸ばした指が制服の袖をかすめる。
岸本の姿は、支柱の向こうへ消えた。
水音は予定地点よりも遠く、デッキの外側から聞こえた。事務所では、菜月が映像を巻き戻した。
「落下位置が違います」
岸本は成瀬を押し上げるため、計画より海側へ二歩移動している。
「支柱の外です。橋脚の方向へ流れています」
高槻が回収班に経路変更を指示した。
『外側へ回ります』
成瀬は手すりに身を寄せ、携帯回収器を海面へ向けた。
『確認できません』
「成瀬さんは陸側へ下がってください。岸本さんを追わないでください」
『外側が見えません』
「回収班が向かっています。安全位置を維持してください」
成瀬は一歩ずつ手すりから離れた。岸本につかまれた右手首だけが赤く残っている。
「回収艇が外側へ出るまで二分です」
「最後の位置を追ってください」
「今、橋脚の下へ入りました」
岸本の反応は一度途切れ、数秒後に反対側へ現れた。
「出ました。予定地点から十五メートル先です」
菜月が位置を送る。回収艇はデッキの下を通れず、先端を大きく回っていった。
(告白まで一週間待った会社が、死んだ後だけ一分単位で急かしてくるん……!?)
「依頼主に、回収が遅れていることを報告するよ」
美知留が現在位置と経過時間を送信した。
「まだ回収できてないのにですか」
「取ってから遅れましたと言うより、先に伝えた方がええ」
時計の秒針が一周した。
成瀬は陸側の退避位置から動かなかった。手すりの向こうへ目を向けたまま、携帯回収器を握っている。
『反応地点へ到着しました。対象者の死亡を確認し、回収を始めます』
「お願いします」
海上から送られてきた映像には、波と橋脚しか映っていない。
「進んでいますか」
『反応が安定しません』
高槻が現場図面を開いた。
「橋脚の下に何がありますか」
『水面下に補強材があります。内側へ届きません』
「予備の装置に切り替えてください。乗員は海へ入りません」
『了解しました』
菜月は時計を見た。事故が起きてから、すでに予定していた回収時間を超えている。
「あとどれくらいかかりますか」
『捕捉し直しています』
「回収できるんですよね」
「作業は継続しています」
高槻の返答はそれだけだった。美知留の画面に、異世界側から連絡が届く。
「回収が規定時間を超えたため、適合できる器の範囲が変わる可能性があります。それでも受け入れると、先方から回答が来とるよ」
「転送経路は維持してください」
「つないどるよ」
成瀬の声が入った。
『悠真君は』
続きは聞こえなかった。
「回収中です」
『了解しました』
菜月は両手を机の上に置いた。片方を離すと、もう片方の指が震える。回収班から報告が入った。
『捕捉しました』
「そのまま続けてください」
『一度切れました。再調整します』
さらに一分が過ぎた。
床に落ちた岸本の紙コップから、飲み物が細く流れている。風に押され、海とは反対の方向へ伸びていた。
『回収できました』
菜月は息を吸ったまま、高槻を見た。
「保存せず、そのまま送ります」
美知留が異世界側に回収完了を伝え、担当者から了承を得た。
転送が始まる。
事務所では誰も席を立たなかった。成瀬も展望デッキの端で、事故処理課が到着するのを待っている。やがて、異世界側から到着の連絡が返った。
「到着を確認しました」
美知留が回線を閉じた。
岸本が転落してから、予定より十四分遅れていた。
岸本の魂は、異世界へ転送された。




