第6話 空挺軍選抜候補
朝のイヴァノヴォでは、もう人が働き始めていた。停留所に並んだ連中が、停まったトロリーバスへ乗り込んでいく。開いたドアの前で、網袋を持った女が鞄の男に押され、何か言い返していた。
俺は助手席で欠伸をし、腫れた頬が引き攣って口を閉じた。
昨夜のクラブを通る道ではなかった。ジグリに残したビールを思い出したが、取りに寄れとは言えない。あの車をまた親父に見せるくらいなら、酒は諦めた方がましだった。
信号で停まると、俺は親父を見た。
「向こうで名前を書いたら、もう軍から逃げられねえの?」
「書く前から、お前の名前は向こうにある」
「じゃあ親父が代わりに話してきてくれよ」
「身体検査も俺が受けるのか」
「親父なら喜んで受けそうじゃねえか」
信号が変わった。親父は言い返さず、車を出した。
ソ連がなくなっても、この人は軍服を着て出勤している。給料が遅れ、母さんが食費を計算し直していた時も、別の仕事を探す話はしなかった。
俺は親父の横顔を見た。
「何歳で軍へ入ったんだ」
「17だ。軍の学校へ入った」
「自分で決めたのか」
「そうだ」
「アフガンも?」
「あれは命令だ」
前のバスが停まり、親父は車線を変えた。俺は包帯の端から出た糸を指で丸めた。
「撃たれりゃ死ぬって分かってて、よく行けるよな。怖くなかったのか」
「怖かった」
「親父でも?」
「弾は人を選ばん。怖くないと言う奴の隣にはいたくないな。無茶をして、周りまで巻き込む」
昨夜、拳銃を抜いた男の顔が浮かんだ。撃った後は、あいつが真っ先に逃げた。
俺もナイフで切られた後に、瓶を拾って追いかけようとした。そこまで親父へ話す気はなかった。
軍事委員会には早く着きすぎた。古い建物の入口はまだ静かで、親父は車の中で書類を確かめていた。俺が座席へ頭を預けると、降りろと言われた。
入口脇に「軍事委員会」と書かれた看板があった。ヴォエンコマート。母さんがその言葉を口にするたび、俺は聞こえないふりをしてきた。
待つうちに、俺と同じくらいの男が集まってきた。母親に書類を持たされている奴も、友達と煙草を吸っている奴もいた。
俺は親父から少し離れた。今さらだった。軍服の中佐と同じ車から降りたところを、何人かに見られている。
中へ入ると、廊下に長椅子が並んでいた。掲示板には持参する書類の一覧や案内が貼られ、その前を母親たちが塞いでいた。奥の部屋からタイプライターを叩く音がした。
受付の女は、俺の書類と顔を見比べた。頬の腫れには何も言わず、用紙を差し出した。
「そこの机で書いて。分からない欄は空けておいて」
机にはボールペンの出を試した線が何本も残っていた。俺も端でペン先を擦り、氏名、生年月日、住所を書いた。職業の欄で手が止まった。
親父が上から覗いた。
「どうした」
「無職って書くと、暇だからすぐ行けると思われるだろ」
「では何と書く」
「就職先を探してる途中」
「探していないだろう」
俺は「無職」と書いた。紙の上でも親父に負けた気がした。
免許と、学校で機械を弄った経験も記入した。昨夜も車を動かせたのだから、何もできないわけではない。ただ、ここで言えば余計な話になる。
受付へ戻ると、女は用紙を俺の個人書類に重ねた。棚には似たような厚紙の表紙が並び、背から紙の端がはみ出していた。
名前を呼ばれ、検査へ回された。
廊下では服を抱えた男たちが順番を待っていた。扉が開くたびに姓が呼ばれ、聞き逃した奴が隣から肘で突かれる。俺も上着を脱ぎ、前の奴について移動した。
身長と体重を測られ、視力表を読まされ、胸へ聴診器を当てられた。口を開けろ、息を吸え、力を抜け。眠くて返事が遅れると、同じことをもう一度言われた。
どこかで今日は帰れと言われるのを待ったが、次の部屋を指されるばかりだった。
左腕の包帯を見た医師が、ようやく手を止めた。
「いつ、何で切った」
「昨夜。ナイフだけど、俺から頼んだわけじゃねえよ」
「それは聞いていない。どこで手当てを受けた」
署で包帯を巻かれたと答えると、医師は記録してから傷を確かめた。消毒薬の臭いがした。俺は机の金属盆を見ながら、指を曲げたり伸ばしたりした。
「痺れはあるか」
「ねえけど、動かすと痛い。治るまで軍隊は無理じゃないですか」
「傷の状態は記録する。処置の指示も出す」
「それで、帰っていいんですか」
「まだ診ている。腕を動かすな」
顔の腫れや身体の打撲も調べられた。脇腹を押されて息を詰めると、医師は場所を変え、痛み方を聞いてきた。
