第5話
そうして迎えた当日、金曜日の放課後。
青葉が昇降口で靴を履き替えていると、丁度帰りだった小夜と鉢合わせた。
「青葉、帰り?」
「あ。うん、帰り――というかバイトだね」
青葉が言外に一緒に帰れない旨を仄めかすと、小夜は特に気にした素振りも見せず「そっか」と軽く頷く。「例の社長だっけ?」と確かめる小夜には、昨日、琥珀に許可を取った上で最低限の事情の説明をした。借金について解決したとは言えないが、不安定ではあるものの高時給の仕事を見つけたと。
「そ。これからお高い店でお食事に行ってくるのです!」
少し楽しみな青葉が笑顔を咲かせれば、「ふうん」と小夜は気のない軽い笑みを返す。
そんなやり取りをしていると、噂をすれば影が差す。少し遅れて琥珀がやって来た。
「お待たせ、青葉。行こうか――そちらが例の?」
琥珀はそこで青葉の隣にいる小夜に気付く。
当然、守秘義務を違反するとなれば相応の経緯を明かす必要はあるので、何かあれば頼る友人として琥珀にも小夜のことは軽く話した。お互いに存在だけは認知して、顔を合わせるのは初だろう。「です!」と認めると、パチッと二人の視線が交錯する。
「初めまして、噂の西ヶ浦琥珀です。青葉、借りるわね」
「幼馴染の小夜です。どうぞどうぞ、ご自由に。……名前呼びなんだね」
「うん? まあ、色々と事情があってね」
小夜は口元の軽薄そうな笑みを絶やさずに僅かばかり首を傾げ、琥珀は妙なところを気にするなと言いたげに不思議そうな疑問符を挟みつつ、そう答えた。
「じゃ! 行ってくるね、小夜。また明日」
「うん、行ってらっしゃい」
青葉が手を振れば、小夜は笑みを崩さずに軽い調子で手を振り返す。そして二人が背を向けてしばらく歩いた後、振った手を徐に己の口へ添え、退屈そうにしばらくその背を眺めた。
その目に映る先で、青葉と琥珀は横に並んで校門を抜け、そのまま最寄り駅へ歩く。
梅雨入りを迎えたはずなのに今日は恨めしいくらいの快晴で、傾き始めた太陽は眩しく鬱陶しい。ジメッと湿度を帯びた熱気が夏服の袖から覗く腕にまとわりつく。呼吸が浅い。
普段なら、いつもより少し不快な日常。しかし今日の青葉の靴は少し弾んでいた。
「お昼ご飯は抜いた?」
隣を歩く琥珀がいやらしい笑みで尻目にこちらを見て、青葉はニヤリと拳を握る。
「抜いてきました!」
「偉い! 少しでも高いものを沢山注文して少しでも嫌がらせしなさい!」
――これから青葉は琥珀に連れられ、彼女の父親が経営する会社の偉い人と会食をすることになる。どうやら向こうが青葉に会いたいと言っているらしい。事情は分からないが、契約を結んだ以上、青葉は恋人のフリをするだけで、そこにタダ飯も付いてくるなら最高だ。
「しかし、嫌がらせしたいということは……仲良くはないんですね?」
心配と共に質問を返せば、「ん」と琥珀は参ったような笑みで言葉を濁した。
「まあ別に仲が悪い訳じゃないけど、ちょっとした意趣返しをね」
「やられたらやり返す」
「それは倍返しね」
「命中100威力102」
「それはおんがえし」
「バッカモーン!」
「それはちゃぶ台返し」
「何か嫌なことをされたんですか?」
「急に真面目になるな」
ジトッと苦笑交じりに半眼を突き刺しながら、琥珀は腰に手を置いて唸る。
別に話したくないことなら話さなくても構わないのだが、事情を知っておいた方が協力できることは多いだろう。だから青葉は急かすこともなくジッと見詰め続け、やがて根負けしたように頭を掻いた琥珀は、「長くなってもいい?」と一言。
「あんまり長いのはちょっと……」
「こういう時って黙って頷くもんでしょうが」
ぺこっと青葉の額にチョップを打った後、琥珀は辟易とした顔で話し始めた。
「手短に話すと、高校入った辺りから縁談もどきがひっきりなしに来てんのよ」
それを聞いた青葉は『へー』と相槌を打とうとして、少し遅れて言葉の意味を理解し、首を一瞬で錆び付かせる。吐き出そうとした言葉を失って硬直し、数秒後。
「十五歳から⁉」
と、近隣に迷惑になりそうな声量で叫び返してしまった。
縁談ということはつまり、お見合いだ。確かに大きな会社の社長令嬢ということはそういう話と無縁とも限らないが、いやしかし年齢を考えなさいよと青葉は言いたくなる。驚く青葉に耳を塞いでいた琥珀は、やれやれと言いたそうに話を続ける。
「信じられないでしょ? まあ、もどきって言った通り、世間的には全然縁談じゃないんだけどね。社長夫人が娘を連れ回して、関係者に紹介するってだけ。別に参加に強制力もないし、結婚を前提にお付き合い~みたいな話でもなくて――ただ、居合わせる全員が独身男性」
「うわ」
「本当に縁談だったら話は早いんだけどね。やり口がムカつくわ」
そう語る琥珀の表情は露骨にうんざりしていて、青葉は眉尻を下げて掛ける言葉を探した。お金を持っていて羨ましいなと思う気持ちも皆無ではなかったが、それに伴う代価がそういう環境なのだとしたら、やはり一概に羨ましいとも言えない。
どう励ませばいいのか分からずに青葉が眉尻を下げて言葉を探していると、「別に励まさんでもいいから」と琥珀は軽く笑い飛ばす。
「で、だ。私の目的はそういう煩わしい話から完全に脱却したい。自由気ままにやっていきたい訳よ――とはいえ、まあ、実を言えば普通に断ろうと思えば断れるんだけどね」
