第9話 黙って行かないで
煙草がなくなっても、しばらく3人で座っていた。通りかかった女をミーシュカが目で追い、デーニャが笑う。昨夜あれだけ殴られたのに、集まればいつもと変わらなかった。
ミーシュカが足をさすり始めたところで、俺は立った。
「アーニャのところへ行ってくる。お前ら、あいつとは話したか」
デーニャが首を振った。
「会ってねえ。昨日、帰る時の顔なら見たけどな」
「まだ怒ってると思うか」
「あの顔で帰って、寝たら忘れる女じゃねえだろ」
ミーシュカが脚を引き、俺の通る場所を空けた。
「今度は追い出されても戻るなよ」
「お前らよりは話が通じる」
「じゃあ、その顔がこれ以上腫れないうちに帰れ」
アーニャは家にいた。階段を上がって呼び鈴を押すと、少し待たされてから扉が開いた。
俺の顔を見た途端、閉められかけた。慌てて靴先を挟むと、遠慮なく押された。
「痛え! 足が入ってるだろ!」
「見えてるわよ。どけなさい」
「昨日は悪かったって。話くらい聞けよ」
「何が悪かったの?」
「喧嘩したこと」
「私を置いて戻っていったことは?」
隣の部屋の扉が開く音がした。アーニャはそちらを見てから、声を落とした。
「私に先に行けって言って、自分はまた殴りに戻ったでしょう」
「お前まで殴られたら困るだろ」
「だったら一緒に帰ればよかったのよ。私のためみたいに言わないで」
靴先へまた力が掛かった。俺は扉に手をついた。
「待て。今日はその話だけじゃねえ。軍へ行かされるかもしれない」
扉が止まった。アーニャは俺を見たまま、しばらく黙っていた。
「今度はそういう嘘?」
「朝、親父に軍事委員会へ連れていかれた。検査も受けた」
「書類は?」
「家にある。次に来る日も書いてある」
「持ってきてから言いなさいよ」
それでも扉は開けてくれた。
靴を脱ぎ、潰れた先を手で直した。廊下には家族の靴が並び、壁のフックに買い物袋が掛かっていた。両親はまだ仕事から戻っていないらしく、家の中は静かだった。
台所へ通され、ビニールのテーブルクロスを掛けた机の前へ座った。アーニャも向かいへ座る。茶は出てこなかった。
俺は親父が署へ迎えに来たところから話した。朝、家を抜け出そうとしたことは省いた。
「空挺の候補だってよ。親父と同じだぞ」
「ヴァシーリーおじさんが頼んだの?」
「頼んでねえって。向こうの将校とは知り合いだったけどな」
「あなたは何て言ったの」
「帰りたいって。聞かれたことに答えろで終わりだよ」
アーニャは机に置いた俺の左腕を見た。
「傷は?」
「これで帰してくれるほど親切じゃなかった」
「軍隊の話じゃなくて、痛むのか聞いてるの」
袖を上げると、彼女は包帯を解かずに端を確かめた。俺が腕を伸ばす間、黙って待っていた。
「動かすと少しな。朝よりはましだ」
「いつ行くの」
「また出頭するのは数日後。その日に送られるかは分からねえ」
「帰ってくるまで長いんでしょう」
「すぐには帰れねえだろうな」
アーニャが手を離した。俺は袖を下ろし、椅子を少し後ろへ引いた。
「お前なら、俺がいなくても相手には困らねえだろ」
机の下で脛を蹴られた。
「何すんだよ」
「わざわざそれを言いに来たの?」
「違うよ。毎晩泣いて待ってろとも言えねえだろ」
「頼みもしないうちから、私が待たないって決めないで」
俺は口を閉じた。
ほかの男と遊ぶなと言えるほど、行儀よく付き合ってきたわけではない。それでも、俺がいない間に誰かとあの店へ行くのかと思うと、面白くなかった。
アーニャが立ち、やかんに水を入れた。ガスに火をつけてから、戸棚の茶葉を取った。
「出発が決まったら教えて。人から聞くのは嫌だから」
「分かった」
「それまでにまた捕まるのもやめて」
