第3話 夜明けの中佐
俺たちも走った。ジグリまで戻れば逃げられる。角を曲がったところでサイレンが聞こえ、俺は足を緩めた。
「早すぎるだろ! まだ撃ってから幾らも経ってねえぞ!」
「店の中で暴れた時に呼ばれたんだよ!」
デーニャが俺の上着を引いた。大通りから青い帯の入ったミリツィヤの車が曲がってきた。屋根の回転灯が壁を照らし、後ろにも1台続いていた。
ジグリはその向こうだった。デーニャが路地を指した。
「車は捨てろ。こっちだ!」
建物の間へ飛び込み、鉄のゴミ容器の脇を抜けた。割れた舗装に水が溜まっている。避けて走ると、後ろで靴音が乱れ、誰かが倒れた。
振り返ると、ミーシュカが地面へ座り込んでいた。俺は足を止めた。
「何してんだ、立て!」
「足をひねった! 先に行け!」
戻ろうとすると、デーニャに肩を掴まれた。
「2人じゃ運べねえ。追いつかれるぞ!」
「だったらお前は逃げろ。俺が起こす」
「馬鹿、戻るなって!」
手を振り払い、ミーシュカの腕を肩へ回した。右腕を背中へ回して立たせたが、すぐに膝が折れ、俺まで壁へ押しつけられた。
切られた左腕を挟まれ、目の前がちらついた。
「お前、本当に痩せろよ! 少しは自分で立て!」
「だから痛えんだよ! 置いてけって言っただろ!」
路地の入口から警官が2人走ってきた。向こうの角にデーニャがまだいた。俺は顎で先を示した。
「行け! お前まで捕まってどうすんだ!」
デーニャが角へ消えた。振り返ると、警棒を持った警官がすぐ前にいた。
「動くな! そいつから離れろ!」
ミーシュカを壁際へ下ろし、両手を上げた。それでも警棒が肩へ落ちてきた。
「痛え! 手を上げてるだろ!」
「腹を下にして伏せろ!」
足を払われ、頬が地面へ擦れた。背中へ膝を載せられ、腕を後ろへ引かれる。裂けた袖が傷に張りつき、捻られた途端に声が出た。
「そっちは怪我してるんだよ!」
「暴れるな。大人しくしろ」
言い返そうとすると、背中の膝へさらに体重が掛かった。息が吐けず、口へ砂が入った。手錠が締まり、横ではミーシュカも腹這いにされていた。
「チョーマ、お前、逃げられたのによ」
「黙れ。お前のせいで顔まで擦り剥いた」
車まで連れていかれ、俺は後部座席へ押し込まれた。ミーシュカはもう1台へ連れていかれた。
隣では、先に捕まっていたローマの連れが鼻をすすっていた。俺が殴った奴だ。シャツの胸元まで血がついている。
「何だ、お前もか。ローマはどうした」
「知らねえ。お前のせいでこっちまで捕まった」
「俺が一緒に来いって頼んだかよ」
男が肩を寄せてきた。前の警官が振り返り、警棒で座席の背を叩いた。
「まだやるか。署まで黙って座ってろ」
俺たちは互いに舌打ちし、反対側を向いた。
窓の外を閉まったキオスクが過ぎた。販売窓口には金属の蓋が下り、煙草の広告だけが残っていた。街灯の下に人影が見えるたび、俺は顔を背けた。
署の廊下には煙草の臭いが染みついていた。壁は下半分が緑に塗られ、長椅子の背が当たるところだけ剥げていた。奥では酔っ払いが金を返せと叫んでいる。
警官が扉を蹴ると少し静かになったが、俺が机の前へ立つ頃にはまた始まっていた。
手錠を外され、ポケットの物を並べた。煙草、ライター、家の鍵、折れたルーブル札。警官は所持品を用紙に書き込み、俺の箱から煙草を1本抜いた。
続いてライターまで取ったので、俺は手元を指した。
「それ、俺のなんだけど」
「見れば分かる」
「じゃあ自分のを吸えよ。給料もらってるんだろ」
腹へ拳が入り、机の縁へ手をついた。さっき蹴られたところまで痛み、膝が曲がった。
警官が俺の顔へ煙を吐いた。
「ここでは口の利き方に気をつけろ」
廊下から聞き覚えのある声がした。
「そいつは言っても直らん。ケルジャコフ、こっちへ来い」
ヴィクトル・パーヴロヴィチ・セミョーノフ少佐だった。子供の頃から顔を知っている。俺を見る目も、年々うんざりしたものになっていた。
