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第8話

 そうして会食は無事にボロを出すことなく終わり、青葉と琥珀は店前で社長室コンビと別れる。そしてずっと待機していた送迎車に乗り込むと、二人で大きな溜息を吐いた。


「だはー! 息が詰まる! …………あー、お待たせ。本当に待たせたわね」


 運転席でスマホを弄っていた秘書――高い身長にパンツスタイルのスーツ、それから長髪をポニーテールに束ねた女性は、それを徐に仕舞って楽しそうに目を細めた。


「いえいえ、お疲れのご様子で。さぞ大変だったことでしょう」

「本当にね。いい歳した管理職が大人げない手を使うと厄介だわ――すっかり青葉に助けられちゃったわね」


 マイバッハのラグジュアリーな後部座席にすっぽりと身体を包まれながら琥珀が隣の青葉を見て、視線を受けた青葉は照れ笑いと共に頭を掻いて返す。


「いえ、余計な口を出してしまわなかったかと戦々恐々していました」

「んーん、助けられた。ありがとね」


 口数の少なさは問答をする気がないという証左か。受け取っておけとばかりにお礼を伝えられると拒むのも憚られたので「どういたしまして」と青葉は恐れ多くも笑った。


「意外と演技派なのね、貴女。女優やってたらオスカー賞取ってたかもよ?」

「そういう琥珀さんこそ。迫真の演技でしたよ」

「あらそう? いやー、社長より女優の方が向いてたかもね。顔面国宝だし」


 ヘラヘラと笑いながら窓ガラスに自分の顔を反射させた琥珀は、「なんてね」と一言上機嫌に零した後、背もたれに体を預けながら横目に青葉を見た。


「今日は助かったわ、家まで送ってく。住所は?」

「あ、近くの駅まで送っていただければ! 残りは自分で歩くので!」

「私に住所を教えるのが不安ですか?」


 秘書が運転席でニヤリと軽口を一つまみ。「違います!」と青葉は半眼でツッコんだ。


「遠慮はなさらなくて結構ですよ。お嬢様はこの流れで急に『静岡まで運んで』とか言い出す方なので、それに比べれば都内なんてどこでも大した距離ではありません」

「そ、そんなこと言うんですか?」


 青葉が思わず戦慄の眼差しを送れば、琥珀はおどけた顔で肩を竦めた。


「命令はしてないわ、可否を聞いて可が出たら頼んでるだけよ」

「断ったらタクシーで行こうとするじゃないですか。お金の無駄ですよ」

「私のお金だもの、好きにさせてよ――あ、そうだ。どうせ明日オフだし、今日は箱根にでも連れていってもらおうかしら。貸切風呂がある旅館に泊まって、明日特急で帰るわ」


「……ね?」と秘書が困り顔で笑い、青葉は何だか楽しくて少し声を出してしまう。


 するとそんな青葉を横目に見ていた琥珀は「ん」と何か閃いたような声を上げ、


「そうだ、青葉も一緒に泊まる? 明日、何か予定ある?」


 青葉は虚空を見て自分のスケジュールを確かめた後、指先でバッテンを作る。


「予定はありませんけど……生憎と持ち合わせが」


 すると琥珀は窓枠に頬杖を突いて呆れた苦笑。


「私が出すに決まってんでしょ」

「人のお金で旅行を楽しめるタイプではなくて」

「そ――でも、今日は流石に助けられ過ぎたわ。当初定めた仕事以上の成果を出したんだもの、ボーナスはあって然るべきだと思う。一人で旅行するのも退屈だからさ、労働基準法で年少者に認められてる二十二時まで、恋人代行を続けてよ。これでも嫌だ?」


 琥珀は青葉の自由意思を尊重してくれるが、嫌だ、と、遠慮は区別したいのだろう。


 遠慮しない理由を提示されると、青葉は途端に激しく心が揺れる。


 青葉は受取れないという言葉を何度も何度も吐き出そうとするが、しかしその度に重苦しく三千万の債務がのしかかってくる。現在時刻は十八時。時給一万円なので追加四万円。


 それに加えて貸切風呂まで楽しめるとなれば、断るのも難しい。


「お供いたします」


 秘書は運転席で口笛を一つ。琥珀は満足そうに指を鳴らし、ついでに秘書を見た。


「よしきた。樋口も泊まる? 出すけど」

「私は生憎、しまじろうをリアタイする使命があるので」






 琥珀たちが薄暮の都心で車を箱根へと走らせる頃。


 同時刻、西浦サイバーセキュリティの社用車が会社へと戻っていた。副室長の堂本は疲弊の見える顔でハンドルを握り、助手席で増永が額を押さえている。


「しかしあの二人、凄まじい圧だったな。本当に女子高校生か?」

「殺されるかと思いました。……修羅場でしたね」


 堂本は苦笑気味にそれに賛同し、自分たちのせいで破局にな理想だった二人を増永は罪悪感と共に思い出す。社長夫人が娘を社交の場へと派遣させている中、明らかにそれを嫌がっている娘が突如として連れてきた恋人。本物か否かは分からないが、


