第11話 隣の席
建物の中で人数を数え直され、今度はバスの前へ並ばされた。
荷物を持った男たちの列へ、家族が横から声を掛けていた。入口には職員が立ち、名簿と顔を見比べている。バスはエンジンをかけたままで、後ろへ回ると排気の臭いがした。
職員が名簿から顔を上げた。
「呼ばれた者から乗れ。荷物は通路へ置くな。後ろまで詰めて座れ」
俺の番が来た時、後ろから名前を呼ばれた。
デーニャとアーニャが走ってきた。その後ろをミーシュカが追っている。足を引きずりながら数歩走り、顔をしかめて歩いていた。
俺は乗り口から離れた。
「何で分かったんだよ」
「お前の母ちゃんが電話を借りて、うちへ掛けてきた。今日なら昨日言っとけよ」
「俺も今日知ったんだ。聞いただろ」
「それにしちゃ、荷物は揃ってるじゃねえか」
「母さんが詰めた。どこに何があるかまで覚えさせられたよ」
追いついたミーシュカが肩へ手を置いた。別れを惜しんでいるのかと思ったら、そのまま体重を掛けてきた。
「寄りかかるな。俺まで動けねえだろ」
「こんな足で来た友達を、少しは大事にしろ」
「呼んでねえよ。家で寝てりゃよかったのに」
「帰ってきたら酒を奢れ。走った分だ」
手を肩から外し、代わりに握った。
「それまでに働けよ。帰ってきても金がねえって言ったら殴るぞ」
「お前こそ軍人になったからって威張るなよ。車1台動かすのに何分かかったか、忘れてねえからな」
デーニャも手を出した。握ると、いつもより強く締めてきた。
「向こうで何か壊しても俺を呼ぶなよ。直しに行ける距離じゃねえぞ」
「お前は先に捕まるなよ。手紙をどこへ送ればいいか分からなくなる」
「その時は中佐の息子だって言ってみる」
「やめろ。親父が来たら、お前まで連れていかれるぞ」
デーニャは親父の方を見て、少し声を落として笑った。
アーニャは男2人を押し退け、俺の前へ立った。走ってきたせいで息が上がり、髪が頬に張りついていた。
「知らせてって言ったでしょう」
「だから母さんに頼んだんだよ」
「電話が来た時、もう出たかと思ったじゃない」
「まだいるだろ。間に合ったんだから――」
上着を掴まれ、引き寄せられた。唇が重なった途端、後ろでミーシュカが口笛を吹いた。
アーニャは顔を離しても上着を放さなかった。
「向こうでほかの女に手を出したら、帰ってきてから覚えてなさいよ」
「俺たち、付き合ってたっけ」
「今決めた。嫌なら言いなさい」
俺は彼女の顔を見た。手はまだ胸元を掴んでいた。
「嫌じゃねえけど、お前もだぞ。俺だけ大人しくしてろってのはなしだからな」
「自分が守ってから言って」
ミーシュカがまた口笛を吹いた。俺が睨むと、指を口から抜いた。
「今の返事、全員聞いたぞ」
「うるせえ。足が治ったら蹴ってやる」
乗り口の職員が俺を呼んだ。
「ケルジャコフ、乗れ。お前だけを待っているんじゃないぞ」
アーニャが手を放した。皺になった上着を直そうとしたので、俺はその手を握った。
「着いたら書く。字が汚くても文句言うなよ」
「読めるように書きなさい。宛先は間違えないでね」
「お前の家なら知ってるよ」
鞄を持ち直し、バスへ乗った。
狭い段を上がると、ゴムの床に靴跡がついていた。座席の背へ鞄をぶつけながら通路を進み、空いていた窓際へ座った。窓には指で擦った跡が残っていた。
外に5人が並んでいた。
母さんがアーニャへ何か話し、ミーシュカは片足を浮かせている。デーニャは親父と目が合うと、手をポケットから出して背筋を伸ばした。
俺といる時には見たことのない姿だった。笑っていると、デーニャに気づかれ、こちらを指された。
職員が前から後ろへ人数を数えた。名簿へ印をつけ、付き添いの軍人と言葉を交わしてから降りる。扉が閉まり、エンジンの音が大きくなった。
