第15話
朝の七時前、インターフォンが鳴る。「はい」と返事をすると「青葉です!」と元気な声。「開けた」の声と共にオートロックを開錠すれば、嬉しそうに「すぐ向かいます」とのこと。
それから約一分後、再び、今度は玄関用のインターフォンが鳴らされる。
しかし悪巧みしながら覗き窓から様子を窺っていた琥珀は、彼女がボタンを押すと同時にひょいと扉を開けてみる。すると、「わ!」と身を強張らせて怯んだ少女が見えた。
目の前にいたのは、そういえば初めて目にする私服姿の東条青葉だった。
袖を捲った襟付きのシャツに生地の薄いスカート。いつもより少しだけ大人っぽく見える青葉の驚いたような瞳の中には――ぶかぶかの半袖シャツにドルフィンパンツの適当な部屋着を着た琥珀。改めて来客を迎える姿ではなかったかと少し自分を恥じた後、琥珀は扉をもう一段階明けて、青葉の服の裾を摘まんだ。
「おはよう、いらっしゃい。来てくれてありがと」
嬉しくなって琥珀が笑みを溢せば、青葉は驚きを同じくらいの笑みに変えた。
「へへへ、こちらこそ。呼んでくれて嬉しいです」
部屋に入ると青葉はすぐにリビングダイニングに案内される。
リビングには来客用の二人掛けソファとミニテーブル、人を駄目にするビーズソファ、それから一応二人掛けの食卓とテレビがあった。
ソファで待つことしばらく、透明な氷がカランコロンと鳴る紅茶のグラスを持って琥珀がキッチンから戻ってくる。「お構いなく」と言いながら笑顔で手を伸ばせば、琥珀は笑いながらグラスを差し出してくれた。一瞬、指先が触れ合って、危うくグラスを落としそうになる。
琥珀もソファに座り、一息吐いてから紅茶を一口。青葉もそれに倣う。
一分近く氷だけが静寂の中で音を立て続けた。段々と沈黙も心地よいくらいの関係になりつつあったが、それでも今日、この静寂だけは少し息苦しい気がした。
グラスを置いて、結露の付いた指をもう片方の手と擦り合わせる。
果てに、青葉は切り出した。
「……昨日の一件については、どうするおつもりですか?」
債務で困っている自分に寄り添い、そして友達と思ってくれる大事な人。
そんな人が苦しんでいるのを看過できず、青葉は真剣に目を見て尋ねた。
琥珀は薄く笑うと目を逸らし――しかし観念して口を割る。
「昨日あれから考えて、結論は出たわ。私は西浦の次期社長になるべきだと思う」
それを聞いた青葉は、冷静だった。昨日、あの話を聞いてから青葉は青葉なりにない知恵と知識を総動員して考えた。紡ぎ出した結論は、少なくとも西ヶ浦琥珀という人間はこの状況で無責任に不干渉や無関係を貫くような人間ではないだろうという答え。
「昼過ぎにでも、母さんに話しに行くつもり」
青葉は擦り合わせていた五指を離して、膝に肘を突いて手を組んだ。
「それは……その、もう確定されたということでしょうか?」
「そうね。母さんの言いなりになるのは癪だけど、少なくともあのまま阿子姉さんを副社長には置いておけない」
そう呟く琥珀の視線の先はテーブルの上の写真立てに向いていた。そこには、恐らく小学生らしき琥珀と、二人の兄、一人の姉が写った幸せそうな四人兄妹の写真が飾られている。
「母さんは――ムカつくけど人を見る目は確かだし、人としての道は踏み外しても、会社が歩むべき道は間違えない。だからあの人が姉さんに社長は無理だって言うのなら、悔しいし、ムカつくし、腹立たしいし、苛々するし――あ、話してるだけでもムカついてきた。ああ、でも、そうね。うん……事実なんでしょうね。私がやるべきだってことは」
そう言うと、琥珀ははあとストレスを込めた溜息を吐いてソファに頭を預けた。
