第8話 決まったら1本
目を覚ました時には、18時を少し回っていた。
口の中が乾き、寝返りを打つと左腕が痛んだ。机には軍事委員会の書類が裏返してある。起き抜けに読みたい物ではなかったので、そのままにした。
台所では母さんが夕食を作っていた。開いた小窓から中庭の話し声が入り、鍋の蓋が湯気で曇っている。親父の椅子は空いていた。
「親父は?」
「部隊へ行ったわ。少しは眠れた?」
「あと半日くらい寝られる。腹が減って起きたんだよ」
切ってあった黒パンを取ると、母さんがこちらを見た。
「手を洗って。それと皿を使いなさい」
「親父がいなくても小言は減らねえな」
「2人分聞きたいなら、帰ってくるまで待っていてもいいのよ」
手を洗って皿を出した。パンを齧り、鍋を覗く。肉とジャガイモが煮えていたが、まだ食卓へ出す気はなさそうだった。
「デーニャのところへ行ってくる。ミーシュカが帰されたかも聞きたい」
「今日は家にいなさいと言ったでしょう」
「少し顔を出すだけだよ」
「だったら、そこで座って話すだけにしなさい。お酒も駄目よ」
母さんは匙についた汁を鍋へ落とし、蓋を戻した。
「日付が変わる前には帰ってきなさい。お父さんには、どこへ行ったか言いますからね」
「場所まで教えるなよ。迎えに来たら恥ずかしいだろ」
「そうなる前に帰ってきなさい」
俺はもう1切れパンを取り、上着を着た。
外はまだ明るかった。中庭の物干し綱にはシーツが下がり、その下を子供が自転車でくぐっていた。入口脇のベンチでは、バーブカたちが種を割って食べながら話している。
俺の顔を見ると、1人の手が止まった。挨拶だけして通り過ぎたが、背中でまた声がした。明日には母さんも何か聞かれるだろう。
遠回りをして、ジグリを停めた場所へ寄った。
車はなかった。ミリツィヤが持っていったのか、持ち主が見つけたのか。座席の下のビールも消えていた。降りる時に持って出ればよかった。
クラブの前では、男がホースで歩道へ水を流していた。昨夜ミーシュカが相手を押しつけた車も、見物人もいない。
入口の男が俺を見た。目を合わせず、そのまま歩いた。テーブルの弁償まで今ここで言われたら困る。
デーニャは自分の集合住宅の裏で煙草を吸っていた。地下室へ下りる階段の手すりに腰を載せ、片足だけ地面についている。
俺を見ると、口から煙草を離した。
「帰されたのか。家へ行こうかと思ったけど、中佐がいたら嫌だからやめた」
「正解だ。朝から軍事委員会へ連れていかれた」
「本当に?」
「検査して、空挺の候補だとよ」
デーニャは俺の顔を見たまま黙り、それから吹き出した。
「親父と同じところかよ」
「まだ候補だ。嬉しそうな顔するな」
「昨日はハンドルの下に潜ってた奴が、今度は飛行機から降ってくるのか」
「笑ってろ。お前の上へ降りてやる」
デーニャは笑いながら煙草を差し出した。俺は1本抜き、火も借りた。
「ミーシュカは?」
「昼には帰ってきた。骨は折れてねえけど、しばらく歩けねえって。行くか」
ミーシュカは自宅の入口前に座っていた。包帯を巻いた方の靴を脱ぎ、脚を伸ばしている。俺たちを見ても立たず、尻だけずらした。
「チョーマ、ひでえ顔だな。親父にも殴られたのか」
「昨夜の分だよ。お前こそ、その足じゃ女を追えねえな」
「向こうから来てもらう」
デーニャが入口脇の壁へ寄りかかった。
「昨日も誰も来なかっただろ」
「うるせえ。お前が横で笑ってるからだ」
俺はミーシュカの隣へ座った。建物の前を買い物帰りの女が通り、袋から長いパンが突き出していた。ミーシュカは脚を引こうとして顔をしかめ、そのまま女に跨いでもらった。
通り過ぎるのを待って、俺は包帯を指した。
「お前が転ばなきゃ逃げられたんだ。次の酒は出せよ」
