第九話:天の理(あめのことわり)
二条御所の空間が、まるで水面に投げ込まれた石のように激しく歪んでいた。
目の前に立つ、顔のない信長。その全身からは、黒い霧のような 未だ定まらぬ因果 が溢れ出し、触れるものすべてを、書き損じの墨汚れのように崩していく。
「……上様なのか。それとも、上様の形をした『虚無』か」
俺の問いに、信長(しるしなき者)は答えない。ただ、彼が歩を進めるたびに、御所の畳が、柱が、ひび割れた安物の絵画のように剥がれ落ちていく。
この世界は、俺の 嘘 という毒に侵され、自らを清めようとする 天の意志 によって、すべてを無に帰そうとしているのだ。
『天啓:不整合なる魂「織田信長」による、世の理の初期化を検知』
『宣告:万象が塵に還るまで、残りわずか』
「……消し去るというのか。ふざけるな。ようやく掴みかけたこの現実を、神仏の気まぐれで終わらせてたまるか!」
俺は口に加えた筆を、渾身の力で噛み締めた。
もはや全身の感覚はない。自分の身体がどこからどこまでなのかすら判然としない。視界は不気味な白光に包まれ、思考すらも あいうえお の文字の羅列に分解されつつある。
だが、俺にはこれがある。
俺は床にぶちまけられた墨を、自身の 存在 そのもので吸い上げるようにして、空間の 裂け目 に直接書き込んだ。
『この異形こそが真実なり。織田信長は死なず、足利の影として永遠に歴史の闇を彷徨う「守護の鬼」へと成り果てる』
書いた瞬間、信長の形をした虚無が、凄まじい咆哮を上げた。
それは声ではない。情報の断末魔だ。
俺の脳を、数万本の針で突き刺すような激痛が走る。
嘘 で 天の理 をねじ伏せる。それは、この世を形作る大きな歯車を、素手で強引に止めるに等しい暴挙だ。
「……あ、あああああああ!」
俺の左眼が、パシャリと音を立てて弾けた。
代償はついに、代えのきかない部位へと及ぶ。
だが、その瞬間。
荒れ狂っていた黒い霧が、一筋の影へと収束し、俺の足元に伸びる影の中へと吸い込まれていった。
『状況:理の綻びを、強引に「新たな理」として綴じ合わせることに成功』
『警告:世界の器は、今や崩壊の瀬戸際にあります』
嵐が去った御所には、異様な静寂が戻っていた。
俺は玉座の影に崩れ落ち、荒い息を吐く。
勝った。
信長という天の刺客を、俺の 嘘 の配下として繋ぎ止めたのだ。
だが、空を見上げれば、そこにはもはや青い空はなかった。
ひび割れた空間の向こう側に、血走ったような 奇妙な文様 が、夜空を覆い尽くそうとしていた。
「……ようやく、見えてきたぜ。俺を消そうとする『天の主』のツラがよ……」
俺は血に濡れた口元を歪め、天に向かって不敵に笑ってやった。