「正直、姉さんよりも増永さんとかに任せるのが確実だとは思う。ただ――私がそれを主張したところで母さんは頷かない。だって首を横に振れば私が釣れるからね」
「私が縁璃さんと同じ立場でも、似たようなことをするかもしれません」
「アンタも大概性格が悪い方だからね」
「はは」
背もたれに頭を乗せたまま、頭を転がせてこちらを見る琥珀。そこに浮かぶ疲れたような柔らかい笑みに、青葉は少し乾いた笑いを返してしまう。貴女ももう少し、性格が悪くなれば。そうすれば縁璃の誘いなど断れるだろうに――そんな言葉を呑み込んで。
「FIREして不労所得で生きていく……っていう夢は、諦めるんですか?」
すると琥珀は飼い主を疑う猫のような眼差しで、にやりと笑った。
「それ、夢って呼べる?」
やや自嘲気味な言い方に、青葉は薄っすらと唇を尖らせながら言い返す。
「夢じゃないですか。そのために今、ホテルの経営をしてるんでしょう?」
「そうだけども」
「『夢』という呼び方が違うなら、『目的』でも構いません。そうしたいと思って、そのために頑張って。そりゃ……私みたいな債務者からすれば羨ましいような環境ですけども、でも、だからって『こうしたい』という気持ちに強弱とか貴賤はあってほしくないです」
琥珀は青葉の理想論を鼻で笑うこともなく、真面目に受け止め――目を瞑る。
「まあ、そんなに苦労はしないと思うから大丈夫よ。ただちょっと、背負うものが増えて、余計に重くなって、向いていないしやりたくない経営をやらされるだけ」
青葉は目を細めると、一度口を噤んで言葉を丁寧に選んだ。
「貴女の……弱点になるくらい情に弱いところが好きなんです。でもそれは、なんというか、貴女が弱点すらも美徳に変えてしまう辣腕を持っているからで。苦しんで、夢を諦める姿を見たい訳じゃないんです」
青葉は徐に背筋を伸ばすと、膝に手を置いて悔しそうに琥珀を見た。
「私は貴女に笑っていてほしい」
色々な感情を噛み締めるように目を瞑る琥珀へ、青葉は感情を絞り出した。
「何か、できることはありませんか?」
力なくソファの背もたれに頭を乗せていた琥珀の目が薄っすらと開く。
そして胡乱に虚空を眺めること数秒、その桜色の艶やかな唇が薄い弧を描いた。
「ギュっとしてって言ったら、してくれる?」
返答は抱擁だった。青葉は躊躇いなく、けれども焦ることもなく、その身体を抱いた。
目を丸くした琥珀は緩やかに首を起こすと、それから困惑の様子で目をパチクリと瞬きさせる。そしてやれやれと呆れ気味に笑いながら、力を抜いて肩に頬を預けた。
椿のシャンプーの香りと、恐らく石鹸かボディソープの甘い乳の香り。冷房を利かせている部屋だからか、青葉よりずっと低そうな体脂肪率もあって身体は少し冷たくて、華奢だ。力を込めると手折れてしまう花を大事に抱え込むように、青葉は少しずつ腕に力を加えた。
「馬鹿。忘れた? 私、女の子が好きって言ったけど」
先ほどの驚きは、それを承知で抱擁を返すとは思っていなかったからか。
だが今度は青葉が驚く番だった。何度か瞬きを繰り返した後、眉尻を下げて苦笑を返す。
「流石に、今は邪な感情だけじゃないって分かります。私だって琥珀さんが好きですから」
ただ性愛に基づいて抱擁を求められたら、青葉も流石にその意味を考えて躊躇うだろう。
でも今は違う。そういう感情もあるかもしれないし、あることも嫌ではないけれど、そういうものは全て度外視した上で悩んでいるだろう友達を大事にしたかった。
「そうね……そうよね」
琥珀は腕の中で肩に頭を預け、鎖骨に頬を擦り付け。眠たそうに半分目を閉じる。
