第5話 逃走失敗
6時になる前に家を出ればいい。
親父はそれまで寝ていると思っているはずだ。デーニャの家で何日か泊めてもらい、母親に嫌な顔をされたらミーシュカのところへ移る。親父も毎日俺を捜して歩くほど暇ではないだろう。
軍事委員会には、俺抜きで行ってもらえばいい。
自分の部屋へ戻り、肉の挟まった歯を爪楊枝でほじった。横になれば眠ってしまう。ベッドの端へ座り、脱いでいた靴下を履き直した。
左腕を曲げると傷が引き攣った。あのナイフの野郎の顔は覚えている。今度は何も持っていない時に会いたかった。
5時半になる少し前、廊下へ顔を出した。
母さんは寝室へ戻っていた。親父のいる部屋も静かだった。壁の向こうで隣の家の目覚ましが鳴り、しばらくして止まった。
上着を羽織り、鍵と金を確かめて台所へ寄った。机に親父の煙草があった。
自分の箱には潰れたのが2本しか残っていない。親父の箱から3本抜き、胸ポケットへ入れた。これだけ残っていれば、すぐには気づかないだろう。
玄関のリノリウムを靴下で歩き、靴へ足を入れた。踵を指で押し込み、音を立てないよう身体を起こす。
鍵へ手を掛けたところで、後ろから親父の声がした。
「どこへ行く」
振り返ると、廊下に立っていた。シャツにズボン姿で、袖口を留めながら俺を見ている。
「ちょっと外へ出る。眠れねえから、空気を吸ってくるよ」
「さっきは眠いと言っていたな」
「殴られたところが痛くて寝られねえんだ。歩けば少しはましになるだろ」
「靴を脱げ」
俺は鍵から手を離さなかった。親父も近づいてこない。廊下の奥で冷蔵庫の運転音が止まり、やけに静かになった。
扉を開けて走れば、階段までは出られる。だが、その先で追いつかれたら何を言えばいいのか分からなかった。
親父が俺の胸元を指した。
「煙草も戻してこい」
「何の話だよ」
「台所で見ていた」
「3本だけだぞ。息子が吸う分くらいいいだろ」
「欲しいなら、先に俺へ言え」
車を盗んだ翌朝に、煙草で小言を食らっている。俺は靴を蹴り脱ぎ、台所へ戻った。胸ポケットの3本を箱へ戻す間も、親父は廊下から見ていた。
「これでいいかよ。泥棒みたいに扱いやがって」
「車を盗んだのは誰だ」
「俺だよ。もう何回言わせるんだ」
「なら、その言い方はやめろ」
部屋へ戻りかけ、窓を見た。親父が俺の視線を追った。
「今度は何を考えている」
「何も。便所へ行くにも断った方がいいか?」
「行きたいなら行け」
扉を閉め、ベッドへ倒れた。肩に痛みが走り、すぐに身体を起こした。掛け布団を丸めて背中へ挟み、壁へ寄りかかった。
逃げるために起きていたのに、残ったのは眠気だけだった。少し目を閉じると、廊下の物音が遠くなった。
次に聞こえたのは、親父が俺を呼ぶ声だった。
台所へ出ると、母さんが卵を焼いていた。目の下にくまがあり、髪も簡単にまとめただけだった。俺の前へ茶を置き、自分も椅子へ座った。
「少しは寝たの?」
「寝かけたところで呼ばれた」
「さっき出ていこうとしたんですってね」
「散歩だよ。親父が大袈裟に言ってるだけだ」
「それなら、これから外へ出られるわ」
俺はガラスのコップを取り、熱い茶を少しずつ飲んだ。窓から入った日が机まで届き、パン屑が目についた。
皿には黒パンと、輪切りのソーセージが並んでいた。さっき食った肉がまだ腹に残っている。卵はいらないと言ったが、母さんは俺の前にも皿を置いた。
「残してもいいわ。向こうで何時まで掛かるか分からないんだから」
