第9話
約二時間の運転を経て到着したその箱根の旅館は、思い付きで泊まるにはあまりにも豪華だった。大正ロマンを彷彿とさせる白い壁に黒い木目調の装飾、暖色の照明。樋口の車が去っていく音を背中で聞きながら、和を感じさせる旅館の佇まいに気圧される。
自動ドアを抜けた辺りで、『そういえば未成年者だけで宿泊はできるのだろうか』と少し不安になった青葉だったが、チェックインを終えて間もなくやってきた支配人と琥珀が和やかに談笑している姿を見て、何もかもが杞憂だったことを理解した。
「前にお会いしたことがあってね」
そう言って琥珀は笑ったが、そんなことが普通の女子高校生にあってたまるか。
それから二人は三階の角の方にある立派な部屋へと辿り着いた。
カードキーを用いて中に入ると、そこには立派な和室が広がっていた。
全面畳み貼りで部屋は二つ。合計で十数畳はあるだろう。広縁も付いていて、奥の部屋からは半露天の岩風呂までアクセスできる。凄まじい豪華さだった。
「こんな部屋、生まれて初めて泊まります……!」
青葉は興奮のままに雇い主も差し置いて部屋に上がり、部屋中を見回す。
まるで散歩に行くときの犬のようなテンションに、琥珀は得意げに笑った。
「私に感謝して有難ーく泊まりなさい」
「ふへへっ、肩揉みますよ、社長!」
「じゃあ風呂上がりに頼もうかしら――着替え、持ってきてないでしょ? ランドリーサービスがあるから、早めにお風呂に入って館内着に着替えちゃいましょ」
青葉の媚び諂うような笑みにニヤリと返した琥珀は、奥の部屋から続く半露天風呂を指す。
広々とした浴室だ。一部壁の上部がガラス張りになって、そこから山景色が堪能できる作りになっている。普通に生活していたら、本当に、数年に一度の贅沢ではないだろうか。
早速入ろうと青葉がネクタイに指を掛けると、琥珀は和室の方でテレビを点ける。
「先に入っておいで、私はこっちで時間潰してるから」
一緒に入る訳にはいかないから。その目がそう語っていた。
青葉は動きを止めて琥珀の微笑をマジマジと見詰めると、苦笑して和室に戻る。
「流石に雇い主を差し置いて先には入れないですよ。お先にどうぞ!」
「別に気にしないって。人を待たせてるとゆっくり入れないからってだけ」
「ところがどっこい、それは私もなんですよ。全然、気にしなくていいので!」
「気にしなくていいって言われて気にしないでいられる人は多くないわよ」
問答を二往復。三歩進んで三歩下がった青葉は、腕を組んで唸り声を上げる。
雇用契約に相談に。琥珀には色々と世話になっているので、せめてそれを態度で返したい。ゆっくり入れないという彼女の言い分は分かるがどうにも気が引ける。
少し考えた後、青葉は時計を一瞥して妙案を閃いたとばかりの不敵な笑顔を見せる。
「じゃあ、一緒に入っちゃいますか? 二十二時まで恋人なので!」
すると琥珀は面食らった顔で時計を見て、「あのね」と吹き出しながらお説教。
「契約書は読んだでしょ? 偽装恋人の業務範囲外よ。それに性的サービスに該当する」
本当に真面目な人だが、そんな人だから信頼できるのだ。
青葉はおどけた表情でしばし虚空を眺めた後、少し眉を上げて笑いかける。
「じゃあ、お友達として裸の付き合いをしますか?」
今度は琥珀が呆れた顔で目を逸らすと、嘆息の後に不敵な笑みを向けた。
「私がアンタを性的な目で見ないと思ってるんだ?」
なるほど、そういう考え方もあるのか――青葉は僅かに表情を変える程度の驚きを見せた後、軽く肩を竦めるようにして首を左右に振った。
「いえ、それはどちらでもよくて」
押し黙って目を丸くする琥珀に、青葉は自分に許されるラインを見極めながら話す。
「琥珀さんが嫌だとか遠慮をしたいだとか、そう思うならその意思を尊重するんですけど。そうであることが誠実だと思っているだけなら、私と二人の時はあまり気にしないでほしいなって思いまして。貴女が誠実で優しい人だと知っているので、不快感はありませんから」
