第3話
放課後。青葉は終業の号令がかかると同時に教室を飛び出した。
西ヶ浦琥珀が帰る前に会うためだ。利子が毎日二千円もある以上、返済を目指すのであれば善は急げである。焦燥感の炎が背中を焦がすような感覚の中、まるで熱された鉄板を歩くように、隣の教室へ次に次にと足を動かす。
「落ち着け、大丈夫」
そう自分に言い聞かせた青葉は、二年B組の扉の前に立って深呼吸をする。
吐き出すのと同時に帰りのホームルームが終わり、生徒達が疎らに動き出し始めた。
青葉はそれを見届けた直後、気後れしそうになる気持ちを奮い立たせて扉をノックした。
「こんにちは! にし……西ヶ浦さんっていらっしゃいますか⁉」
ざわざわと喧騒が支配していた教室が、一瞬、静まり返る。
そして全員の視線が遠ざかる波の如く一人の人間へと向かった。――まるで先ほど雲雀を頼った時の焼き直しのようだったが、先ほどと決定的に違うのは、遠ざかった波が間もなく押し寄せてきたことだ。手を挙げて声を上げるなどということもせず、その女傑は鞄を担いでずかずかとこちらに歩いてきたかと思うと、横を通り抜けながら一言。
「ごめん、予定あるから歩きながらでもいいかしら?」
体躯は青葉よりも一回り小さいだろう。その風鈴を思わせる綺麗な声はやや下から聞こえた。通りすがりにふわりと香る柔軟剤と椿のシャンプーの香りが心地よく、一瞬、焦りを忘れ、靡く焦げ茶のロングヘアに目を奪われるように通り過ぎた少女を目で追う。
彼女は横目に青葉を見ていた。足は止めずに階段を手で指している。
綺麗な顔だ。明らかに女優らしいオーラを纏った雲雀の美形とはまた別質の、小柄な体躯に見合った童顔ながら、目元だけややするどく、表情はツンと厳しそうな容姿。
彼女は名乗らなかったが、間違いない。彼女が、社長――西ヶ浦琥珀だ。
青葉は確信と共に慌てて足を引きながら追うと、琥珀に並進して頭を下げた。
「あ、も、勿論です! ごめんなさい、お忙しいところ呼び止めて!」
「こっちこそまともに応対してあげられなくてごめんね。用件は? ――っとその前に自己紹介した方がいいか。私がお探しの西ヶ浦よ。貴女は?」
「とっ、東条と言います! 初めまして、よろしくお願いいたします!」
一分一秒を惜しむように階段を下りながら挨拶を交わすと、琥珀は少しだけ相好を崩す。いかにも厳しそうな雰囲気のある女子生徒だったので臆していたのだが、薄く笑えば可愛さが覗いた。思わずふっと気を緩めれば、琥珀は賛辞を口にする。
「簡潔に受け答えできる人は嫌いじゃないわ。話が面白い人も好きだけど――それで?」
青葉は一瞬、冗長に冗談を言うべきか手短に用件を伝えるか悩み、後者を選択。何というか日常生活では鍛えられないだろう脳の筋肉を動かして、話を要約しながら返す。
まるで社会人として働いている気分だ。
「単刀直入に申し上げますと、お仕事を探しています!」
琥珀は歩きながら少し黙ったかと思うと、可笑しそうに口元を緩めてこちらを見た。
「なるほど、つまり私の会社で雇ってくれないかって話?」
「いえ、僭越ながら経緯までご説明させていただきますと――家族が三千万の借金をしました! このままだと債務整理です。それを回避するために何か普通のアルバイトよりも高時給のお仕事がないかと思いまして、A組の南野雲雀さんからご紹介いただきました!」
どこで息継ぎをすればいいのか分からなくなりながら早口で答えれば、「はーん」と琥珀は隣で顎を摘まんで一拍思考する。そして「恐縮だけど」と前置きした。
「その金額を頑張って返すくらいなら債務整理した方がいいと思うわ」
「お……仰る通りだと思います」
青葉が苦々しい顔で認めれば、琥珀は半眼でニヤリと笑って犬歯を見せた。
「つまり、どうしても避けたいなという気持ちがあるわけね」
「そういうことでございます」
話が早くて助かるような怖いような、青葉は冷や汗と共に神妙に頷いた。
「まあいいんじゃない? 借りたものは返す。社会の常識ね」
止まらない足はいつの間にか一階の昇降口までやってきて、青葉は足を引きながら大慌てで歩いて琥珀より一足早く靴を履き替え、背筋をピンと伸ばして彼女を待つ。
何だかまるで付き人にでもなった気分だ。これがオーラというものだろうか。
「そんで、私に何か稼ぎのいい仕事を紹介しろって話か」
靴を持ってきた琥珀が、青葉の横で少しゆっくりとそれに履き替えてくれる。
青葉は胡麻を擂るように臍のまえで手を揉み合わせると、腰をぺこりと曲げた。
「有り体に言ってしまえばそうなります。その、失礼なお話かとは思いますが」
「まあ誰かを頼るとしたら最適解に近い相手でしょ。境遇を考えれば道理だわ」
社長を自分にとって便利に使っている自覚があったので罪悪感と共に項垂れる青葉だったが、琥珀はそれを然して興味がない素振りで突っぱねる。
あの優しい南野雲雀は琥珀を苦手な人間だと言っていたが――なるほど。同じように芯がある人間でも確かに別質だ。雲雀は他者との間に自己の在り方を見出す調和の人間だとすれば、琥珀は必要最小限しか他者に踏み込まない自立の人間。相性は悪そうだ。
しかし青葉からすれば、他者に影響を受けず真っ直ぐ進む生き様は美しい。
「あ、ありがとうございます! それでその……お仕事って何か……」
