第12話 返事の仕方
バスはイヴァノヴォの中心部を抜け、郊外へ向かっていた。
口の中にウォッカの味が残っている。アンドリューハは小瓶を鞄へ戻し、パンの包みを被せた。俺は指についた屑をズボンで払った。
「もう少しねえの」
「酒か?」
「パンだよ。あれだけじゃ足りねえ」
「お前の鞄にもあるだろ」
「下の方だ。出すのが面倒なんだよ」
アンドリューハは包みを開き、今度は大きく千切った。礼を言うと、意外そうな顔をした。
「何だよ」
「礼は言えるんだなと思って」
「返してほしいのか?」
「いいから食えよ」
パンを口へ押し込んだ。こいつは何か渡すたびに、余計なひと言をつける。
窓の外では集合住宅が途切れ、畑が広がっていた。道路脇に木造の家が並び、塀の向こうで女が洗濯物を取り込んでいる。曇った空の下で、シーツだけが白く見えた。
俺は隣へ顔を向けた。
「工場町って言ってたな。どこなんだ」
「フルマノフの近くだ。親父も母ちゃんも工場勤め。俺にも同じところへ入れってよ」
「家で見た顔を工場でも見るのか」
「親父の知り合いまでいる。仕事を抜けたら、俺より先に家へ話が届く」
それは御免だった。夜まで誤魔化すこともできない。
「それで軍へ来た方がましだと思ったのか」
「思ってねえよ。呼ばれたから来た。帰ってからのことは、その時考える」
「また工場へ入れって言われるぞ」
「それまでに親父も諦めるかもしれねえだろ」
俺が数日家を空ければ済むと思っていたのと、大して違わなかった。ただ、こいつは軍へ来ることまでは受け入れている。
俺はまだ、用事が終われば帰れるような気がしていた。
アンドリューハが声を落とした。
「でも、お前の親父なら空挺にも知り合いがいるだろ」
「特別扱いは頼まねえってよ」
「厳しいな」
「自分から17で軍の学校へ入った人間だぞ。俺と話が合うわけねえだろ」
前から声が飛んだ。
「そこの2人、話をやめろ! 説明を聞け!」
軍曹だった。俺たちが喋っている間にも、集合所での行動を説明していたらしい。アンドリューハは口を閉じたが、俺は言い返した。
「聞こえてますよ。話してただけでしょう」
周りの声が止まった。
軍曹は座席の背へ手を掛け、こちらを見た。
「聞こえていたなら、着いた後はどうすると言った」
「指示があるまで降りない」
「その後は」
「……荷物を持って並ぶ」
軍曹は俺から目を離さなかった。
「受け入れの係が人数を確認する。引き渡しが終わるまで、勝手に離れるなと言った。お前を捜すために全員を待たせる気か」
「分かりましたよ」
「その返事は何だ。姓を言え」
「ケルジャコフです」
軍曹が少し顎を上げた。
「ケルジャコフ。命令には『了解しました』だ。説明中は黙って聞け」
言い返したかったが、今度は通路へ呼ばれそうだった。俺は座り直した。
「了解しました」
「誰に言っている」
「了解しました、同志軍曹」
軍曹は数秒こちらを見てから、前へ向き直った。説明が再開され、俺は膝の上で指を組んだ。
アンドリューハの肩が動いた。俺は声を落とした。
「笑ってんじゃねえよ」
「返事を知ってるなら最初からやれよ」
「お前の話に答えてたんだろうが」
「口答えしろとは言ってねえ」
「降りたら覚えてろよ」
「上等だ。降りてから黙るなよ」
俺は前を向いた。また注意されれば、こいつを喜ばせるだけだった。
出発してから1時間ほどで、塀に囲まれた施設へ着いた。門の脇に詰所があり、運転手が窓を開けた。軍曹は書類を持って降り、門番と話し始めた。