母さんが手を振った。アーニャも振り、ミーシュカは口の横へ手を添えて叫んでいた。聞き取れなかったが、最後に飲む仕草をしたので、また酒の話らしかった。
俺も手を上げた。親父はこちらを見て、小さく頷いた。
バスが動くと、母さんが数歩ついてきた。親父が腕へ手を添え、2人とも止まった。身体を捻って見ていたが、角を曲がると建物に隠れた。
前へ向き直り、鞄を足の間へ押し込んだ。
車内はうるさかった。後ろでは同じ町から来たらしい連中が喋り、前の席では包み紙を開く音がした。切ったソーセージの臭いが漂ってきた。
家族が見えなくなった途端、知らない奴らの声ばかり耳についた。
隣の男が俺の肘を突いた。
「さっきの中佐、お前の親父か」
「ああ。向こうで親父の名前を使うなって言われたばかりだ」
「じゃあ、聞かなかったことにする。お前も空挺か」
「そう言われた。お前も?」
「ああ。アンドレイ・セルゲーエヴィチ・コロトコフ。アンドリューハでいい」
「アルチョム・ケルジャコフ。チョーマだ」
握手をした。俺より少し細身だったが、手には力があった。19歳で、工場のある町から来たという。
アンドリューハは手を離し、俺の頬から左腕へ目を移した。
「それ、喧嘩か。出発前くらい大人しくしてられなかったのかよ」
「説教なら親父から散々聞いた。お前は喧嘩したことねえのか」
「あるよ。ただ、そんな顔で見送りには来させたくねえな」
「じゃあ今から同じ顔にしてやろうか」
アンドリューハの笑いが消えた。
「やってみろよ。隣に座っただけで、調子に乗らせる気はねえぞ」
「先に人の顔へ口出したのはお前だろ」
互いに身体を向けると、膝がぶつかった。前の男が座席から振り返った。
「やめろよ。こんな所で始めるな。俺の頭に当たるだろ」
アンドリューハは俺を見たまま、足元の鞄を引き寄せた。
「降りてからなら場所はある。今は座ってろ」
「座ってるだろ。目も悪いのかよ」
窓へ顔を向けた。隣も、それ以上は話しかけてこなかった。
停留所にトロリーバスが停まり、買い物袋を抱えた人間が降りていた。パンの売店の前を通り、工場の門から出てくるトラックを待った。
歩いたことのある道だった。ここで降りれば、まだ家へ帰れる。だが、前の座席には軍人がいて、俺たちの名簿を持っていた。
バスが再び走り出すと、その軍曹が立ち上がった。
「集合所に着いても、指示があるまで降りるな。便所も売店も、勝手に行くなよ。必要なら先に申し出ろ」
後ろで喋っていた連中も、少し声を落とした。
「酒を持っている者は出せ。着いてから荷物の中で見つかる方が面倒だぞ」
誰も鞄を開けなかった。軍曹は車内を見回し、通路に出ていた荷物を指した。持ち主が足元へ引っ込めると、前へ戻った。
隣でアンドリューハが小声で言った。
「誰も持ってねえわけないだろ」
「お前は?」
「少し。親父が持たせた」
「いい親父だな。俺のは注意だけだ」
軍曹が振り返ったので、2人とも黙った。
しばらくして、アンドリューハがパンの包みを出した。その下に小瓶があった。俺が見ると、栓を緩めて差し出した。
「飲むか」
「今の話、聞いてなかったのかよ」
「聞いたから、着く前に減らすんだろ」
俺は前を見た。軍曹は運転手と話していた。車体が揺れ、窓の留め金が細かく鳴っている。
母さんには手紙を書けと言われた。親父には命令を聞けと言われた。アーニャとは、ほかの女に手を出さない約束までした。
酒を出せという命令は、たった今聞いた。
俺は瓶を受け取った。
「ひと口だけな。パンも寄越せ」
ウォッカが喉を焼いた。咳を堪えて瓶を返すと、アンドリューハがパンを千切って渡してきた。
パンを噛みながら、窓の外へ目を戻した。
酒をくれたからといって、さっきの言い方まで許したわけではない。向こうも瓶を鞄へ戻すと、自分の分のパンを食い始めた。それきり、しばらく口を利かなかった。