「少なくとも絆はあったんだろうな」


 ぽつりと増永は申し訳なさそうに呟き、それから気持ちを切り替えるように溜息を吐く。


「ああそうだ、堂本。戻ったら興信所――手配しておいてくれ」


 その言葉に堂本は顔を歪めてハンドルを指で叩く。悪態を呑み込んで嘆息を返した。


「本当にやるんですか?」


 増永としても気持ちは同じだが、寧ろ気が引けるからこそ自分たちがやるべきだ。


「仕方がないだろう、奥様のご命令だ。母親が、娘の恋人を調べる。世間的に見れば他にもやっている人はいる。それに……俺らがやらなくても奥様がやるだろう」

「だったら我々がやった方がまだマシという話ですか」

「そういうことだ。あの人の手口は何というか……情がない」






「……二部屋空いてる旅館が見つからない」


 箱根へと向かう道中、琥珀がスマホを睨みながらもどかしそうに唸った。「引き返しますか?」という秘書の樋口の尋ねに、琥珀は「一旦そのまま」と速やかに回答。


 青葉は肩を縮こまらせながら琥珀を盗み見た。


「あの、全然……私のことはお気になさらず。秘書さんと一緒に帰っても構いませんので」


 すると青葉のそんな遠慮を聞いた琥珀は、渋面を更に渋くして何やら物言いたげにする。そんな折、ハンドルを握っていた樋口がバックミラー越しに琥珀を見た。


「大体旅館ってツインルームなんじゃないですか?」

「そうだけど」

「ならそれでいいじゃないですか」

「私も、ベッドが二つあるなら特に気にしません」


 樋口の尋ねに琥珀が認めるので、青葉も肩の力を抜いて同調する。


 シングルルーム一部屋しか空いていないのかと思ったが、ツインルームなら特に気にすることもないだろう。そう思った直後、ハッと目を開いて「琥珀さんが大丈夫ならですが!」と付け加える。すると案の定、大丈夫ではないらしく琥珀は渋面で樋口を睨んだ。


「アンタは知ってるでしょ。私の」

「はぇ? ……あー…………あー、なるほど。なるほど」


 樋口は何かを納得したように片手で口を押さえると、以降は余計なことを言わないように口を閉ざす。潔癖症か何かだろうか。それとも自分が何か嫌われるようなことをしたか、寝る時は一人じゃないと落ち着かないだろうか――そんなことを青葉が考えていると、


「まあ、いい機会だし貴女にも話しておくんだけど」


 琥珀はスマホを眺めたまま青葉にそう語り掛けた。「はい」と青葉は目を向ける。


 徐々に暗く染まっていく夜。都心は月も星も頼りない。代わりにハッキリと道を照らす街灯の明かりが断続的に車内に入り込んで琥珀の瞳を照らし、それが少し不安の瞼に遮られた。


「私、同性愛者(レズビアン)だから。流石に同じ部屋はマズい」


 しばらく車内に沈黙が漂った。五秒、十秒か。


 琥珀は不安そうな目をチラリと青葉に投げる。


 青葉は数秒、驚き呆けていた。しかし、その事実を以て彼女の偽装恋人に自分が選ばれた理由が分かったような気がして、驚きも程々に思考を巡らせていた。そして、カミングアウトしてくれた琥珀に対してどのような言葉を返すべきかを悩んでいた。


 やがて我に返った青葉は、後頭部を撫でるように掻いて――おどけた笑みを見せる。


「別に……マズくはないのでは?」

「……どうして?」


 青葉の第一声に、琥珀は眉を顰めてその真意を問う。


 確かに琥珀の言う通り、同じ部屋で寝泊まりする相手が性愛の対象であるか否かは大きな問題だ。青葉としてもそこは大事だ。蔑ろにするつもりはない。しかし同時に、相手の性的指向だけで同じ部屋に泊まれるか否かは決まらないという点も忘れてはならない。


 自分が性愛の対象でない相手でも、苦手な相手なら嫌だ。


 逆に、自分に性的な感情を抱いている相手でも、好意的な相手なら特に構わない。


 青葉はニヤリと笑って、どこか挑発的な流し目で琥珀を見た。


「だってほら――恋人ですから」


 その理屈は全てそこに集約される。自分の債務に対して協力してくれた相手で、その協力の内容は偽装とはいえ交際で。もう既にお互いの心のある程度は知り合っていて。


 西ヶ浦琥珀は嫌がっている相手に無理やり手を出す恋人ではないと知っている。


 青葉の真剣に考えていないようにも取れる回答に、琥珀は呆れた目で唖然と口を開けた。運転席の方からクフッと我慢が利かずに漏れ出た呼気の音が聞こえた。


 琥珀は目を瞑って頭をわしゃわしゃと描いた後、頬杖を突いて青葉を睨む。


「私はアンタが心配になってきた。そんな防御が緩いといつか手ェ出されるわよ?」

「相手は選びますよ。ボクシング選手だって妻の前ではガードを下ろすでしょう?」


 青葉がガードを下ろしたボクシング選手の真似をすると、琥珀は微妙な表情で押し黙り、そして悔しそうに唇を尖らせる。反論がなかったということはこちらの勝ちになるわけだが構わないのだろうか。


「信じてます。琥珀さんは私が嫌がることをする人じゃありません」


 青葉の無邪気な笑顔を黙って受け止めた琥珀は、それからやれやれと弱った笑みを返した。


「あっそ。じゃあ知らないからね、何か間違いがあっても」

「首と身体を洗ってお待ちしてます」


 そう言って悪戯っぽく半眼で笑う青葉。琥珀は思わず苦笑しながら空き室を一つ取る。


 そんなことをする人でないと信じて疑わない女のふてぶてしい笑顔が、琥珀には憎らしくも愛らしくて仕方がなかった。「この女は」と小さくこぼした琥珀の呟きは、上機嫌なエンジン音に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。

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