第15話 素直に喜べません
日曜の朝、三原港の待合所で、岸本は佐木島行きの時刻表と二台分の自転車予約を交互に確かめていた。倉橋を初めて休日に誘い、船で島へ渡る。事務所では、その外出が交際へ進むかを、成瀬の胸元から届く映像で確認していた。
待合所の扉が開き、薄い水色のシャツに紺色のスカートを合わせた成瀬が入ってきた。肩には鞄を掛け、もう片方の手に保冷バッグを提げている。
「おはよう。待った?」
「いや、俺も今来たところ」
岸本の手には、折り目の増えた乗船券が握られていた。
「荷物、持とうか?」
「大丈夫。そんなに重くないから」
「それ、弁当?」
「うん。二人分」
乗船券を持つ指が止まる。
「作ってきてくれたん?」
「朝から頑張りました」
「ありがとう。ぶち楽しみ」
菜月は岸本の行動を記録に追加しかけ、手を止めた。
「荷物を持とうとしただけなので、記録対象外にします。交際の意思までは分かりません」
『その判断で問題ありません』
(うちも成長しとる。高校生の親切を、すぐ死亡条件に加算せんようになった……!)
乗船案内が流れ、二人は桟橋へ向かった。
* * *
船が港を離れると、岸本は窓際の席を成瀬へ譲った。海面の照り返しが、窓ガラスを通って向かいの壁まで揺れている。岸本は島内地図を膝へ広げ、港から海沿いを回る線を指でなぞった。
「ここで自転車を借りて、島を一周する。昼はこの辺りで食べて、カフェは半分を過ぎたくらい」
「全部調べてくれたの?」
「誘ったの俺じゃけ」
地図の端には、フェリーの時刻と自転車の返却時間が書き込まれていた。
「岸本君、こういうの得意なんだね」
「遅れたら帰れんくなるけん」
「そこまで心配しなくても」
「初めて来る場所で困らせたくないじゃろ」
岸本は地図を畳み、窓の外へ顔を向けた。
事務所の行程表にも同じ航路と一周経路が表示されている。後半の区間には、演出課が現地確認を終えた印が付いていたが、死亡工程の実行欄は灰色のままだった。
* * *
島へ着くと、岸本は予約票を差し出して二台の電動アシスト自転車を受け取った。
成瀬がヘルメットを着けている間に、店員と一緒にサドルを下げ、ブレーキを握って効きを確かめる。
「乗ってみて。足たう?」
「うん。これなら大丈夫」
「じゃあ、俺が前を走るけん。速かったら言って」
二人は港を出て、海沿いの道へ入った。
岸本は数十メートル進むたびに肩越しに後ろを確かめた。成瀬が追いつくと前へ向き直り、坂道の手前では速度を落とす。右手に海が開ける場所で、自転車を止めた。
「ここ、島で一番好きなんよ」
岸本はガードレールの内側に立ち、沖を指した。
「子供の頃、父さんと釣りに来とったんよ。最近は全然来とらんけど」
「どうして今日、ここに連れてきてくれたの?」
ハンドルに置いた手が、右から左へ握り替えられた。
「倉橋さん、島に行ったことないって言っとったじゃろ」
「うん」
「せっかくなら、知っとる場所を案内したかったんよ」
岸本は自転車へまたがった。
「次、カフェまで行こう」
* * *
店内の窓際に、黄色と白の層が混ざったフラッペが二つ並んだ。成瀬がストローを差し込む横で、岸本はカップを持ち上げ、どこから飲むべきか眺めている。
「写真より大きい」
「飲みきれる?」
「倉橋さんがおるけん頼んだんじゃし飲みきるよ」
一口吸った途端、岸本の眉間にしわが寄った。
「酸っぱい」
「レモンが入ってるからね」
「八朔の方が強いと思っとった」
「岸本君が選んだんでしょ」
「そうじゃけど」
もう一口飲む。今度は眉間に力が入らなかった。
「でも、ぶちうまい」
「一人でも頼めそう?」
「それは無理」
「どうして?」
「男一人でこれ持って座るの、恥ずかしいじゃろ」
岸本は成瀬のカップと自分のカップを交互に見た。
「今日は二人じゃけええけど」
菜月は入力欄を開かなかった。相手と一緒だから普段しないことをした。それだけでは、まだ交際の申込みにはならない。
* * *
午後の日差しが傾き始めた頃、二人は海を見下ろす木陰に自転車を止めた。成瀬が保冷バッグから弁当箱を二つ取り出す。
「朝から作ったやつ?」
「うん。好きだって言ってたから」
蓋の下には、唐揚げと甘い卵焼きが詰められていた。
「これ、俺が好きって言ったやつ?」
「覚えてました」
岸本は卵焼きを口に入れた。噛む回数が減り、箸がすぐに次の一切れへ伸びる。
「甘い?」
「うん。うちのより甘い」
「甘すぎた?」
「いや、これくらいが好き」
今度は唐揚げを取り、白いご飯と一緒に口へ運んだ。
「また作ってくれる?」
「じゃあ次は、卵焼きをもう少し甘くします」
「これより?」
「岸本君が好きなら」
菜月は画面の横に開かれた行程表に目を移した。次の弁当を食べる予定は、どこにも入っていない。
(そんな約束、会社は最初から納品する気ないのに……)
岸本は空になった弁当箱を両手で成瀬へ返した。
「ごちそうさま。ほんまにおいしかった」
二人は自転車へ戻り、残りの道を港へ向かった。
* * *
島を一周してレンタサイクルを返すと、帰りの船まで二十分ほど残っていた。岸本は自転車の利用票を二つに折り、返却口の脇で足を止めた。
「倉橋さん」
イヤホンの向こうで、菜月が息をのむ。
「ここで告白するんですか!? もっと桜の木の下とかじゃなく!?」
『場所は条件に含まれていません。静かにしてください』
高槻の声が返り、菜月は口を押さえた。利用票の折り目が、岸本の指の間で深くなる。
「今日、楽しかった?」
「うん。楽しかった」
「俺も」
返却口では、店員が二台の自転車を奥へ運んでいた。車輪の回る音が遠ざかり、岸本は折った利用票をポケットに入れた。
「転入してきた日から、倉橋さんともっと話したいと思っとった」
「うん」
「学校だけじゃなくて、今日みたいに一緒に出かけたい」
岸本の喉が一度動いた。
「倉橋さんのことが好きです。俺と付き合ってください」
風が、成瀬のスカートの裾を揺らした。
「うん。私でよければ」
「本当?」
「本当。これからよろしくね」
岸本の口元が開いたまま止まり、やがて奥歯が見えるほど持ち上がった。
「よろしくお願いします」
(なんなんこの青春……ずる過ぎるじゃろ)
「……成立しました」
「はい」
岸本悠真に、初めて彼女ができた。
その後、事務所では死亡工程の保留が解除された。




