第6話
高校の最寄り駅前ロータリーで待つこと間もなく、琥珀の秘書の送迎車がやってきた。
中は今まで青葉が乗ってきた車とは別物だとハッキリ主張するように広く、椅子の作りすら違った。まるで全身を包み込むような乗り心地にうとうとしていると、車は安全運転で目的の食事処に到着する。夕飯には少し早過ぎるが十六時半の到着だった。
到着したのは和の香る日本料亭だった。漆黒の瓦屋根の下に木造の柱。そして四季折々の庭園が見えるガラス壁の中には誰もいない部屋が美しく暖色の照明に照らされている。
車を降りた青葉が『あわわわ』と無言で気圧されていると、財布を確かめる庶民的感覚も見せずに琥珀は秘書に「一緒に食べる?」と笑いかけ、「遠慮いたします」と苦笑を返されていた。
「もう着いてるみたいだから、行こうか」
そう言って琥珀は青葉を手で促し――直後、ぴたりと動きを止めて自身の手を見た。
それから何層かの逡巡を抜けた後、「手、繋ぐ?」とトーンの違う声で青葉を誘う。そこで青葉も、もうここからは誰の目にも明らかに恋人でなければならないのだと思い直す。
手を繋ぐという行為の経験は幼少にそれなりにはあるが、恋愛関係という前提に基づくものは初めてだ。青葉は躊躇して手を差し伸べ損ね、それを見た琥珀は無理強いをしないように微笑んで手を引っ込めようとする。それが何だか嫌だったから、青葉はムキになった。
引っ込められそうになった琥珀の手を引き止めるように、手を繋ぐ。
小さくて柔らかくて、けれども頑張り屋の手だった。青葉はひっそりと心臓の音が強くなるのを自覚しながら、「繋ぎましょう」と一言。琥珀はそれを見詰めた後、「うん」と頷く。
二人で石畳を歩いて入り口へと向かいながら、道中、青葉は隣の琥珀を盗み見る。
身長は見下せるくらいには一回り小さくて、けれども自分よりもずっとしっかり者。頼ってほしいなという庇護欲と、困った時に甘えたくなる包容力。青葉は何故か心臓の音が強くなっていくのを自覚し、どうにかそれを抑え込むように目を瞑って呼吸を深めた。
何事も初めての体験はドキドキするものだ。
料亭に入ると、そこは普段出入りする飲食店とは明らかに趣向の異なる店内だった。こちらが恐縮してしまうような洗練された接客を以て二人は部屋へと案内される。
そして二人が部屋に入ると、そこは広々とした和室だった。
入り口の左右には今回二人を招いたホストと思しき中年男性が二人立っていた。一人は小太りで、もう一人は対照的に痩せぎす。人当たりのいい笑みを浮かべる二人は、琥珀から到着の連絡を受けて身構えていたのだろう。来訪に驚くこともなく深く頭を下げた。
「本日はお忙しいところご足労いただきありがとうございます。琥珀様、東条様」
「私、西浦サイバーセキュリティ社長室長の増永と申します」
「同じく副室長の堂本でございます」
小太りの方が室長の増永で、痩せぎすの方が堂本だそう。どちらも社長室なる部署のナンバーワンとツーだそうで、こんな一介の小娘に時間を割くなど相当暇なのだろうか。
ひっそりと失礼なことを考えて呆けていると、琥珀が二人を青葉へ示す。
「父さんを直接的にフォローする部署の方々。指揮は母さんも執ってる」
青葉はその一言で全てを察した。つまり琥珀をいいように利用しようとしている女性に、いいように利用されているということだ。本質的に敵か味方は分からないが、少なくとも敵役。
青葉の表情が仮面のような笑みに作り替わったのを見て、琥珀は口元を綻ばせた。
「私の自己紹介は今さら不要でしょう。こちらが私の交際相手の東条です」
「御社の社長様のご令嬢とお付き合いさせていただいております。東条青葉です」
そう言って青葉が慇懃に頭を垂れると――視線が切れる直前、増永と堂本の見定めるような容赦ない視線が見えた。ああ、なるほど。頭を下げながら青葉は納得する。
恐らく琥珀の母親は、こちらの関係を偽装交際だと看破している。
そして自らが顎で使える社員にその証拠を掴んで来いと指示したのだろう。
会社の利益のために。実の娘が断りにくいことをいいことに。臓腑が冷えていく。肝が据わっていく。青葉は委縮を静かな溜息で捨て、『上等だよ』と言わんばかりの笑みを浮かべた。
騙し合いも化かし合いも得意ではないが、肝の据わり具合は負けていないつもりだ。
彼らの判断ミスが多くの社員の人生を狂わせるように、こっちは三千万の債務で人生が狂う直前なのだ。やってやる。やりきってやる。
そして顔を上げ、人当たりのいい笑みを浮かべて、
「すみません、お腹が空いてしまって。ご飯をいただきたく」
と、歳相応の女子高校生らしいことを一つ言ってみると、二人も少し呆気にとられた様子。しかしすぐに相好を崩すと、二人で上座を示しながら下座の方に陣取った。