「部屋を探してたんだ」
「……部屋、ですか?」
「そう。高校卒業したら大学にもいかず無職生活するつもりだったからさ。近くにスーパーがあるとか、ショッピングモールがあるとか。年一のお祭りがどんなもんかとか、海もいいなとか。ハザードマップと睨めっこしたりして、買うマンションを探してた」
青葉は何も言えず、ただ琥珀を抱く腕に軽く力を加えた。
「日本一周とかもしてみたくてさ」
「日本一周……ですか?」
「そう。交通機関に指定はないんだけど、一回の旅行で四十七都道府県を巡るの。免許取りに行こうかなあとか、だったらそれも踏まえて家を決めるかとか。そういえば貴女がバイクの免許を持ってたよなぁとか……そんなことを考えて」
「……必要なら、是非、呼んでください。費用は勿論琥珀さん持ちですけど」
青葉が冗談で空気を緩めようとすると、「ふふ」と琥珀は少し笑ってくれた。
そして肩に頭を預けたまま下から見上げるように青葉を見詰め――目を瞑り、言った。
「もう恋人代行の必要もなくなっちゃった」
「……そうですね」
青葉は何度か出てきた言葉を全て呑み込む代わりに腕に力を込め、厳かに頷いた。
元々、西ヶ浦縁璃が琥珀を社長に据えるため、その餌として顔合わせの場を何度もセッティングしていたのだ。それを避けるための手段として効果的であったことは間違いないが、琥珀が社長になることを決めたのなら、もう青葉は必要ないだろう。
「私は……経営者だから」
「はい」
「労働に対してはできるだけ適性な対価を払いたい。貴女にも、それ以外の人にも」
「勿論です。私を贔屓はしないでください」
労働と対価。この名目を使っている以上、琥珀は不当に労働を緩和もさせないし、不当に対価も増やさない。あくまでも双方の合意に基づいて業界標準の金額を設定する。
それが経営者としての西ヶ浦琥珀の在り方なのだ。
「契約は当初の予定通りに一か月で終了。今後、新たな発注はしない。いい?」
「……はい」
青葉は錆び付いた首をどうにか動かして頷き、琥珀は苦しそうに青葉に抱き着く。
「ねえ、青葉」
「はい」
「私が社長になったら……或いは副社長でも、多分、西浦でやりたいことが出てくると思う。会社の株主宛ての資料を読んだけど、製品開発部の動かし方とか販売ターゲットとかに改善の余地があると思ってて……つまり、手足になってくれる人が欲しくなる」
琥珀は抱き着いていた腕を緩めると、キョトンと首を傾げる青葉を目の前で見詰めた。
「私の隣で働かない? 貴女の、借金のこととかもあるし」
青葉は僅かに目を見張った後、目を細めて泣きそうな苦笑を浮かべる。
「ごめんなさい、琥珀さん」
琥珀は弱々しく笑うと、青葉の腕の中から傷付くのを恐れるように逃げる。
「そうよね。流石に急な話だった」
だが、青葉は離れようとする身体を問答無用に再び抱き寄せる。
そして目を白黒させながら瞬きを繰り返して身を強張らせる琥珀へ、首を横に振った。
「いえ、そうではなくて。私は、この期に及んで人の心配をするくらいお人好しな琥珀さんに、やっぱり――幸せになってほしいです」
本意を明かせば琥珀は嬉しそうに笑い、けれども申し訳なさそうに目を逸らす。
しかしそれが謝罪とどう繋がるのか分からない様子で再び青葉を見ると、眉を顰める琥珀。青葉は、ほんの昨日、琥珀に言われた言葉を思い出しながら至近距離で顔を見詰める。
「これは私、よくない風潮だと思うんですけど」
「……な、何が?」
「人って、誰かのために自己犠牲的に頑張ることを盲目的に美徳と言いがちだと思います」