俺が大丈夫と言っても検査は終わらず、痛いと言ってもすぐ帰してはもらえなかった。
服を着直して廊下へ出ると、親父が待っていた。
「どうだった」
「怪我は書いてくれるってよ。それ以外は、何も言われねえ」
「指示されたことは覚えているな」
「それくらい覚えてるよ」
次の部屋では、将校が俺の書類をめくっていた。机の上には電話と書類の束があり、壁には軍服姿の兵士を並べた古いポスターが掛かっていた。
親父は将校と挨拶を交わし、壁際へ下がった。知り合いらしい。俺には座れとだけ言われた。
免許を確かめられ、学校で習ったことを聞かれた。走るのは得意か、泳げるか。俺は椅子に座り直した。
「走るのと懸垂はできる。泳ぐのも普通に。喧嘩なら同じ歳の奴には大体勝てる」
「最後のは聞いていない」
「使えることを言えって話じゃないんですか」
「聞かれたことに答えられるかどうかも見ている」
将校は書類へ何か書いた。俺が首を伸ばすと、次の質問が来た。
「高い所は苦手か」
「平気だけど、それを言ったら飛行機から落とされるんですか」
「空挺の候補として確認する余地はある。医師の判断や、ほかの検査結果も見てからだ」
「じゃあ高い所は苦手です。今思い出した」
「今の答えも記録しておこうか」
俺は親父を振り返った。腕を後ろで組み、こちらを見ていた。
「親父、何か言えよ」
「質問に答えろ」
「答えたら空挺って言われたんだぞ」
「聞いていた」
将校が俺を呼び、机の方へ向き直らせた。
「父親ではなく、俺と話せ。希望はあるか」
「帰りたいです」
「兵科の希望だ」
「運転ならできます。座ってる方が得意なんで」
将校が免許の欄へ目を戻した。
「車両の仕事も運転だけではない。整備もする」
「空挺よりは楽でしょう」
「そこへ行ったこともないのに、楽だと決めているのか」
「きつい方を希望する理由はないんで」
後ろで親父が息を吐いた。
将校は昨夜の件も聞いた。俺が黙ると、親父が持参した書類の方へ目をやった。
「ミリツィヤでは何を聞かれた」
「車と喧嘩です。拳銃を撃ったのは別の奴で、俺は持ってません」
「その後は」
「呼ばれたら来いって言われました」
親父にも確認してから、将校は書類を脇へ分けた。
「事件がどう扱われているか、確認が要る。軍へ送れば済むという話にはできん」
俺は少し身体を起こした。
「じゃあ、今日は帰っていいんですか」
「残っている確認を済ませろ。配属先も、この面談だけで決まるわけではない」
少し期待したのに、結局は廊下へ戻されただけだった。
親父の横へ寄り、声を落とした。
「親父が空挺だから、俺まで行かせたいんじゃねえの」
「俺は頼んでいない」
「止めてもいねえだろ」
「希望を聞かれていただろう。お前も答えた」
昼近くまで部屋を行き来した。家族や学歴を確認され、別の担当者にはミリツィヤに連れていかれた回数を聞かれた。
指を折りかけて、親父の顔を見てやめた。
担当者が書類から顔を上げた。
「中佐、息子さんには手を焼きますな」
俺は親父を見た。
「俺のいるところで言うことかよ」
「お前の話だ。聞いていろ」
ようやく長椅子へ座れた頃には腹が減っていた。廊下は朝より混み、開いた窓から煙草の臭いが入ってきた。
親父が知り合いに呼ばれて部屋へ入った。俺は扉が閉まるのを見届け、隣の男へ顔を寄せた。
「煙草、持ってるか」
「ある。外へ行こうぜ。ここで吸うと怒鳴られる」
入口脇の吸い殻が溜まった場所で、1本貰った。男も18歳で、工場で働いているという。自動車関係へ行きたいと聞き、俺は煙を吐いた。
「俺、空挺の候補にされそうなんだ」
「よく志願したな。俺は嫌だ」
「してねえよ。親父が空挺で、ここの将校とも顔見知りなんだ」
男が入口を見た。
「さっきの中佐、お前の親父か」
「ああ。今朝、署へ迎えに来て、家へ戻ったと思ったらここだ」
「何して捕まった」
「車を盗んで飲みに行った。そこで知り合いと喧嘩になった」
「よくそんな親父がいてやれるな」
「親父を連れて盗みに行ったわけじゃねえよ」
男が笑った。俺も笑い、唇の傷が開かないよう口を閉じた。
吸い終わる前に親父が出てきた。俺の指先を見てから、隣の男へ目を移した。
「煙草はどうした」
「もらった。今回はちゃんと頼んだぞ」
「そうか。終わったら戻れ」
親父は中へ引き返した。俺は短くなった煙草をもう一度吸い、火を踏み消した。男へ礼を言い、入口へ戻った。