校門へと歩き出した琥珀を追って青葉が尋ねると、琥珀は眉を顰めて唸る。
「んー……念のため訊くけど、できれば高校と両立してって話よね?」
「はい。手段を選んでいられる立場じゃないとは自覚しているのですが」
そう答えれば、琥珀は一抹の申し訳なさと共に頭を掻いた。
「ウチの会社ってホテルだからね。スタッフとしてアルバイト雇用できないこともないけど、特別に時給がいいわけじゃないし、当然ながら同じ仕事には同じ賃金が原則。立場には同情をするけれども貴女の弁済に特別貢献できるとは思えないわね」
ホテル会社――基本的な賃金が他の職種よりも特別に高いということもないだろう。
確かに雇用する側の人間であるのは間違いないが、だからといって何か借金返済に効果的な一手を打たせてくれる相手かと訊かれると、そうとも限らないということだ。
「そ……そうですよね。そんな美味しい話はありませんよね」
青葉はしょんと顔を萎れさせて隣で殊勝に頷く。
これでもう真後ろまで債務整理がやって来たことにはなるが、しかしまだ全ての手が潰えたとも言い切れない。もしかしたら求人サイトで難しく危険な高時給バイトが見つからないとも言い切れないし、最悪はシフトに沢山入れるバイトを探せば月給十万くらいは目指せるだろう。とても頑張ることにはなってしまうが、まだ頑張れるから頑張ろう。
そんなことを考えていると、しかし琥珀はもう少しだけ粘ってくれていた。
「んー……他は……他……………………」
自身が所有しているホテル以外での仕事を思い浮かべる様子で、遠い目に独り言。青葉は何かあってくれと思わざるを得ず、手を顔の前ですりすりと合わせて祈る他はない。
青葉が半ば諦めながら祈っていると、不意に琥珀の頭が跳ねた。声が漏れ出る。
「あ」
ピタッと擦り合わせる手を止めた青葉は、見開いた目で琥珀の横顔を見詰める。琥珀はこちらを見ることもなく、やや難しそうな表情で今度は虚空を見詰めて呻くように言った。
「あー…………ある、けどもだ」
それを聞いた瞬間には、青葉は琥珀に身体を向き合わせ、足を止めない彼女にカニのように付いていきながら頭を下げる。何度も何度も下げながら依願した。
「ご、ご紹介いただけませんか⁉ 誠心誠意働きますので! 何卒! 何卒!」
すると琥珀はここに来て初めて足を止め、何やら言い難そうに顔を歪めた。
「いや――うーん、んー……同じ学校の子じゃなくてプロに頼もうかと思ってたんだけど」
青葉も琥珀に倣って足を止め、決意を瞳に見詰める。
「何か資格が必要ですか⁉ もう、あの、数日で取れるものなら明日にでも!」
「そういうものじゃないんだけどね。ちょっと特殊で――まあ、いいか」
頭を掻いてどう言葉を選ぼうか検討を繰り返していた琥珀は、やがて面倒そうに瞑目して嘆息。そして思考を放り出すと、目を薄く開けて青葉を正面から見詰めた。
改めて真正面から見る西ヶ浦琥珀の面立ちには、社長として大勢の従業員の生活を背負う者特有の張り詰めたオーラと、それでいて自分と同年代だということを再認識させるような幼い可愛らしさが同居している。彼女は少し言い難そうに目を逸らすと、言った。
「恋人代行を頼みたいのよ」
――ガツンと側頭部を殴打されたような衝撃を受け、青葉は真顔で言葉を失った。
言葉の意味は知っているが、しかしそれが仕事と直接的に結び付かなくて時間を要する。そんな青葉の沈黙を、しかし急いでいるらしい琥珀はそれでも急かさない。
自分自身でもあまり一般的な仕事の提案だとは思っていないのだろう。唇をもごもごと動かし、気まずそうに目を逸らしている。夏服の薄地のスカートを、軽く握っていた。
やがて、青葉は動揺から立ち直って、辛うじて質問を紡ぐ。
「こ……恋人代行? ですか?」
琥珀は観念するように目を瞑って、嘆息交じりに頷いた。
「そう。ちょーっと面倒くさい状況に陥っててね。詳細は受けてくれるなら説明するけど、恋人がいてくれると諸々の面倒をまとめて突っぱねることができるの」
会社の社長が恋人を作ったということにして実現し得る面倒の回避。
思い浮かぶことは沢山あるが、とにかく困っているというのは間違いなさそうだ。
青葉は少しずつ困惑から脱して、「恋人」と口を押さえながら考える。生まれてこの方、性別を問わずに誰かと交際したこともなければ恋愛感情を寄せたこともない。全く無縁の関係性だと思っていたが、まさかこんな機会にこんな形でやってくるとは。
しかし葛藤も躊躇も無縁ではない。恋人。同性。即決するには少し躊躇われた。
真剣な表情で足下を見ながら考える青葉に、琥珀は腰に手を置いて条件をつらつらと語る。
「給与の業界水準は五千円前後みたいだけど――私が呼んだらできる限りそれに応える責任とそれに伴う業務範囲拡大、信憑性のある同校生徒という付加価値と、煩わしい契約をすっ飛ばして浮いた分の費用。諸々をざっくり算出して……」
やがて琥珀は指を一つ立て、それを青葉へと突き付けた。
その目は教室からここに来るまでの道のりで、東条青葉という人間を既に見定めていた。
「時給一万円。どうする?」
大きく見開いた眼差しでその一本指を見詰めた青葉は、
「是非」
気付けばその手を掴んで快諾していた。
《債務総額》
30,125,035円
《内訳》
天海銀行:30,125,035円(年利3%)




