第13話 恋愛案はすべて通りませんでした
黒板の前に立つ倉橋を岸本が初めて見上げた。
紺色のブレザーに、肩まで伸びた黒髪。教室へ入る前に一度だけ息を整え、小さく会釈する。転入初日の女子高校生として不自然なところはない。ただし、顔を上げるまでの短い間に、その視線だけが出入口、窓、生徒たちの座席を順に通っていた。
その動きに気づく者はいなかった。
* * *
三日前、事務所の会議机には、学校周辺の地図が広げられていた。
「岸本君の家は、学校から徒歩で二十五分くらいです」
菜月は地図上の通学路を指でなぞった。
「正門から商店街を抜けて、港へ続く道と途中まで重なります。この辺りは坂が多いんですけど、地元の高校生なら住宅地を抜ける近道を使います」
「川瀬さんは、その経路をご存じですか」
「はい。前の会社でこの辺りを回ってましたから。近道だけじゃなくて、放課後に高校生が寄る店や、人通りが減る時間も分かります」
高槻は菜月の説明を、接触計画書に書き込んだ。
「経路情報は利用できます」
菜月は少しだけ胸を張った。恋人役は成瀬に取られたが、地元の情報なら自分の方が詳しい。
「出会い方も考えてきました」
「お願いします」
「食パンをくわえて、曲がり角でぶつかるのはどうですか?」
高槻の手が止まった。美知留が地図から顔を上げる。
「誰が食パンをくわえるん?」
「成瀬さんです。朝、遅刻しそうな感じで走ってもらって、角から出てきた岸本君とぶつかるんです。恋愛ものでは定番ですよ」
菜月は冗談ではなく、実行案として説明した。
「意図的な衝突は、双方の負傷につながります」
「そんなに強くぶつからなくてもいいじゃないですか」
「接触する直前に減速した場合、故意であることを疑われる可能性があります。また、岸本さんの通過時刻には日ごとの変動があります」
「定番なんですよ?」
「どの業界の標準手順ですか」
「恋愛です」
「弊社では採用実績がありません」
「恋愛漫画を安全審査にかけないでください!」
高槻は計画書に何も書き込まなかった。美知留が転入関係の資料をめくる。
「普通に隣の席に座らせたらええんじゃない?」
「それだけですか?」
「転入初日は、教科書が全部届いてないことにする。担任から岸本君に、見せてあげてって頼んでもらえば話す理由になるじゃろ」
「恋愛っぽい出来事は起こさないんですか?」
「最初から好きにさせようとしたら警戒されるよ。次の日も話していい相手になれば、今日はそれで十分」
高槻は教室の座席表を確認した。
「安全上の問題もありません。採用します」
「食パンより地味じゃないですか?」
「実行可能性は、上坂さんの案が上です」
菜月の恋愛案は、開始から二分で不採用になった。美知留は学校から港までの地図を自分の方に引き寄せる。
「教室で話せたら、帰りしもう一回接点を作ろう。菜月ちゃん、港へ行く道はどれ?」
「こっちです。学校から大通りを使うと遠回りですけど、岸本君の通学路なら途中まで一緒になります」
「じゃあ、千佳ちゃんから港への道を聞けばええね」
菜月はすぐに次の案を出した。
「その流れで、一緒に帰ろうって誘うんですね! 放課後はチャンスです!」
「成瀬さんから同行を求めてはいけません」
また高槻が却下した。
「今度は安全ですよ!?」
「安全性の問題ではありません。成瀬さんから継続的な接触を求めた場合、岸本さんの行動が自発的なものか判断しにくくなります」
「一緒に帰るくらいで?」
「今回確認するのは、演出に応じる能力ではありません。岸本さんが他者へ関心を持ち、自分から行動するかどうかです」
「そこまで区別する必要がありますか?」
「誘導による行動と判断された場合、依頼条件を満たしません。納品後に受け入れを拒否されれば、候補者の再選定と実行計画の組み直しが必要になります」
「やり直せばいいってことですか」
「その費用は弊社負担です」
「恋愛の自然さをお金の問題で守っているんですか!?」
高槻は否定しなかった。美知留が地図上の港を指で叩く。
「千佳ちゃんは道だけ聞けばええよ。岸本君が案内するって言えば、一緒に帰る。言わんかったら、その日は一人で港へ行く」
「うーん、恋愛案件なのに何も起こさず帰るんですか?」
「何も起きん日に、無理に起こす方が不自然じゃろ」
(何も起きん日に、うちを刺そうとしたのに!?)