車内で誰かが立った。前の方から座っていろと言われ、すぐに腰を下ろした。窓を少し開けると、湿った空気に排気の臭いが混じって入ってきた。
門が開き、バスは中庭へ入った。
すでに別のバスが2台停まっていた。私服の男たちが荷物を持って並び、その横を軍服の兵士が通っていく。家族らしい姿はなかった。
軍曹が戻ってきた。
「前から順に降りろ。荷物を忘れるな。降りたら建物の前へ集まれ」
俺は鞄を引き上げた。アンドリューハが先に通路へ出たので、その後ろについた。小瓶はまだ入っているはずだが、本人は何も気にしていない顔だった。
段を下りると、靴の下で砂利が鳴った。
建物は古く、壁の下だけ新しい塗料で塗り直してあった。入口脇には部屋の案内が貼られ、扉を開けた職員が、荷物を引きずるなと誰かを叱っていた。
短く髪を刈った兵士が出てきた。色の褪せたカーキ色の軍服を着て、腰のベルトには星の浮き出た金属のバックルが光っていた。
襟の内側には細い白布が覗き、ズボンの裾は黒い軍靴の筒へ収めている。泥のついた靴で水溜まりを跨ぎ、俺たちを一度見ただけで建物の裏へ消えた。
軍曹が建物の前を指した。
「2列で並べ。鞄は足元。入口を空けろ」
俺たちは互いの顔を見ながら動いた。先頭が妙な位置で止まり、後ろもそれに合わせたので、列が斜めになった。
軍曹が先頭の男を立たせ直した。
「ここだ。この後ろへ並べ。隣と詰まりすぎるな」
肩を押された男が横へずれ、隣の鞄を踏んだ。持ち主が文句を言い、そちらにも軍曹が向いた。
「荷物を自分の前へ置け。喋らず前を見ろ」
ほかのバスの連中も合わせれば、100人近くいそうだった。革の旅行鞄、布のスポーツバッグ、紐で口を縛った買い物袋。足元に置かれた物はばらばらだった。
革靴の奴も運動靴の奴もいる。革の上着を着た男の隣では、セーター姿の男が袖を引き下ろしていた。皆、同じ方向へ立たされていた。
俺も鞄を足元へ置いた。アンドリューハは隣の列にいた。目は合ったが、どちらも何も言わなかった。
入口から将校が出てきた。軍曹はそちらへ向き直り、人数を報告して書類を渡した。将校は表紙を開き、最初の用紙を確かめた。
その間にも、別の列から姓を呼ぶ声が聞こえた。こちらの軍曹が手を上げ、俺たちを静かにさせた。
将校が列の前へ来た。
「名簿を確認する。呼ばれた者は、聞こえるように返事をしろ。用事があっても点呼が終わるまで待て」
最初に呼ばれた男が手を上げ、小さく答えた。軍曹が声を掛けた。
「手は上げなくていい。『はい』と答えろ。聞こえるようにな」
次の男は「了解しました」と怒鳴った。
「今は命令じゃない。名前を呼ばれたら『はい』だ」
後ろで誰かが吹き出した。軍曹がそちらを見ると、すぐに静かになった。
将校は名簿へ目を戻した。
「アンドレイ・セルゲーエヴィチ・コロトコフ!」
「はい!」
アンドリューハの声はよく通った。さっきまでパンを食いながら喋っていた奴とは思えなかった。
将校が次の名前を読んだ。
「アルチョム・ヴァシリエヴィチ・ケルジャコフ!」
「はい!」
ペンが動き、次の名前へ移った。俺の番はそれだけで終わった。
名前を呼ばれるまで、少し身構えていた。バスで口答えしたことも伝わっているのかと思ったが、将校はもう俺を見ていなかった。
空挺へ行くと言われてから、飛行機もパラシュートも見ていない。覚えさせられたのは、勝手に降りるな、喋るな、列を崩すな、それから返事の仕方だった。
足元の鞄が靴へ触れていた。少し横へずらそうと屈みかけ、俺はやめた。
また何か言われる。
そう考えて手を止めた自分に、腹が立った。