「もちろんでございます。そう畏まった席でもございませんので、どうぞこちらへ」
促されるままに四人が着席をすると、どうやら既に注文されていたらしいコース料理が到着し始める。「足りなければお気軽にお申し付けください」と堂本が会釈するので「遠慮なく」と青葉も遠慮する気など毛頭なく頷いて応えた。
それから間もなく料理がやってくる。何やら菊のように盛り付けられた白身魚で、「おお」と青葉が気圧されていると、配膳を務めてくれた仲居が楽しそうに答えてくれる。
「こちらはトラフグの薄造り、唐揚げ――それとこちらは松茸の土瓶蒸し、松茸ご飯でございます。ごゆっくりお楽しみくださいませ」
「いただきます。ありがとうございます」
でへへと口元を綻ばせて手を合わせる青葉に、仲居もニコニコと退席していった。
さて「いただきます」と手を合わせた青葉に他三名が笑顔で食事を促す。当初の目的も忘れるような豪華な料理を恐る恐る食べてみると、明らかに高級と分かる味に唸る。今自分は紛れもなく情報を食べているという自覚はあったが、それでも確かに美味しい。
そんな青葉をよそに、狸と狐の化かし合いがひっそりと幕を開ける。
「本日――我々がお二人をご招待させていただいたのは、琥珀様のお母さまからのご用命です」
増永の言葉に『でしょうね』という言葉を二人同時に呑み込んで、琥珀が答える。
「母はなんと?」
増永は拳を口元に置いて小さく喉を鳴らした後、芝居がかった調子で答えた。
「『愛娘の初めての恋人です。お相手にご失礼がないかご挨拶も兼ねて』とのことです」
琥珀は呆れたように頬を歪めて悪態を構えた後、すぐ微笑を取り戻して頷いた。
「なるほど、それはそれは。母の我儘にお付き合いいただきありがとうございます」
実母への忠誠心を試すような琥珀の言葉に、堂本の眉が微かに動く。
増永は微動だにしない。「とんでもない」と微笑んで会釈した後、話題を変える。
「琥珀様は確か『オータム・ホテルズ』の代表取締役を務めていらっしゃるとか。お話しできる範囲で結構ですが、いかがです? 経営の方は」
『お前は軽口を叩ける状況なのか』と問うような増永の言葉に、琥珀は毅然と返した。
「ご心配なく。就任以降、営業利益率は8%改善して現在16%と回復傾向、売り上げもROEも大きく右肩上がりですので」
『ろえ?』と青葉が黙って首を傾げている目の前で、増永と堂本は温和な表情を引き締め、戦慄の眼差しを琥珀に送っている。琥珀が淡々としているのでそれがどう評価されるものなのかは青葉には分からなかったが――二人が少し居住まいを正す姿からは察するものがある。
「僅か一年でその業績……いやはや、お父様を重ねてしまいます」
増永は感服の調子で料理に手を付け、琥珀や堂本もそれに続く。
『あ、これまだ食べちゃ駄目だった?』と狼狽えた青葉は一度食器を置いて、三人と合わせるように食器を持ち直すと隅の方でひっそりと食事を再開する。
増永は薄造りに箸を伸ばしながら、ちらり、琥珀の顔を盗み見て呟く。
「道理でお父様もお財布から会社の買収などをさせる訳です」
そこは琥珀が突かれたくない急所だ。少し箸の動きが淀んだのを見て、堂本も続く。
「奥様もそちらを気にしていらっしゃるご様子で――会社を大きくするため、粉骨砕身の覚悟で御兄姉やお父様も頑張られている中、やはり琥珀様にご期待をする部分もあるのかと」
琥珀は少し箸を迷わせた後、しかしすぐに平静を取り戻すと微笑んで応じた。
「それはつまり、私が会社の利害関係者と婚姻することを願っているという話ですか?」
すると二人は弾かれたように顔を上げ、「いえ」「とんでもない!」と笑う。笑っているが、それは口元だけだ。目元は真剣。脅すでもなく馬鹿にするでもなく、この時代に安易にそういう話をすればどういう結末を辿るか、分からない訳でもないという話だ。
しかし、嫌な大人は逃げ道を残しながら自分の進みたい方向に進めるものだ。
増永は申し訳なさそうに目を伏せながらも、飄々とした声色でこう続ける。
「いやしかし、今時、考えは古いのかもしれませんが……夫婦は財布を共にするとはよく言ったもので。会社のお金でないにせよ、社長が琥珀様のペーパーカンパニーに対して支払った貸付の額は相当なもの。奥様としてもその額には少々思うところがあったのかもしれません」
「そんな娘が恋人を連れてきたとあっては、親としては気になるものでしょう」
琥珀は二人の言葉に辟易とした溜息を返す。
なるほど、のらりくらりと躱してくる。青葉も聞いていて腹が立ってきた。
しかしながら何を言ってもこの二人には言い訳があることだろう。そういう、上の方まで上り詰めることができる人間特有の準備の良さがある。安全地帯からジャブを打つような。




