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【打ち切り】チョーマ  作者: 近江もののふ


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第4話 6時になったら逃げよう

 外へ出ると、空はもう明るかった。ひび割れたアスファルトに水が溜まり、朝の冷たい空気が腫れた頬に触れた。親父は車へ向かい、俺は少し遅れてついていった。


 助手席の前で立ち止まり、親父の顔を見た。

「親父、怒ってんの? 署じゃ何も言わなかったけど」

「乗れ」

「はいはい」


 運転席へ回りかけた親父が足を止めた。

「返事は1回でいい」

「……はい」


 車内ではほとんど話さなかった。煙草を出すと、親父は前を向いたまま、しまえと言った。俺は潰れた箱をポケットへ戻した。


 通りにはまだ車が少なかった。頭上のトロリーバスの架線が交差点で枝分かれし、その下を掃除道具を持った女が渡っていた。閉まったキオスクの前には、空き瓶が何本も転がっている。


 窓へ頭を預けると頬が痛み、座り直せば肩が痛んだ。どこに身体を置いても、昨夜殴られたところに当たる。俺は膝の上で包帯の端を弄った。


 集合住宅へ着き、コンクリートの階段を上がった。踊り場には煙草の吸い殻が落ち、どこかの部屋から目覚まし時計が鳴っていた。


 親父が鍵を開けると、台所から母さんが出てきた。

「チョーマ! その顔、どうしたの。腕まで巻いてるじゃない!」

「大丈夫だよ。ちょっと切られただけ」

「顔も切られたの?」

「そっちは殴られた。ローマたちと、ミリツィヤに」


 母さんは俺の顎へ手を添え、顔を左右へ向けた。唇の傷に触れられ、俺は手を退けた。


 イリーナ・ミハイロヴナ・ケルジャコワ。帰らなければ文句を言い、帰れば帰ったで世話を焼く。今朝も上着を脱がせると、台所の椅子へ座らせた。


 ガス台にはやかんが掛かっていた。窓辺の鉢植えを避けて薬箱を置き、母さんが包帯を覗き込む。

「何で切られたの。ガラス?」

「ナイフ。署で手当てしてもらったから、解かなくていいって」

「ちゃんと傷を見てもらったのね?」

「見てもらったよ。腕はまだついてるだろ」


 母さんは俺の手を取り、指先まで確かめた。俺が引っ込めようとすると、手首を押さえられた。

「ふざけないで。もう少し違うところを切られていたら、どうするの」

「俺だって切ってくれと頼んだわけじゃねえよ」

「その前に帰れたでしょう」


 言い返せなかった。アーニャにもデーニャにも、帰ろうと言われていた。


 母さんは濡らした布で、腕に乾いた血を拭いた。俺が顔をしかめると、手を止めた。

「痛む?」

「そこより肩。ミリツィヤに警棒で殴られた」

「手を上げなかったの?」

「上げたよ。それでも殴るんだ。煙草まで取られた」

「煙草の心配は後にしなさい」


 親父は軍服の上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けていた。母さんがそちらを向いた。

「ヴァシーリー。それで、この子はどうなるの?」

「車の持ち主と店の話を聞いてから、また呼ぶそうだ。今朝帰されたからといって、終わったわけではない」


 母さんの手が止まった。

「車って、誰の車なの」

「知らねえ。朝には返すつもりだった」

「知らない人に、どうやって返すの」

「近くへ置いとけば見つかるだろ」


 母さんは布を薬箱の脇へ置いた。親父が俺を見た。

「アルチョム。今夜はたまたま誰も死ななかった。刃が腹へ入っていたら、ここで飯を待ってはいられなかったぞ」

「分かったよ。もうナイフを持ってる奴とは喧嘩しねえ」

「抜くまで分からなかったんだろう」

「……朝から勘弁してくれよ。寝てねえんだ」


 親父は腕時計を見た。

「なら寝ろ。6時に起こす。6時30分には出るぞ」

「どこへ」

「軍事委員会だ」


 俺は親父を見た。冗談を言う顔ではなかった。そもそも、親父の冗談で笑った覚えがほとんどない。

「何で今日なんだよ。軍隊へ行くなんて言ってねえぞ」

「お前宛ての書類は前から来ている。母さんにも言われただろう」

「あれ、どこにやったか分かんねえ」

「俺が持っている」