入社初日の自分を思い出したが、恋愛と転生では部署の判断基準が違うらしい。
高槻が計画書をまとめる。
「川瀬さんの経路情報と、上坂さんの接触案を採用します。成瀬さんは教科書の共有によって最初の会話を行い、放課後に岸本さんへ港までの経路を確認してください」
「あの……私の案、土地だけ採用されてません?」
「はい」
「恋愛部分は二つとも捨てられた!?」
「川瀬さんの土地勘は、この計画に必要です」
慰めているのか評価しているのか分からなかったが、地図上の経路には菜月の名前が担当者として記載されていた。
* * *
計画通り倉橋千佳の席は岸本の隣になった。
「倉橋の教科書が一部まだ届いていない。岸本、今日だけ見せてやってくれ」
「はーい」
岸本は返事をすると、自分の机を少し成瀬側に寄せた。教科書を開き、二人の間に置く。岸本自身からは見えにくいほど、成瀬側へ寄っていた。
「岸本君、見えづらくない?」
「うん。俺は大丈夫」
「ありがとう」
成瀬は女子高校生の声で答え、教科書へ視線を落とした。制服の内側に固定された小型カメラの映像と音声が、事務所へ送られていた。
「自分の利便性より、隣席者の閲覧を優先しています。行動記録に追加してください」
「いや、教科書を寄せただけですよ?」
「小さな行動も、継続すれば傾向を判断できます」
菜月は、岸本が教科書を寄せた時刻と行動を記録した。送信欄に指を置いたまま、一度だけ動きが止まる。
(優しいところを見つけるたび、死亡条件に近づいていくん……?)
それでも、菜月は記録を送信した。岸本は授業中、成瀬がページを確認するたびに、教科書の位置をわずかに調整していた。
食パンを使わなくても、二人は普通に会話を始めている。
* * *
放課後、成瀬は靴箱の前で携帯端末に表示した地図を確認していた。岸本が靴を履き替え、その横を通りかかる。
「あっ倉橋さん、どっか行くん?」
「港を見ておこうと思って。この道で合ってる?」
成瀬は、菜月が用意した経路を画面に表示して見せた。
岸本は地図を覗き込む。
「合っとるけど、そっちは坂が多いんよね」
「ほかに道があるの?」
「商店街を抜けた方が近いんよ。帰り道、途中まで一緒じゃけ……案内しようか?」
成瀬はすぐには答えなかった。
岸本の視線は地図へ逃げていたが、断られる前に立ち去ろうとはしていない。頼まれて仕方なく申し出た様子でもなかった。
「お願いしてもいい?」
「い、いいよ」
二人が並んで校門を出るのを、菜月は事務所の画面で確認した。
「一緒に帰ることになりましたよ!」
『岸本さんからの申し出として記録します』
高槻の声が通信機から返ってくる。
「私も、一緒に帰る案を出しましたよね」
『川瀬さんの案では、成瀬さんから同行を求める予定でした』
「結果は一緒じゃないですか」
『成立過程が異なります』
岸本は商店街を抜けながら、成瀬に道を説明していた。
「この先をまっすぐ行けば港。フェリー乗り場は右側にあるよ」
「島にも行けるの?」
「佐木島ならすぐじゃね。便も多いし、景色もいいよ」
教室では口数の少なかった岸本が、船の話になると少しずつ言葉を増やしていく。成瀬は話を遮らず、知らない土地について尋ねる転入生として、一つずつ質問していた。
食パンは使用されなかった。
岸本と倉橋の最初の自発的な同行は、教科書の未納と、港までの近道から始まった。




