第十話:因果の塵(ちり)
二条御所の空に、見たこともない色の雷鳴が轟いていた。
それは青でも白でもない、墨を水に垂らしたような、濁った黒の光。空が、まるで古い絵巻が裂けるように、不自然な音を立てて軋んでいる。
俺の影に封じ込めた 信長の残響 が、時折、俺の喉を借りて聞いたこともない呻きを漏らす。
「……天……はじまり……戻……」
意味は分からぬ。だが、それがこの世界を裏側から操る 天の理 の正体であることを、俺の直感が告げていた。
「はぁ、はぁ……。さらばだ、猿」
俺はもはや、自分の身体がどうなっているのか分からない。
右腕は石となり、左眼は光を失い、今は吐く息さえもが黒い煤のように空中に漂っている。命を削りすぎて、俺の存在そのものが、現実という絵巻から剥がれ落ちようとしていた。
対する羽柴秀吉。
情報の孤島に追い詰められ、配下からも忘れ去られた哀れな男は、今や道端の野犬に怯えるほどに衰弱していた。
だが、俺は情けをかけない。こいつを生かしておけば、天の理が再び 秀吉を天下人にする という筋書きに無理やり修正をかけてくるからだ。
俺は最後の一筆を、震える口に加えた。
『羽柴秀吉という名は、最初からこの世に存在せず。彼が積み上げた功績、綴った言葉、そのすべての足跡を「歴史の塵」として抹消せよ』
書いた瞬間――耳を切り裂くような高音が脳内に響き渡った。
『天啓:不整合なる個体の抹殺を開始』
『宣告:「豊臣」という因果を、根源より虚無へ帰します』
「ぐっ……あああああ!」
俺の右足が、パキリと乾いた音を立てて砕け散った。
代償はついに、歩くことさえ奪った。
だが、代わりに見えたのだ。
目の前にいた秀吉の身体が、まるで古い書物が風化したかのように、端からパラパラと 文字 の欠片となって崩れていく様を。
「……おれ、は……だれ、だ……?」
秀吉が最後に発したその言葉すら、空中で霧散した。
数秒後、そこには衣だけが虚しく残り、羽柴秀吉という男はこの世のどこにもいなくなった。兵たちの記憶からも、記録からも、彼が生きた証拠はすべて消え去ったのだ。
俺は崩れ落ちる身体を玉座に預け、ひび割れた空を睨みつけた。
「……消したぞ。お前たちが書いた『正解』を、俺が消してやったんだ」
空の向こうで、天の理が激しく怒っているのを感じる。
世界が激しく揺れ、色彩が反転する。
第一部、完。
だが、俺と 天 との戦いは、まだ始まったばかりだ。
第一部、完結です。
本来の歴史なら天下人となるはずの秀吉を、存在ごと消し去るという義昭の決断。その代償は、彼の右足を奪うという残酷な形で現れました。
ここから先は、もはや誰も知らない未知の歴史。第二部では、義昭の『嘘』が日本を越え、さらに広大な因果へと波及していきます。