部屋には書類の詰まった棚と、黒い電話の置かれた机があった。窓は少し開いていたが、灰皿から漂う臭いは抜けていない。
少佐が机の向かいを指した。
「座れ。今度は車まで盗んだそうだな」
「借りただけだよ、ヴィクトル・パーヴロヴィチ。売るつもりはなかった」
「持ち主が貸してくれたのか」
「会ってねえ」
「なら、その説明で持ち主が納得するか聞いてみよう」
俺は椅子へ座った。少佐は裂けた袖を見て、廊下の警官へ手当てを頼んだ。それから紙を引き寄せ、拳銃の男について聞き始めた。
名前、顔、服装。誰と来て、どこへ向けて何発撃ったか。ナイフの男についても聞かれたが、俺は知らないで通した。
少佐がペンを置いた。
「お前を切った奴も分からんのか」
「暗かったし、酔ってた。転んで切ったのかもしれねえ」
「ナイフを持った男はいたんだな」
「さあな。よく覚えてねえよ」
少佐が立ち、後頭部を平手で叩いた。首をすくめると、机の上の紙を指で突かれた。
「覚えていることを話せ。お前の喧嘩だけで済む話じゃないんだ」
ローマを庇う気はなかった。腕を切った奴も、次に会えばただでは済まさない。だが、俺を殴った連中へ素直に協力する気にもなれなかった。
俺は床を見たまま黙っていた。少佐はしばらく待ち、やがて椅子へ戻った。
傷を洗われた時は、酒が抜けるほど沁みた。包帯を巻かれ、留置室へ入れられると、ミーシュカが長椅子で靴を脱いでいた。足首が腫れている。
俺は閉まった扉を振り返ってから、隣へ座った。
「デーニャは?」
「見てねえ。逃げたんだろ」
「あいつだけかよ」
「お前も行けばよかったんだ。俺1人なら、転んで座ってたって言えた」
「その面で信じる奴がいるか」
「元からこういう顔だ」
笑った途端に腹が痛んだ。俺が身体を丸めると、ミーシュカも唇を押さえて黙った。
廊下で電話が鳴った。遠くで椅子を引く音がして、また静かになる。窓の外が少しずつ明るくなっていた。
ミーシュカが俺の包帯を見た。
「親父には連絡されたのか」
「セミョーノフが電話するってよ」
「……帰る方が嫌だな、それ」
「代わりに来いよ。息子が少し太りましたって」
「俺はまだ死にたくねえ」
親父はヴァシーリー・セルゲーエヴィチ・ケルジャコフ。空挺軍の中佐で、アフガニスタンへ行っていた。
家でも靴を磨き、時間を守り、酒を飲んでも声が大きくならない。俺が言い訳をすると、最後まで聞いてから同じ質問を繰り返す。怒鳴り合いならまだしも、あれには勝てなかった。
夜が明ける頃、俺の名前が呼ばれた。
ミーシュカを残して少佐の部屋へ入ると、親父が軍服姿で座っていた。机には書類が並び、灰皿に吸い殻が増えていた。
俺は入口で足を止めた。
「……おはよう」
「座れ」
言われた通りにした。親父は頬と包帯を見たが、怪我については聞かなかった。
少佐が書類へ目を落とした。
「ヴァシーリー・セルゲーエヴィチ。車と店の被害を確認している。拳銃の男も捜しているが、息子さんは何も知らんそうだ」
親父が俺を見た。
「拳銃はお前のか」
「違う。ナイフも俺じゃねえ。こっちは切られたんだ」
「車は」
「……俺が盗んだ」
「人を殴ったか」
「殴った。先に押してきたのは向こうだぞ」
親父は少佐へ向き直った。
「必要な手続きはしてくれ。呼び出しには来させる」
「息子を何とかしてくれとは言わんのか」
「やったことをなかったことにはできんだろう」
俺は椅子の上で身体を起こした。
「親父、少しくらい庇ってくれてもいいんじゃねえの」
「何を庇う。車は盗んでいないと、俺に嘘をつかせたいのか」
返す言葉がなかった。少佐が書類を動かし、親父の前へ差し出した。
署名が済むと、俺は預けた物を返された。煙草は減り、箱が潰れていた。文句を言おうとしたが、親父はもう廊下へ出ていた。
箱をポケットへ押し込み、後を追った。車と乱闘の件が済んだわけではない。呼ばれたら必ず来いと、背中へ念を押された。
署を出ると、朝の空気が腫れた顔へ当たった。親父は振り返らず、自分の車へ歩いていった。