「家族を人質に取られているとかですか?」
「惜しい。その家族が発端だから始末に負えないのよ」
眉を顰める青葉に、琥珀は恥じ入るようにして事情を説明。
「母さんが父さんの会社を大きくしようとしていてね。会社関係者が上手く婚姻すれば、時にそれは会社の利益になるから――そうなるように誘導しているんだと思う」
青葉は自分の顔が徐々に険しくなっていくのを自覚していた。
青葉は自分がロマンチストだとは思っていない。しかしながら恋愛とは個々人の自由でするべきだという思想を持っている。だからこそ、それを親が自分の会社の都合で捻じ曲げようとする様子には少なからず反感と嫌悪感を抱き、気付けば眉根がぐっと寄っていた。
「それは、あまり良くないと思います」
青葉がハッキリと言うと、琥珀は嬉しそうに頬を綻ばせながら頷いた。
「私もそう思う。でも生憎と断りにくいのが――父さんに借りがある」
どういう意味だと青葉が視線で問えば、琥珀は肩を竦めた。
「簡単な話。私、将来的に父さんの会社に関わる気がないの」
青葉はその意味を少し考える。それは別に子供の自由ではないかと思ったが、しばらくして彼女の経営するホテル会社が父親のポケットマネーにより購入されたことを思い出す。『あ』と何か気付いたような青葉の顔で、琥珀も苦笑を浮かべた。
「気付いた? そ、父さんの会社に関わる気はないのに、父さんから会社だけ買ってもらっている。勿論、これは無理に買い与えられただけって話でもなくてね」
琥珀は幾らか気恥ずかしそうに薄っすらと頬を染め、お茶目に指でお金の輪を作る。
「実を言うと私……お金は欲しくてさ」
「それはまた、どうしてです?」
「高校卒業したら会社を売って、資産運用だけでニート生活したいのよ。
|経済的自立による《Financial Independence》|早期リタイア《Retire Early》、いわばFIREね」
聞いたことがある。意識の高そうな経営者や株や投資がどうのこうのとたまに耳にする。
そこまで話を聞いて、ようやく青葉の中で全ての点が線で結ばれた。
「つまり……お父さんはその夢を応援して、会社を買ってくれた、と?」
「察しがいいわね。そ、父さんとは別に仲悪くないし、まあ、恐縮だけど私には経営の手腕があるって買ってくれてるみたいでね。それを成長させて俺に売って来い、って」
「か、かっこいい……!」
なんだその小市民のスケールでは推し量れない金持ちかつ経営者のやり取りは。青葉は目を輝かせ、琥珀は「そう?」と呆れたような微笑で目を逸らした後、続ける。
「で、だ――私は四人兄妹の末っ子なんだけど、私以外も父さんの会社で役職を与えられたりしてんの。ところが、その中で私だけは父さんと無関係な会社で、父さんに対して何かリターンをなんて考えちゃいない。だから、兄姉が頑張ってるのにどうしてアンタは、とか、貰った分だけは返しなさいみたいな、そういう腹積もりなんでしょうね」
「母さんがそれとなく縁談を誘導してくるのは」と辟易した様子で琥珀が続けた。
「あの人は無理強いをしない。自由意思も奪わない。強制力はない。誘導すらしない。断れば引き下がる。あくまでも機会を設けるだけで、ただ、断り切れないことを知っている」
「……断る訳には、いかないんですか?」
青葉が案じるように尋ねれば、琥珀は参った様子で苦笑した。
「無理じゃないけどね。ただ――兄や姉が会社のために頑張ってて、母さんも会社に貢献して。そうして利益を得ている会社の社長のポケットマネーが、私の会社買収に繋がってる」
少なくとも、感情を爆発させるに足る理不尽だとは思えないのだろう。
「表立って敵対するより、疑われても『無理な理由』がある方が楽なの」
琥珀は自分を恥じ入るように頬を歪め、弱々しい言葉をこぼした。
「意外と情けない女でしょ、私」
青葉は難しい表情で琥珀を眺め、言葉を探す。
――正直なところ、それでも恋愛は本人の意思で、というのが青葉の思想だ。しかしながら借りがあると認識している琥珀が、母親からの根回しを断りにくい立場であるというのも理解ができる。だから恋人ができたということにして、回避しようという算段も納得だ。
青葉は少し考えた後、ぐっと目を瞑り、そして覚悟を決めて琥珀を見る。
「つまり、今日、お腹いっぱい食べたらお母さんに反撃できるってことですね?」
琥珀は辟易としていた顔をキョトンと呆けさせたかと思うと、じわじわ、可笑しそうに唇の端を上げていき、ハッと軽く吹き出した後に「そうなる」と、ニヤリ、笑った。
青葉はその表情に安堵する。そして気付けば、自分が生意気にも琥珀を心配していたと自覚した。最初は、自立した、社長らしい振る舞いの格好いい女性だと思っていた。しかし笑顔は歳相応で可愛らしいし、悪戯っぽいところもあり、願望は共感できるもので、苦しみだって理解ができるものだった。彼女のお陰で債務返済に少し余裕ができるし、恩義もある。だがそれとは別に、友人として力になりたい――なんて分を弁えない願望が芽生え始めていた。
「あ、でも。意趣返しに夢中になって恋人のフリを忘れないでね?」
琥珀が念押しするので、青葉はピクッと思い出して肩を震わせた後、
「危ない危ない(もちろん分かっていますよ)」
「逆、逆」
「いな危いな危(よすまいてっか分んろちも)」
「それどうやってんの?」