「置いてけって言っただろ。戻ったのはお前じゃねえか」
「本当に置いてったら文句を言うだろ」
「言うよ。友達が転んでるのに逃げたってな」
「ほら見ろ。面倒くせえ奴だ」
ミーシュカが笑って肩を叩いた。殴られたところだったので、手を払い落とした。
デーニャは昨夜の後のことを少し聞いていた。ローマは朝になってミリツィヤに呼ばれたらしい。ナイフの男も、店の連中が名前を知っていたという。
俺はデーニャを見上げた。
「拳銃の奴は?」
「コースチャって呼ばれてる。最近ローマたちと飲んでる男だってよ」
「どこで聞いた」
「店だよ。昼に寄った」
「ローマが連れてきたんじゃねえのか」
「そこまでは知らねえ。前からの仲間じゃないらしい」
俺は膝の間へ灰を落とした。
「銃を持ってるなら、先に見せとけよ。あんなに近づかなかったのに」
「お前、ナイフには瓶を持って向かっていっただろ」
「あれは切られたからだ」
「切られても向かっていくなら、見せるだけじゃ無駄じゃねえか」
左腕へ目を落とした。袖の下で包帯が擦れた。
ミーシュカが煙草を持つ手を上げた。
「俺は銃を見たら、すぐ放したぞ」
「見てたよ。急に大人しくなりやがって」
「お前だって止まっただろ。あれに殴りかかれるかよ」
俺は返事をせず、煙を吐いた。近くの窓からカセットの音楽が聞こえていたが、誰かが音量を下げた。
デーニャが短くなった煙草を見た。
「車も見つかってるって。持ち主が署へ来たらしい」
「金を払えとか言ってんのか」
「そこまでは聞いてねえ。店の分もあるし、しばらく金は使うなよ」
「元からねえよ。車はお前も乗っただろ」
「動かしたのはお前だ。自分でやるって言ったじゃねえか」
「なら次から、自分で用意した車には1人で乗れ」
デーニャは口を閉じた。煙草の箱を開け、残りを数えている。俺がまだ見ていると、箱をポケットへしまった。
ミーシュカが俺の袖を引いた。
「その腕でも軍へ行けるのか。治るまで待ってもらえよ」
「診せた。傷は記録されたけど、次も来いって」
「丈夫なのも損だな」
「お前の足を貸せ。次だけそれで行く」
「嫌だ。俺が代わりに走らされるだろ」
次の出頭日は、1週間も先ではなかった。何が決まるのかはまだ分からない。寝ている間に、親父が断っておいてくれるわけもなかった。
デーニャが煙草を地面へ落とし、靴で潰した。
「本気で逃げるなら、街を出なきゃ無理だな。俺の家なんか、中佐なら最初に来る」
「モスクワに誰かいねえの」
「泊めてくれる奴はいない。お前は?」
「いたら聞いてねえよ」
「列車代は」
母さんから貰った金をポケット越しに触った。飯を買うための金だった。モスクワへ行って、その後どうするかまでは考えていない。
俺が黙っていると、デーニャが続けた。
「まず働け。逃げるにも金が要る」
「お前まで親父みたいなこと言うなよ」
「俺に金を借りるつもりなら、先に言っとく」
ミーシュカが伸ばした脚の位置を変えた。
「行ってくればいいじゃねえか。飯も寝床もあるんだろ」
「じゃあお前が行けよ。食う量なら俺より向いてる」
「俺は怪我人だ。大事にしろ」
「都合のいい時だけ怪我人になりやがって」
デーニャが笑った。俺もミーシュカの足を蹴るふりをした。ミーシュカが慌てて脚を引き、痛みに顔を歪めたので、途中でやめた。
「帰ってきたら、お前らにも整列させてやる」
「まずお前が命令を聞けるようになってから言えよ」
今度はミーシュカまで笑った。
俺はデーニャへ手を出した。もう1本欲しかったが、箱を開いた途端に引っ込められた。
「最後だ。これは俺の」
「友達が軍へ行くかもしれねえんだぞ」
「まだ候補なんだろ。決まったら1本やるよ」