「俺から探しには行かねえよ」
「ローマを見かけても?」
俺は少し考えた。
「見なかったことにする」
「今、迷ったでしょう」
「あいつの顔を忘れようとしてたんだよ」
アーニャは返事をせず、カップを2つ出した。
薄い茶と一緒に、ビスケットも出てきた。俺が2枚目へ手を伸ばすと、皿を彼女の方へ寄せられた。
「まだ怒ってるんだからね」
「分かってる。大人しく座ってるだろ」
帰る時、靴を履いたところで呼び止められた。
「チョーマ。本当に黙って行かないでよ」
「言うって。窓の下で出発を叫んでやろうか」
「普通に来なさい。近所に聞かせる話じゃないわ」
扉は来た時より静かに閉まった。
その後の数日は、俺にしては大人しく過ごした。
ミリツィヤには1度呼ばれた。セミョーノフ少佐の机にはジグリの写真があり、どこから乗って、どこへ停めたか、また説明させられた。
少佐が写真を脇へ寄せた。
「持ち主は修理するところがあると言っている。車が戻ったから済んだと思うなよ」
「俺が返したわけじゃねえよ。置いたまま捕まったんだ」
「そういう訂正だけは早いな」
次は乱闘だった。俺が殴った連中も、こちらが先に手を出したと話しているらしい。
「全員、自分は悪くないと言っているぞ」
「じゃあ、誰も捕まえなくてよかっただろ」
「お前、その口を軍隊へも持っていくのか」
開いた窓から通りの車の音が入り、廊下では電話が鳴っていた。少佐は書き終えるまで俺を待たせ、最後にまた呼ぶかもしれないと言った。
何も済んではいなかった。それでも、その日は自分で署を出られた。
親父は仕事へ行き、帰ればいつも通り飯を食った。俺が夜に戻ると時計を見たが、アーニャと何を話したかまでは聞かなかった。
次の出頭日だけは確かめてきた。
「何時に出るか、分かっているな」
「紙はなくしてねえよ」
「時間を聞いている」
「分かってる。遅れねえよ」
母さんは、その紙を俺よりよく読んでいた。
机へ下着と靴下を並べ、石鹸をプラスチックのケースへ収める。歯ブラシと歯磨き粉、小さなタオル。俺が座って見ている間にも、持っていく物が増えていた。
針と糸を小さな包みにするのを見て、俺は書類を指した。
「まだ、その日に出発するか分からねえんだぞ」
「決まってから店を回るよりいいでしょう」
「軍でも服くらいくれるだろ」
「今、持参するように書かれている物を揃えているの」
横を通った親父が袋を覗いた。
「必要な物は持て。ただし、自分で運べる量にしろ」
母さんが大きなタオルを加えると、親父はそれを取り出した。
「これは小さいのでいい」
「身体を拭く時に困るでしょう」
「大きければ乾くのにも時間が掛かる」
「じゃあ、こっちをもう1枚入れます」
親父は畳まれたタオルを見て、それ以上は言わなかった。
母さんは戸棚から菓子の袋も持ってきた。包み紙を捻った飴とビスケットを、隙間へ押し込んでいく。
「それ、多くねえか」
「途中で食べなさい。周りの子にも分けてあげられるでしょう」
「俺が全部食うかもしれねえぞ」
「だったら余計に、少しずつ食べなさい」
親父が袋を持ち上げ、中を確かめた。
「食べ物を増やしすぎるな。着替えが潰れる」
「上に載せればいいでしょう」
「遠足へ行くんじゃない」
「分かっています。だから用意してるのよ」
母さんは親父の手から袋を取り、下着を畳み直した。親父は菓子を机へ置いたが、結局、母さんが最後に戻した。
俺が横から飴を1つ取ると、手を叩かれた。
「それは持っていく分。今食べないの」
「俺が食うために買ったんだろ」
「だから、向こうで食べなさい」
飴を戻すと、親父が少しだけ口元を緩めた。さっきまで菓子はいらないような顔をしていたくせに、俺の分を取り戻してはくれなかった。




