第14話
西ヶ浦阿子が過労により入院したその日の夜。
青葉を残して一人暮らしの自宅に帰った琥珀は、夕方からずっと寝室にてソファに寝転び天井を見上げていた。制服を着替えることもなく、何かを口にすることもなくただぼんやりと。
2LDKの寝室にはソファとローテーブル、それから作業デスクとベッドだけが置かれている。先程までメールチェックしていたノートパソコンが、煌々と暗がりを照らしていた。
自社のオータム・ホテルズについては特に心配はない。就任直前こそ倒産寸前だった会社は、この一年で既に安定した経営状況に戻っており、現場単位で自立して稼働しており、本部も琥珀の判断を仰がずとも最低限は動けるようにはなっている。
だからこそ、そんな琥珀の頭の中には、ある自らへの問いが巡り続けていた。
自分は西浦サイバーセキュリティの社長になるべきなのだろうか、という問いだ。
真相は確かめていないが、確かめればすぐに露呈するようなお粗末な嘘を吐く人間ではない以上、縁璃の語った社長――父親の持病の悪化は事実なのだろう。実際、病気を患っているという話は本人から何度か聞いている。命に関わるものではないが、仕事には影響するだろう。
事実なら代わりは必要だ。
社長候補は大きく分けて社内と社外に別れる。社外からの招聘と、社内からの昇格だ。
社外から探す場合は高額の報酬を以て、現場を何も知らない人間に一から仕事を説明し、現場との軋轢のリスクを請け負いながら話を進めていく必要がある。対して、社内の場合は致命的なまでに人材不足が障壁だ。現場でのプレイヤーと経営者では求められる能力が違う。
労働者は自らの成果を誇示することで生き、経営者は最終的な数字を以て全てを判断する。そして足下と前を見る労働者に対して、経営者はその先を見通す目が求められる。
自分にはそれがある。これは自惚れではなく、目を背けたい事実として、ある。
何故なら琥珀は中学生時代から父の傍で西浦サイバーセキュリティの経営を見て、そして自ら培ったノウハウと学んだ知識を以てオータム・ホテルズを再建したからだ。そして安定させた。今、自分が別の会社に事業を売却したところでそうそう揺るがない強度で。
つまり、新社長を社内昇格により選出することに伴うデメリット、そしてリスクの大半を、琥珀はクリアできる。そして阿子は現時点でそれが極めて難しいと自他が評価している。
――西ヶ浦琥珀が介入しなければ、西浦サイバーセキュリティの将来は危うい。
それが夜の二十一時まで考え込んで、琥珀がようやく確固たるものにした結論だった。
そうと決まれば副社長に立候補しよう――そんな風に話は単純ではない。
確かにそれができれば簡単だが、生憎と琥珀は経営に興味がない。そして自らを優れた経営者だとも思っていない。自分以上に適した人間がいないというだけで、この自分ですら渋沢栄一のような怪物に比べれば地球と埃のような存在だという客観的な自認がある。
何よりも、琥珀が今オータム・ホテルズを経営しているのは、父親に買収用の金を貸し付けられたから。そして、経営により稼いだお金でFIREしたいからというだけ。
そこに経営への関心は存在しない。
経営や労働とは無関係に、ただ、生まれ持った家庭環境に胡坐をかいて、働くことなくのんびりと余生を過ごしたい。それが西ヶ浦琥珀の夢で、だから、社長にはなりたくない。
――その言葉を、あの西ヶ浦阿子の悲痛な声を聞いた後に恥知らずにも言うことなど、琥珀にはできるはずもなかった。
いつの間にか真っ暗になっていた部屋で、琥珀はそっと闇に慣れた目を閉じた。
琥珀が再び目を開けた時、空は薄っすらと白みがかっていた。
徐にソファから身体を起こし、パキパキと音を奏でる背中を伸ばす。そして重い瞼を擦りながらローテーブルに置いていたスマホで時刻を確かめると、時刻は五時前。
琥珀は頭を掻いて徐に目を閉じた後、しばらくして活動を始めた。
まずは入浴を済ませて朝食に冷凍の弁当をチン。浴室を出た後、さっと身体を拭いて部屋着を着てから髪を乾かす前に空っぽの胃袋を満たす。
髪を乾かしながら電動歯ブラシで歯を磨き、朝のメールチェック。
何件かオータム・ホテルズから確認のslackが飛んできているのでリアクションを付けるなりメッセージを返すなりで殆どを承認。一部は問題点をリストアップして再提出を要求して完了。起床から三十分と経たずに朝の日課を終え、琥珀は珈琲を片手にソファに寄り掛かる。
十分ほど、大事な時間を何もせず消化しながらぼんやりしていた、その時だった。
卓上のスマホが振動し、琥珀は一瞬、期待と共にその画面を見てしまう。
しかし届いたメッセージは電気料金確定のお報せで、琥珀は額を押さえながら嘆息。
それからその手で口元を覆いながら、琥珀はメッセージ画面を切り替える。それは、約二週間前から連絡を取り始めた東条青葉の連絡先だった。
青葉と話がしたかった。それで何かが好転するどころか、論理的な意味など何一つないように思う。既に自らの腹の内は決まったし、彼女に助け舟を求めるつもりはない。
ただ――そう。お腹が空いて好物を食べたくなるように、暇でゲームをしたくなるように。ただただ、純粋に彼女と会いたくて、会って話がしたくて、心が青葉の声を求めていた。
しかし、昨日は取り乱していたとはいえ随分な非礼を働いた。
どの面を下げて彼女と話したいなど言えるだろうかと、自嘲気味に嗤った琥珀はスマホを再び卓上に戻す。その数秒後、再びスマホが震えた。今度は、期待をせずに視線を寄越す。
『おはようございます! 早朝にごめんなさい! 一人で悩まないでくださいね! ね!』
思わず目を見開きながら発信者を見ると、それは当然、東条青葉だった。
琥珀は驚きに目を見開いて伸ばし掛けた手を一度硬直させる。
そして噛み締めるように口元を綻ばせて瞳を伏せた後、果てに、ふっと軽い調子で吹き出すと、「そうね」と一言。呟きながら手を伸ばし、そのメッセージにこう返した。
『会いたい。交通費出すからウチに来てくれない?』