続きを察して苦笑気味に半眼になる琥珀へ、青葉は満を持して堂々と言ってやった。
「そんなことはない」
「だから」と、青葉は肩を竦める琥珀に続けてこう言った。
「探しませんか? どうにかする方法」
「……え?」
肩を竦めるように青葉の顔を上目遣いに確かめる琥珀。
青葉は自らの胸に手を置いて、琥珀よりもずっと情けない自分を曝け出す。
「私は琥珀さんと違って経営に疎いし、難しいことを何も知りません。挙句は知らないことを恥じることもせず堂々と宣う始末。度し難い愚物で軽蔑に値するカスです。汚物です」
「何もそこまで言わんでも」
「でも! そんなカスでも貴女が優しい人だってことは分かります。そんな貴女が、自分のやりたいことを諦めて、あのちょっと嫌味なお母さんに屈するのが我慢できません!」
青葉は抱き締める腕を離すと、両手で琥珀の両肩を掴んだ。
「情に弱い貴女のままでいてください。でも、自分を諦めないでください」
それはつまり、トレードオフになっている姉の阿子を苦しめ続けることと同義。
琥珀は嬉しく思いつつも、しかし素直には頷けず、その瞳を写真立てへと逸らした。
「でも」と青葉は琥珀の顔を掴んで、その目を自分に向けさせた。
「その上で、大事な家族も守れるような――そんな妙案を考えてください」
――琥珀の目が、一瞬、揺れた。次いで、徐々に、徐々に、青葉を見詰めながら目を見開いていく。狭まった視界があっという間に広がったように。トンネルを抜けた先に美しい雪国があったように。何か、青葉では思いつかないような何かに行き着いたように。
東条青葉は馬鹿だ。多少知恵は回るし、妙な特技も幾つか持っているが、馬鹿だ。
少なくとも西ヶ浦琥珀と比べれば頭は回らないし知識もない。だから青葉は琥珀の救世主には慣れないかもしれない。だが、救世主が、自分を救おうと思えるように、道化を演じることならばできる。
「私には思いつかないので、琥珀さんが考えてください! そのためにできることがあるなら、私がやりますから! 何でも! 靴だって何だって舐めますよ! アイスでも!」
琥珀は一瞬、泣きそうに顔を歪めると、口元を綻ばせながら青葉を見詰め続ける。
「私の借金なんて、最悪は債務整理すればいいんですから! 働き疲れてお母さんが倒れる前にあの人を私が殴り倒します! 私は、大丈夫です!」
発端はお金が欲しいという偽装交際から始まった。今もお金は欲しい。
母は今も債務に胸を痛めていることだろう。だが、それでも。
「だから今は、貴女を大事にさせてください」
琥珀は自分の顔を掴み続ける青葉の手に手を重ねると――柔和な笑みを溢す。
「両取りか……随分と我儘ね」
「全部、幸せになってほしいじゃないですか」
琥珀は一度その言葉を噛み締めるように黙ると、小さく、しかし確かに頷いた。
「そうね――視野が狭かった。どっちも取るなんて考えてなかった」
そう言って目を逸らした琥珀は、再び写真立てを見ながら苦笑気味に小さく嘆息する。
「ほんと、私は経営者なんて向いてないわね」
そう言いながら青葉の手を顔から剥がすと、その手を二人の間に持っていき、強く握り締める。自分よりもずっと非力なのに、けれども何故だか抜け出せない力で。
「でも、こういう関係を築けるならやっぱり――とも思う」
そう言って少しだけ明るく作り変えた笑顔は、さっきよりもずっと前向きだった。明るい笑みを滲ませた青葉に、琥珀は立ち上がりながら不敵に指をさした。
「少し考えるから手伝って。悪いけど、今日は帰れないかもよ?」
青葉はいそいそとボタンを外して、袖捲りを全く力のない腕を見せると力強く笑い返した。
「望む所です!」