女性の同性愛者だろうと男性の異性愛者だろうと、女性に好意を抱くという点は一緒。仮に彼女が男性であったと仮定して、それでも女性が性愛の対象であるからとハッキリ線を引くような人物だとすれば、同じように青葉は思えただろう。父親と同じだ。
とはいえ性的指向の対象に手を出せない状態で入浴など心苦しいかもしれないから、嫌なら無理強いはしない。しかし、裸の付き合いには裸の付き合いの楽しさがある。
能天気にのほほんと笑う青葉に琥珀は呆れた笑みを一つ浮かべ、首を傾げる。
「一緒に入りたいの?」
「はい! 背中を流させてください。あと『どっち先入る論争』が面倒くさいです!」
空中で爪を研ぐ猫のような真似をすると、琥珀は溜息の後に薄く笑う。
そして徐に立ち上がると、それを見て頬を綻ばす青葉に指を立てた。
「――分かった、一緒に入る。ただ一つ約束して」
琥珀は立てた指をネクタイの隙間に引っ掛けながら、色々な意味で被害者が出ないよう険しい顔で、もう片方の指を青葉の鼻先に突き付ける。
「もっと他人に警戒心を持つこと。それと性的に見られても不快感がないなんて簡単に言わないこと。下手な相手に言ったら勘違いをさせるからね」
ラインを見誤って過ちを起こしてしまうという話だろうか。確かにその恐れはあるが、そうならない相手を選んでいるつもりだ。青葉は真面目な表情で力強く頷いた。
「もちろんです!」
本当に分かってるのかコイツは――琥珀の半眼が如実にその胸中を物語っていた。
広々とした浴室には大理石の床が敷き詰められ、一か所、岩を積み重ねた浴槽が。外周には腰から下くらいの高さまで同じように大理石の壁タイルが貼り付けられ、一部にシャワー。
ヒノキの椅子に座って先に身体を洗おうとした琥珀の後ろで、青葉は膝を突いた。
「お背中、流しますよ。社長!」
「はいはい、ありがと。しっかり泡立ててね」
そう言いながら膝に手を置いた琥珀は、正面の鏡にハッキリと映る自らの裸体に気付くと、さり気なく脚の間に手を置いて、その二の腕を掴むような形で胸元を隠す。ツンと唇を尖らせて何も気にしていないような表情で目を泳がせると――背後で楽しげにわしゃわしゃと、アメニティのスポンジに泡を立てる青葉。それを見て口元を緩め、隠す気のない胸が目に入って目を逸らし、そしてふと、引っ張られるようにして視界の端に捉えた違和感を見た。
「…………その、訊いていいのかしら」
ふと、琥珀が呟くと青葉は首を傾げて鏡越しに琥珀を見る。
視線を辿ると、琥珀が見ていたのは青葉の右脚だった。
単に琥珀が脚フェチという話ではない。普段、厚手のタイツを穿きっぱなしの青葉の脚は、付けねからふくらはぎ辺りにかけて、長い手術痕が広がっていた。形も少し歪だ。明らかに凄絶な怪我の痕跡が見えるそれに琥珀が声を失っていると、青葉はあっけらかんと笑う。
「あ、これですか? そう、実は私中学の頃に事故に遭っちゃって! あはは!」
猶更絶句する琥珀を見て、青葉はテンションを間違えたとトーンを作り直して咳払い。
少し過去を懐かしむような調子で虚空を見ながら、記憶を遡って語る。
「下校中にトラックに巻き込まれまして。下手な体勢だったんで片足がもうぐっちゃぐちゃ。お陰様で走れない身体になっちゃいまして。ほら、私ずっと歩いてるじゃないですか。ちょっと見栄えも悪いんで夏でもタイツ穿くようにしてるんですよね」
青葉は充分に泡立てたスポンジで琥珀の背中を洗い始める。わしゃわしゃと本来は発生するはずの摩擦が、ボディソープの泡で滑っていく感覚が何とも心地よい。
琥珀は複雑な表情で前を向くと、悔恨の念に染まった声で詫びた。
「ごめん、迂闊に触れるべきじゃなかった」
「いえいえ、そんな。友達には知っておいてほしいですしね――それに、そうだ。そう、この苦しい過去を教えるために一緒にお風呂へ入ろうとしたのです」
