第10話 行ってこい
出頭日の朝は曇っていた。
母さんは台所と俺の部屋を行き来し、詰め終わった鞄をまた開けていた。俺は冷めかけた茶で黒パンを流し込んだ。昨夜は日付が変わる前に帰ったし、酒も大して飲んでいない。
母さんが鞄の底へ手を入れた。
「裁縫道具はどこへ入れたの?」
「母さんが入れたんだろ。俺に聞くなよ」
「使うのはあなたでしょう」
「ボタンが取れたら探すって」
小さな包みを出され、針と糸をもう一度見せられた。母さんはそれを外側のポケットへ移した。石鹸も靴下も、今朝だけで2度は見せられている。
親父が軍服姿で廊下へ出てきた。腕時計を確かめ、書類入れを持ち上げた。
「何で今日も軍服なんだよ。俺の親父ですって見せて回る気か」
「この後、部隊へ行く」
「息子のために1日休もうとは思わねえの?」
「時間が掛かるなら、向こうから連絡する」
俺は残りの茶を飲んだ。母さんが鞄を持ち、親父が玄関を開ける。俺が受け取ろうとすると、母さんは車までは自分が持つと言った。
軍事委員会の前には、前回より人が多かった。
若い男たちが鞄を足元へ置き、その周りを家族が囲んでいた。母親からパンの包みを押しつけられる奴も、女と建物の脇へ離れていく奴もいる。
父親らしい男が息子へ煙草を渡していた。2人とも何も喋らず、同じマッチの火でつけている。俺もポケットへ手を入れたが、入口から名前を呼ばれた。
受付では女が名簿を指で辿り、俺の書類を脇の束へ重ねた。廊下は鞄と人の脚で狭く、奥へ進むたび、すみませんと避けてもらわなければならなかった。
掲示板の前で母親が職員に何か聞いていた。職員は同じ説明をしたばかりらしく、貼ってある紙を指した。隣の部屋では電話が鳴り、誰かが大声で担当者を呼んでいた。
腕の傷を確かめられ、体調に変わりはないかと聞かれた。眠いと答えると、それ以外はと聞き直された。
何もないと言ってから、言わなければよかったと思った。
待たされた後、別の部屋へ呼ばれた。担当者は俺の個人書類を閉じ、机の端へ揃えた。
「ケルジャコフ。空挺軍へ送ることになった。今日はここから集合所へ移動する。荷物はあるな」
「今日って、今から?」
「集合時刻を伝える。それまでに家族への挨拶を済ませておけ」
「また紙を貰って帰るんじゃないのかよ」
「持参する物は指定してあっただろう。用意していないのか」
「あるけど……母さんが詰めたんだ」
担当者は俺の顔を見てから、机の時計へ目を移した。
「その鞄を持って、遅れずに戻れ」
俺にはまだ話があった。だが、何を言えば止まるのか分からなかった。
候補だと聞いた。まだ決まらないとも言われた。だから今日も夕方には家にいるつもりだった。鞄は、帰る時にまた持って帰ればよかった。
俺は机へ少し身を寄せた。
「一度、家へ戻れないか。置いてきた物がある」
「何だ」
「……身の回りの物」
「家族は外にいるな。必要なら相談しろ。お前はここで待機だ」
担当者は次の書類を開いた。
必要な物は母さんが何度も詰め直した。戻らなければならない理由を考えたが、どれも鞄の中にあった。
外へ出ると、母さんがすぐ近づいてきた。親父は少し離れたところで、別の男と話していた。
「どうだったの。次はいつ来るの?」
「次はねえって。空挺に決まった。今日、集合所へ行く」
母さんの口が少し開いたまま止まった。親父が話を切り上げて戻ってきた。
「何時に集まる」
言われた時刻を答えると、親父は時計を確かめた。
「まだ少しあるな。鞄を持て」
持ち手を受け取った途端、母さんが脇の留め具を外し始めた。