 親父が棚の書類入れを指した。なくなったままでよかったのに、余計なことをしてくれる。母さんを見ると、俺の上着を畳み始めた。

「親父なら何とかできるだろ。知り合いくらいいるじゃねえか」

「お前を行かせないように頼めと言うのか」

「そうだよ。息子が頼んでるんだぞ」

「頼まん。お前が遊び続けるために頭を下げる理由はない」


 母さんが血のついた袖を表へ返した。

「ヴァシーリー、せめて今日は休ませて。怪我もしているのよ」

「今日は手続きと確認だ。このまま部隊へ置いてくるわけじゃない。傷も向こうで見せる」


 俺は包帯の巻かれた腕を机へ載せた。

「俺が行くかどうかは聞かねえのかよ」

「では聞こう。軍へ行かずに何をする」

「働くよ。仕事くらい探せる」

「どこで」

「これから探すって言ってるだろ。今ここで決められるかよ」


 親父は椅子へ座り、黙って待った。俺は机の表面の欠けたところを爪で引っ掻いた。何か言えばいいと思ったが、店の名前も工場の名前も出てこなかった。


 母さんがやかんの火を止めた。

「工場へ聞きに行く話もあったでしょう。あの日、あなたは朝からいなかったじゃない」

「働いたって給料が出ねえだろ」

「聞きにも行かなかったのに、どうして分かるの」

「隣だって何か月も貰ってねえじゃねえか」


 母さんは茶葉の入った小さなポットへ湯を注いだ。俺の分のコップも出したが、茶を淹れる前に親父へ目を向けた。


 2人で言いやがって。こっちは夜中から殴られ、ろくに眠ってもいない。せめて何か食わせてからにしてほしかった。


 親父が机へ両手を置いた。

「軍へ入れば勝手にまともになるとは思っていない。だが、昼まで寝て、夜は他人の車で遊ぶ生活を、俺たちがいつまでも養うつもりはない」

「じゃあ家を出る」

「どこへ行く」

「デーニャのところとか」

「向こうの親に食わせてもらうのか」


 俺は椅子へもたれた。デーニャの母親に泊まらせてくれと言えば、まず何をしたのか聞かれる。親父へ電話されるかもしれなかった。


 それでも、軍隊へ行くよりはましだ。


 親父が時計を見て立ち上がった。

「5時2分だ。寝るなら今のうちに寝ろ」

「俺は行かねえからな」

「聞いた。6時には支度を始めろ」

「聞いただけかよ」

「お前も時間は聞いたな」


 書類入れを持ち、親父は台所を出た。俺はその背中を睨み、母さんへ向き直った。

「何なんだよ。人の話を聞く気がねえ」

「あなたがそれを言うの?」

「母さんまで親父の味方かよ」

「味方の話はしていません。仕事を探しなさい、喧嘩をやめなさいって、何度言ったと思ってるの」


 分かった、明日行く、もうやらない。俺が何と答えたかも覚えていた。どれも今は使えなかった。


 母さんは血のついた布を片づけ、流しで手を洗った。

「顔を洗ってきなさい。口の周りに血が残ってるわ」

「腹減った。何かねえの」

「これだけ騒ぎを起こして、よく食べる気になるわね」

「昨日からパンしか食ってねえんだよ」


 母さんは冷蔵庫を開けた。俺は洗面所へ行き、鏡を見た。唇は腫れ、片頬には擦り傷がついている。水をかけると沁みたので、そこだけ避けて洗った。


 台所へ戻ると、母さんがフライパンで残り物の肉を温めていた。机には黒パンと、茶の入ったガラスのコップが置かれていた。砂糖を入れて混ぜると、スプーンが縁に当たった。


 パンを小さくちぎって口へ入れた。大きく開けると唇が痛む。母さんは何も言わず、肉の皿を寄せた。


 帰って飯を食ったら、夕方まで寝るつもりだった。起きたらデーニャを探し、ミーシュカが帰されたか聞く。


 アーニャには会ってから何とか言えばいい。軍事委員会へ連れていかれるなんて、考えてもいなかった。


 俺は肉を噛みながら廊下へ耳を澄ませた。隣の部屋で引き出しが閉まった。親父はまだ起きている。


 母さんが汚れた上着を持って台所を出た。俺は椅子に掛けたズボンのポケットではなく、穿いているズボンへ手を入れ、返された鍵を確かめた。


 金は少ししかない。だが、歩いて逃げる分には困らなかった。


 6時に起こしに来るなら、それより前に出ればいい。

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