「嘘おっしゃいよ。『そうだ』って言っちゃってんのよ」
苦笑する琥珀に青葉は「いえいえホントですよ」と言い張り、それが露骨に、琥珀に気にさせないための振る舞いだったから、琥珀も少し態度を改めた。
「もう大丈夫なの?」
「はい。走るのは色々やめといた方がいいって言われてるんで、体育とかは見学ですけど。でも座学で頑張ってますし先生方も補習とか準備してくれますから、成績も特には」
「へー、日常生活は? あんまり長距離歩くのとかは大変?」
「休み休みなら大丈夫ですよ。それに私、バイクの免許取りましたから!」
背中を洗う手を止め、背中と鏡越しにブイサインをする青葉。あんまり意外な話だったので目を丸くした後、思わず吹き出しながら「マジ?」と琥珀は訊いてしまう。
「マジですよ。事故った相手からの慰謝料でバイクも買いましたし」
「おー!」
「まあそれも借金を返せなかったら没収されるかもしれないんですけどね。へへへ」
「債務整理で没収されるのは債務者と連帯保証人本人の財産だけのはずよ」
肩を落とす青葉を琥珀は苦笑しながら励ました。
「それなら有難いですが……しかしこうして軽く話せるのも勤め先があるからに他ならず。本当に、社長にはなんと御礼していいか……」
青葉はしみじみと琥珀への万感の念を噛み締めながら背中を洗う手に力を込める。
琥珀は「ん」と背筋を伸ばしながらそれを受け止め、溜息を返す。
「別にいいから、その畏まった態度やめてよ」
幾らか肩の力が抜けてきた琥珀は、首を捻って流し目に直接青葉の目を見た。
「借金の方はどう? 話は順調に進んでる?」
青葉は少し返答を躊躇ったが、しかし琥珀には全てを明かしておくべきだろうと微笑。
「一旦弁護士を介して話を進めてはいますけど、期日は伸ばせても十年みたいな」
「十年……まあ、そうよね。そこから先も返ってくる目処がないなら、さっさと債務整理してもらった方が銀行も手間がないし……返すにしても、月二十五万かぁ」
「お母さんは嫌がってますけど、私がバイトとか入るようにすれば絶対に無理って訳じゃありませんし。十年ですからね。頑張ればあっという間ですよ!」
青葉は琥珀を心配させまいと、くしゃりとスポンジを握り締めて能天気な笑顔を繕い、琥珀はそんな空元気を見て眉尻を下げる。そして暫しの間虚空を見詰めると、
「……ま、アンタを使えそうな仕事があったらコキ使ってやるから」
やれやれ仕方がないと言いたげに指を一本立てるので、思わず青葉はニヤニヤと笑ってしまう。「何?」と琥珀が眉を顰めたので、青葉は背中を流すシャワーを手に取って言った。
「いえ。やっぱり琥珀さんは心配になるくらい優しい人だなって」
そう笑って背中の泡を流す間、琥珀は悔しそうに唇を尖らせて黙っていた。
そうしている内に琥珀の背中を流し終え、次は二人それぞれ自分の身体を洗おうか。無言でそうなる空気だったところ、不意に琥珀が立ち上がると青葉の背中でスポンジを泡立て始める。その意図を察した青葉は恐縮で背筋を伸ばしつつ、嬉しくて少し口元を緩めた。
「アンタ曰く――『いい加減どうにかしないといけないくらい情に弱い』からね」
琥珀は片手で胸を隠し、もう片方の手で不器用に青葉の背中を洗いながら先ほどの話にニヤリと言い返す。鏡越しに目が合った青葉は料亭での過ぎた態度を思い出す少し赤面した。
「あ、アレは話の流れで! 落としどころが必要だと思って言っただけで!」
手持ち無沙汰な両手でペタペタと膝を叩いて抗議の声を上げれば、ふっと笑った琥珀が目を細めて「ん」と胸を押さえていた手で頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。
「分かってる。あの時は助かったわ、ありがとね」
誤解がないなら重畳だと青葉は尻尾を振るように、目を細めて笑みを返した。