「待って。食べ物を上へ移すわ。途中で出しにくいでしょう」
「そのままでいいよ。自分で出す」
「タオルの下だから、潰れてるかもしれないの」
「母さん。もういいって」
ようやく手が止まった。目が赤くなっていた。
さっきまでは早く鞄から手を離してほしかった。黙られると、もっと困った。
俺は持ち手を握り直した。
「そんな顔するなよ。刑務所へ入るわけじゃねえんだから」
「比べるところが間違ってるわ」
「飯も出るだろ。母さんも俺の分を作らなくて済む」
「あなたの分を減らしたら、お父さんまで足りなくなりそうね」
母さんは目元を拭き、鞄へ目を落とした。俺も次の言葉が出ず、鞄をいったん地面へ下ろした。
入口では若い男が母親から魔法瓶を押し戻していた。向こうで邪魔になると繰り返している。その母親は諦めず、隣に立つ父親へ何か言っていた。
俺の母さんは襟を直し始めた。家を出る前にも同じことをされた。
「着いたら手紙を書いて。住所が分からないと、こちらから送れないでしょう」
「飯が足りなかったら書く」
「足りていても書くの。元気かどうかを知りたいんだから」
「元気だって1行でいいのか」
「最初はそれでもいいわ。部隊の住所はきちんと書いて」
抱き締められた。周りに同じ歳くらいの奴がいるので、俺は少し顔を背けた。
目が合った男も、母親に両手を握られていた。そいつが先に目を逸らしたので、俺も母さんの背中へ手を回した。
「分かったから。ここで泣かれると、俺が何かしたみたいだろ」
「したでしょう。散々」
「今は何もしてねえよ」
母さんが離れ、ハンカチを出した。俺は鞄を拾い、その間に親父へ向き直った。
「親父は何かねえの。時間だけか」
「前に話したことは覚えているな」
「親父の階級を使うなってやつな。聞かれたら無職だって言っておく」
「余計な嘘をつくな」
親父は俺の肩へ手を置いた。いつも姿勢を直される時と同じ手だったが、今度は押されなかった。
「具合が悪ければ申告しろ。怪我も隠すな。平気なふりをして倒れるまで黙っているなよ」
「丈夫だって言われたばかりだぞ」
「今の話ではない。これからだ」
俺は頷いた。親父は母さんを一度見て、声を少し落とした。
「手紙は短くても出せ。こちらの返事が届いたら、それも知らせろ」
「親父にも書くか」
「同じ家だ。母さんに見せてもらう」
「勝手に読むなよ。金を送ってくれって書けなくなる」
「金の話なら、俺にも届くだろうな」
俺が笑うと、親父の口元も少し動いた。肩の手が離れた。
入口から集まれという声がした。
男たちが鞄を持ち、家族から離れ始めた。煙草を最後まで吸おうとして急かされる奴がいる。誰かの母親が、その息子を愛称で呼んだ。
俺は母さんへ向き直った。
「アーニャが来たら、今日になったって言っといて。黙って行ったんじゃねえって」
「伝えるわ。でも、あの子にも自分で書きなさい」
「分かった」
教えろと言われたのに、結局こうなった。あいつはまた怒るだろう。今から会いに行く時間はなかった。
鞄を肩へ掛けると、母さんが近づきかけた。親父がその背へ手を添えた。
「アルチョム。行ってこい」
何か言い返そうとした。いつものように一言くらい返したかったが、何も浮かばなかった。
「……行ってくる」
入口へ歩く途中で振り返った。母さんはハンカチを握った手を上げ、親父は隣に立っていた。
俺も空いた手を上げた。
入口で姓を確かめられ、廊下へ進むよう言われた。前の男の鞄が脚へ当たり、俺は持ち手を短く握り直した。
扉が閉まる前にもう一度見ると、親父たちはまだ同じ場所にいた。