「今日中に帰す気はあるんだろうな。そのまま列車へ乗せられるんじゃねえの」
新聞を読んでいた親父が顔を上げた。
「まず書類を確認して、指示を聞く」
「もう話をつけてあるんじゃねえだろうな」
「お前宛ての書類だ。自分で読め」
新聞の横に置かれた紙を、親父がこちらへ滑らせた。母さんが何度も渡そうとして、俺が後で見ると言ったものだった。
「今じゃなくてもいいだろ」
「前もそう言った。それで今日まで読まずにいたんだろう」
俺は紙を引き寄せた。名前だけ確かめ、その先を目で追う。何度読んでも、今日だけ寝ていていいとは書いてなさそうだった。
母さんが左の袖を少し上げた。包帯に血が滲んでいないか確かめ、傷へ触れないよう下ろす。
「痛むなら、向こうでもちゃんと言うのよ。平気なふりをしなくていいから」
「だったら家で寝てた方がいいだろ」
「医者に診せなさいと言ってるの」
親父が茶を飲み、コップを戻した。
「傷は申告しろ。昨夜眠っていないことも、聞かれたら答えればいい」
「飲んでたことまで言うのかよ」
「自分で飲んだんだろう。俺に隠し方を聞くな」
俺は卵へフォークを突き立てた。親父は何でもそれで済ませる。自分でやった、自分で言った、自分で答えろ。
助けてくれる気がないなら、一緒に来なくてもいいはずだ。
「俺1人で行けばいいだろ。場所くらい分かる」
「さっき逃げようとした奴を、1人で行かせると思うか」
「散歩だって言ってるじゃねえか」
母さんがコップを置いた。
「もうその話はやめて。チョーマ、食べるなら食べてしまいなさい。ヴァシーリーも、全部相手にしなくていいでしょう」
親父は新聞へ目を戻した。ようやく母さんが止めてくれたので、俺も口を挟んだ。
「そうだよ。朝からいちいちうるせえんだ」
「あなたも黙って食べなさい」
俺は残りの卵を口へ入れた。
窓の外では、仕事へ出るらしい男が中庭を横切っていた。網の買い物袋を持った女が入口へ戻り、階下で重い扉が閉まった。
いつもなら、こういう音を聞きながら眠っていた。親父が出ていけば、母さんに何か言われても布団を被っていられる。今日は俺の靴まで玄関に揃えられていた。
親父が新聞を畳んだ。台所の時計は6時25分だった。
椅子に掛けていた軍服の上着を着て、書類入れを開く。俺は空になったコップを持ったまま座っていたが、名前を呼ばれる前に立った。
待たせても置いていってはくれない。
玄関で靴を履いていると、母さんが上着の襟を直した。
「向こうでは余計なことを言わないで。聞かれたことに、ちゃんと答えるのよ」
「名前と歳くらいなら言えるよ」
「その先を聞かれても、ふざけないで答えなさい」
「分かってるって」
母さんは清潔なハンカチをポケットへ押し込んだ。続いて折ったルーブル札を出したので、俺は手を差し出した。
「帰りに何か食べる分。煙草にしないでよ」
「分かった。ビールも駄目か?」
「チョーマ。今朝の話をもう忘れたの?」
札を引っ込められる前に受け取り、ポケットへしまった。
玄関の外から親父が呼んだ。
「アルチョム、行くぞ」
母さんの肩越しに時計を見ると、6時30分だった。こういう時だけは、1分くらい遅れてくれてもよかった。
俺は玄関を出て振り返った。
「帰ったら寝るから、昼飯で起こさないでくれよ」
「まず、ちゃんと帰ってきなさい」
軍事委員会へ行くだけだろ、と言いかけてやめた。昨夜も出掛ける時には、朝までに帰って寝るつもりだった。
親父はもう階段を下りていた。俺は手すりへ右手を置き、痛む脇腹を庇いながら後を追った。




